2-2
「禍福様、お客様をお連れしました」
美しい花の絵の描かれた襖の前で、若侍がそう呼ばわった。
「ご苦労、寛次郎。お通ししておくれ」
襖を開けてくれた彼に礼を言い、信蔵は緊張しつつ部屋の中に踏み込んだ。
——————とにかくこの呪い、なにを対価にしても解いてもらわなければ……
そうでなければ、信蔵に帰る場所はない。忍ではない生き方など知らぬし、役に立たねば衆に居場所などあるはずもなかった。
「
深く頭を下げてから顔を上げれば、信蔵の視界には悠然と座した男が映っている。
ようやく
「……なにやら、似た者が来たな」
手で示され向かいに腰を下ろした信蔵を見て、小野禍福は薄く笑みながら口を開く。
「お主もそうは思わんか?」
「……似ているとは……わたくしめと、あなた様がでございますか?」
戸惑って聞き返した信蔵に、今この部屋には儂とお主以外おらんだろう、と彼はどこか楽しげに笑って続ける。
「日向の匂いよりも、夜や闇の匂いが染み付いておる。儂を見た時、お主もそう思わなんだか?なぁ、忍の者よ」
「……」
確かに、信蔵にも似たような感覚はあった。それは例えばたまたま入った茶屋で、知らぬ者同士にも関わらず、ふ、と互いの身の置き所に気づくような、なぜと問われれば言葉では説明し難い類のものだ。
だがそれ以上に、信蔵を驚愕させたのは。
——————なぜ、俺が忍だと……
出会い頭にいきなり正体を見抜かれ、思わず固まってしまった信蔵に、小野禍福はその薄い唇を吊り上げて告げた。
「お天道様の下はどうにも慣れぬ、という顔をしておるぞ」
彼は
「どこの衆の者か?伊賀や甲賀ではないな?」
小野禍福は何かしらの確信をもって、そう言っているように見えた。
「……それは」
今はひととき衆から離れている身とはいえ、そう簡単に身の上を明かしていいものではない。だがここで彼の機嫌を損ねると、呪いを解いてもらうどころではなくなってしまうかもしれなかった。どうしたものかと逡巡していた信蔵に、禍福が笑いかけてくる。
「まぁ衆の手前、己から言うのでは障りがあるか。では、こちらから当てるとしよう」
彼はじぃ、と信蔵を見つめた。一体何を見ているのかと
信蔵が属している衆は伊賀者や甲賀者とは違い、世にほとんど知られていない。知る人ぞ知る、まさしく影の一団だった。そう簡単に当てられるとは思えぬし、当たらずに知りたいと言われれば、今のうちに考えた適当な名を言えば良いだろう。そう思ったのも束の間、
「……ほぉ、初めて
信蔵は今度こそ愕然とした。
「……かつては、でございます」
——————一体なぜわかった?これも彼の怪しの術とやらなのか?
信蔵は冷や汗をかきつつ、かろうじてそう付け足した。
「抜けたのか?」
禍福は興味深そうに小首を傾げる。
「呪いをかけられ、やむなく」
「ああ、なるほどな。それで儂のところに来たか」
彼は合点したように頷いた。しかし見れば見るほど、言葉を交わせば交わすほど、小野禍福は不思議に思える男である。その装いや言葉遣い、振る舞いでは、彼の属するところがいまいちよくわからない。武家だと言われればそうかと納得できるし、京言葉を捨てた公家なのだと言われればそれもまた納得できる。
少なくとも、ただの一介の町人とは到底思えない、場を圧倒する独特の存在感があった。しかし得体の知れない異様な存在感をもちながら、なぜだかふと気づけば消えていなくなっていそうな、そんな危うさのようなものも感じるのだ。これは只人の気配ではない。どうにも説明し難い何かがある男だった。
「はい。かけられた呪いに困り果てていたところ、あなた様のことを耳にしまして……どうか解いてはいただけないでしょうか」
「どのような呪いだ?見たところ、大層なものがかかっているようには見えぬのだが」
「なんでも、日の下の呪い、というもののようです。仰る通り死ぬようなものではないのですが、やたらと人目につきやすくなってしまい、非常に困っております」
信蔵がそう訴えると、禍福は顎を撫でつつ思案するように呟く。
「……日の下の呪い、とな。初めて聞いたが……誰にどのようにかけられた?」
状況を説明しようとすれば人殺しのくだりに触れないわけにはいかないと気づき、信蔵は思わず躊躇した。それを見て、禍福は小さく笑う。
「忍の仕事が隠れて盗み聞きをするだけではない、ということは儂もよく知っておる。標的が術者だったのか?」
「……そうです。私も仔細はわからぬのですが……土地の権力者の屋敷に囲われている、強い神通力を持つという触れ込みの老女でした」
「場所は?」
「
「その者がお主に呪いをかけた時の言葉を思い出せるか?」
あの夜目にした老女の眼差しと、静かでありながら妙に響く声が記憶の底から蘇る。
「確か……『あなたはもはや闇には潜めませぬ。どんなに身を隠そうとも、誰もあなたを無い者とは扱えませぬ。その日の下こそがあなたの居処。あなたこそが日の照るところ』……このように言われたように思います」
「……なるほどなぁ」
矢継ぎ早のやり取りの後、小野禍福は黙ったまま、随分と長いこと信蔵を見ていた。
「最後にもうひとつ。その老女とやらは、お主を憐れんだか?」
——————憐れんだか?
妙な問いに、信蔵は眉根を寄せる。
確かに、わずかの間突き合わせたあの目にあったのは、命を奪われる怒りでも恨みでもなかった。ただ、信蔵にはそれがなんであったのかがよくわからない。
「……そういえば、自分と同じ目をしている者に逃がされるとは因果だ、というようなことを言われました。命を奪うというのに礼まで言われたので、正直面食らったのですが……彼女が何を思っていたのかは、わたくしにはよくわかりませんけれど……あれは憐れみだったのでしょうか……?」
返答に窮した信蔵が問い返すと、小野禍福は静かに頷いた。
「だろうな。そうでなければ、今際の際にそのような生ぬるい術はかけまいよ」
生ぬるい術、と言われて、信蔵は内心でむっとする。確かに妙な術ではあったが、信蔵が死ぬほど振り回されているのは間違いない。それをなんでもないもののように言われるのは心外だった。
「小野様にとっては生ぬるくとも、わたくしには死活問題なのです」
「まぁ忍とは相性が悪かろうな」
しばし、沈黙が部屋に満ちる。
「……やはり知らぬ術を解くことは難しいでしょうか?」
断られれば他に当てのない信蔵が恐る恐る聞くと、彼はなんでもないことのように言った。
「知らぬ術だが……まぁ解き方の見当はつくぞ」
「見当がつくのですか……!?」
思わず声を上げると、小野禍福は静かに信蔵を見返した。
「ああ。だがその前に確認しておきたいのだが……解いて、それで?」
「……と、仰いますと?」
支払いのことを言っているのだろうか。意図がはっきり読み取れず、信蔵は思わず問い返した。
眼前の青年は切れ長の双眸でひた、と信蔵を見据える。
「それでその呪いを解いて、その後お主はどうするつもりなのだ?何も考えることなく、再び自らを人から与えられた八幡の藪に放り込むつもりなのか。己を閉じたまま、檻の中でひたすら目を背け続けるのを良しとするのか?人生五十年とも言う、大して長くもない生を終えて死ぬその時まで」
「……」
「かの術者がその呪いを与えた意味を、お主は少しでも考えることをしたのか。ん?」
あまりにも捉えどころのない言葉に、信蔵はどう答えたらいいのかわからなくなってしまった。ややあってようやく、混乱の中から口を開く。
「……浅学にして、あなた様の仰っている意味がよく分からないのですが……それは……呪いは解かぬ方が良いと……そう言う意味でございましょうか?」
小野禍福は、再び信蔵をじぃと見つめた。本当に、一体何を見ているのだろう。
「いや、そうは言うておらん。解かぬのも一つの手ではないかと儂は思うが、それは当人の決めることよ」
「ならば、私は解きたく思います。これでは仕事もままなりませんので」
——————呪いを解く以外の選択肢などあるものか。
禍福が口にしたことにやや引っかかりつつも、信蔵は決然と言った。その特異な雰囲気に呑まれ、言葉に煙をまかれている場合ではない。何のためにわざわざ江戸まで来たのか、と己を叱咤する。
「……そうか」
彼はそう頷くと、あっさり告げた。
「ならば良いぞ。お主が望むのであれば、その呪い解いてやろう。……ただし、対価は貰う。先払いでな」
「おいくらでしょうか」
払える額だといいが、と思いながら懐に手を入れて金子を出そうとした信蔵に、禍福は首を振る。
「儂がお主に求めるのは、金ではない」
戸惑って動きを止めた信蔵ににやりと笑いかけると、彼はまるで犬に枝でも投げるかのように言った。
「とってこい、信蔵。嘆きの衣を」
そうしたらその呪いを解く方法を教えてやる、とだけ付け足すと、禍福は隣の間に控えていたらしい寛次郎を呼んで、困惑している信蔵をさっさと退室させたのであった。
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