2-3
——————嘆きの衣とは一体なんだろう……
疑問で頭をいっぱいにして屋敷を後にした信蔵は、ひとまず手近にあった茶屋で聞き込んでみることにした。
折り良く博識そうな中年の僧が団子で一服していたため、信蔵は緊張しつつ声をかける。
「あの、お坊様」
「おや、なんでしょう?」
柔らかな笑みを向けられてほっとした信蔵は、おずおずと話を切り出した。
「嘆きの衣なるものを、ご存じでしょうか?実は人からその名を聞いたのですが、私は浅学な上、つい先日江戸に越してきたばかりで、それがどういったものなのかわからず……もし知っておられましたら、ぜひお教えいただけないかと」
少しばかり狸に似た愛嬌のある面差しをした彼は、顎を撫でながら小首を傾げる。
「……嘆きの衣、ですか……はて……いや、申し訳ないのですが、拙僧も初めて聞きました。実はあなたと同じで、江戸に住み始めて間がない人間でしてね……普段は流れの僧をしているのですが、所用があってこちらに参りまして……ここの団子が美味しいというのも、新しくできた弟子に教わったような次第で」
すまなそうに言った僧の言葉尻に被るようにして、
「嘆きの衣とな?」
と、横手で甘酒を啜っていた老爺が急に話に入ってきた。
「嘆きの衣のことであれば、儂はちぃとばかし詳しいぞ。このところ江戸に現れたとかで、巷では結構な噂になっとるからのぉ」
話したくてしょうがないという空気を滲ませながら、ちらちらとこちらを窺っている。
「ご教授願えませんか」
「ぜひお聞かせいただきたいですねぇ」
信蔵と僧が口々に言えば、彼は待ってましたとばかりに嬉々として話し始めた。
「古くは由緒ある名家の姫様のものであったらしいな。それはそれは見事な逸品であったそうだ」
ところが衣の持ち主であるその姫は、親の政権争いに巻き込まれて非業の死を遂げてしまったらしい。
翁は
「姫は亡くなったが、その見事な衣は多くの人を惹きつけ、様々な権力者に受け継がれ続けた。だが、その衣が長くひとつの場所に留まることはなかったという。……それはなぜか?持ち主に必ず大きな厄災が降りかかり、長く手元には置いておけなかったからだ」
そして——————それは誰が呼んだか、いつしか嘆きをもたらす衣……すなわち嘆きの衣と呼ばれるようになったのだという。
「一説には、その衣は最初の持ち主である姫の親の政敵から贈られたもので、実は呪詛がかけられていたとも言われている。また器物も百年経てば妖となるというから、いわゆる付喪神の類にもとうに変じているだろうな。どちらにせよ、持てば厄災の降りかかる不吉な衣なのよ。だからよいか、お二人さん。もしこの江戸で嘆きの衣を見かけることがあっても、ゆめゆめ触れてはならんぞ。どんなに美しくとも、あれはとても危ういものよ」
独壇場でたっぷり語った翁は満足したような顔をして、そう話を締め括った。
老爺と僧に礼を言って茶屋を出た信蔵は、ややあって大きくため息をつく。
「……」
これは恐らく、
とってこいと言われたところで、
せっかく江戸までやってきたのに、もう振り出しに戻ってしまった。そう思いながら歩けば歩くほど、だんだんと落胆が怒りに変わってゆく。
——————なんなのだ……俺の人生も、あの女術者も、妙な出立ちのあの男も……!なぜ俺ばかりがこんな目に遭うのか……!?
このまま長屋に戻る気には到底なれず、信蔵はひとまず目についた一膳飯屋に入ることにした。
「はい、お待ちどうさま!」
よく通る声と共にすぐに出てきた膳の上では、たっぷりと盛られた茶飯が湯気をたてている。味噌汁がいい香りを放ち、鉢には野菜を大ぶりに切った煮物がごろごろと入っていた。それと小皿に、厚手に切られたたくあんが何切れかのっている。
その歯応えのありそうな煮物や漬物を、信蔵は怒りに任せて豪快に噛み砕いた。そのあまりの気迫に、周りの客が思わず信蔵の方を窺い見るほどだ。
「兄ちゃん、なんかあったんかい?」
食事が思っていた以上に美味であったことと、腹が満ちたことで怒りが削がれ勢いが収まってきた頃合いに、隣に腰を下ろしている男が声をかけてきた。
「…実はちょっと、無理難題をふっかけられて……いえ、正確には無理難題で、頼み事を遠回しに断られたというか…」
このところの状況に、己で思っていた以上に鬱憤が溜まっていたらしい。いかなる場合も平静を常としろ、という衆の教えでは、もはや信蔵を抑えきれなかった。
「妖を……夢想の産物を、一体どうやって持ってこいと!?お前は竹取の姫か!髷は結っておらんし、打掛けのようなものも着てはいるしで、似合いと言えば似合いなのだろうが!」
人目のある場所で勢いよく思いの丈を述べてしまった信蔵は、次の瞬間我に返って恥入る。
あらゆる意味で、この先の己に不安しかなかった。かつて仲間内で〝氷の如き冷静沈着〟と評された信蔵は、一体全体どこへ行ってしまったのだろうか。
「…あの、お客さん。もしかして小野禍福様のところに行かれたのですか?」
食事を運んでいた若い娘が、そう声をかけてくる。
「…え、ああ…そうです。あの方をご存知なのですか?」
信蔵が聞き返すと、彼女は微笑んだ。
「ええ。以前、家族が困ったことになった時に、助けていただいたことがあります。髷を結わずに打掛けのようなものを着て、と仰ったので、もしかして、と……」
それから少しばかり思案するような表情を浮かべて、彼女は信蔵を見た。
「あのお方、いくらか風変わりなところはございますけれども、できぬことはできぬとはっきり仰います。できるけれども理由があってしない時も、隠し立てはなさらぬそうです。父がそう言っておりました」
信蔵は彼女の言ったことを吟味する。
「…では、存在しないものを持ってこいなどと、遠回しに断るようなことはしない、と?」
「そう思います。もちろん、あのお方の真意はあのお方だけにわかることですから、あくまで私の考えではあるんですが」
他人の冷静な視点に引っ張られ、信蔵にもいささか冷静さが戻る。
「……なるほど」
確かに確認も取らないうちに、そう決めつけるのはあまりに尚早かもしれない。
期日を切られた訳ではなかった。ならばもう少し、嘆きの衣の詳細を調べてみてからでも遅くはないか、と信蔵は味噌汁を飲み干しながら考え直したのだった。
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