二章 小野禍福なる男

2-1

 ——————まったく……この呪いのせいで、どうにも先が読めんことにばかり巻き込まれるな……


 信蔵は内心ため息をつきながら、若侍に連れられて屋敷の庭先を歩いていた。


 権三から知らせがもたらされた翌日、信蔵はとるもとりあえず小野禍福が住まっているらしい屋敷へと出向いた。出向きはしたのだが、いざ目にしてみれば話を通してもらえるかさえ危ぶむ羽目になったのである。


 というのも、長屋門を構えたその屋敷は、非常に重厚な風格を漂わせていた。ぐるりと塀周りを回ってみれば、目測にしておよそ二千坪。


 どうやら五角家というのは、町奉行所に勤める与力のような御家人や、数百石の旗本とは明らかに格が違う、大身の旗本であるようなのだ。これは予想外であった。


 ところが、予想外はさらなる予想外を呼んだ。信蔵が恐る恐る門番に用向きを告げたところ、ほんの少し待たされただけで、呆気に取られるほどすんなり中に通してもらえたのである。


 ——————このようにあっさり通してもらえたことを思うと、別に身分がある者というわけではなく、金を払って敷地内に住まわせてもらっているということなのだろうか……


 権三から教えられるまで知らなかったのだが、旗本や御家人が下賜された屋敷の一部を貸し出すことは、この町ではままあることなのだという。もちろん誰彼構わずということではなく、同じ旗本や御家人、藩士や浪人相手であったり、あるいは町医者や儒学者などの類が主であるらしい。そしてそこから得る収入は、彼らの大切な財源のひとつであるのだそうだ。


 ——————だが仮にそうだとしても、わざわざこのように丁寧に案内までつけるものだろうか……まだ若そうではあるが、仮にも二本差し……まぁ勝手に中をうろうろさせるわけにもいかないということもあるだろうが……間借りしている町人ならば、あちらを呼びつけて迎えに来させればいいだけのような気もするが……


 信蔵は内心首を傾げていた。世慣れも江戸慣れもしていないせいで、これが普通のことなのか普通ではないことなのかがよくわからない。


 ——————任された己の領分以外にも、多少は興味を広げてみるべきだったかもしれんなぁ……


 そんなことを思ったが、当然どうにもならない後からするものだから後悔なのであって、もう遅かった。


「禍福様は、そちらの離れにお住まいですので」


 信蔵の戸惑いを知ってか知らずか、案内役の若者は愛想よく笑って右手の建物を指し示した。彼が明らかに敬意を込めて小野禍福の名を口にしたこと、そして目にしたその建物によって、信蔵の困惑は一層深くなる。


「……これはまた、ずいぶんと立派な離れでございますね……」


 二人の行く手にあったのは、大きさこそ小振りではあるが、それでも母家に負けず劣らずの風格をもつ離れであった。


「先代の隆守様が格別のご恩を感じ、禍福様のために建てられたものでして」


「……なるほど。立派な方でいらっしゃるのですね」


 ——————となると、単に金子を払って借地しているのともまた違うのだな……


 ますます彼の人の身の置き所がわからなくなった。その怪しの術で当主の困り事を解決して召し抱えられたか、あるいは食客になった特別待遇の拝み屋ということなのだろうか。


 ——————わからぬが、とにかく助けてもらえるのであれば、もうなんでもいいか……


 いい加減思考を巡らすのに疲れてきた信蔵は、どこか投げやりにそんなことを思った。


 あの満月の夜に呪いを受けて、既にふた月が経とうとしている。方々の術者を巡れども巡れども一向に呪いは解ける様子はなく、今や精神的な疲労は極限に達しようとしていた。


 信蔵が命を絶った老女が〝日の下の呪い〟と呼んでいたそれは、平たく言うと〝目立つようになる〟というものであるらしい。そう聞けば、なんだその珍妙な術は、とほとんどの者は首を傾げるだろう。衆目を集める呪い?わけがわからない、と。


 目立つとは言っても、例えば昼夜を問わず天から照らされるというような、奇怪なことではない。ただなんとなく人目につく方向に、物事の流れが向かいやすいという程度のものだ。


 だからおそらくこの呪いにかかったところで、大半の人間は笑い飛ばせるに違いなかった。その者の性格や生業によっては、むしろ諸手を挙げて歓迎するかもしれない、実に奇妙な呪いだ。


 だが、信蔵は困った。それはもう、金槌を取り上げられた大工のごとく、足を折った飛脚のごとく、ほとほと困り果てた。


 なぜなら信蔵は——————しのびであったからだ。


 秘めやかに密やかにを、地でいく者。まさに日陰者の代名詞とも言えるような生業であるのに、あろうことかやたらと人目につくようになってしまったのである。


 たとえば、腐っていた床板のせいで追跡対象が上から落ちてきて、反射的に受け止めてしまったがために発見されたり。仲間の不手際で、衆目のど真ん中に放り出される羽目になったり。


 とにかく受ける仕事受ける仕事、ことごとく隠密性が保てなくなってしまったのだ。これが忍たる己を語る言葉だとは、信蔵は信じたくなかった。控え目にみても、とんでもない悪夢である。忍びたいのに忍べない。忍べない忍とはこれ如何いかに。


 そんなわけで、呪いにかかって二週間も経たないうちに、誰の目にも呪いと生業の相性が致命的であることが明らかになってしまった。


『こればかりは仕方がないよ、信蔵。きっと他にも道はあるさ。あの件がお咎めなしだっただけでもめっけもんなんだから、元気をお出し。呪いなんてそのうち解けるかもしれないし、そうしたら戻って来れば良いんだから』


 一向に呪いが解けず、それまで担っていた仕事から外されて別部隊に配置替えになってしまった信蔵を、同僚のお福がそう慰めてくれたがいささかも気分は晴れない。


 なまじ幼い頃から技を叩き込まれ、口にこそ出さぬがそこそこ優秀な忍と自認していただけに、立て続く失態にすっかり矜持が崩れ去ってしまっていた。自信などというものは、ごくささやかなことでいともたやすく崩壊するものらしい。


 まだ子どもだった頃、ひときわ厳しい修練の後に師がこっそりくれた落雁らくがんに似ているな、と信蔵はぼんやり思った。ただ、ほろりと口の中でほどけて消えた、あの砂糖菓子の後味はどこまでも甘く優しかったが、今はひたすらに苦く冷たいだけだ。あまり味わっていたいものではない。しかし必死で足掻あがいても、どうにもならない日々が続いた。


 そんなある日、尊敬してやまない師の佐太郎から、小野禍福という術者の名を聞かされたのだ。信蔵は藁にもすがる気持ちで束の間の暇乞いをし、江戸に出てきた。


 そうして今、信蔵は日の差す場所に身を置いている。


 正直なところ、戸惑いばかりが先に立った。日の当たる場所にいると、誰もが真っ直ぐに信蔵を見て話しかけてくる。しかし信蔵には、自分がここに存在するものだと誰かに認識されることに、どこか違和感があった。


 居ないように、存在する。人目の届かぬところが、己の居場所。その存在を知るのは、生業を同じくする里人だけ。


 死ぬまでこれが続くと思っていたのだ。しかし信蔵にとっての長年の当たり前は、あの夜を境に思いもよらない形で瓦解した。どれだけ足掻いても、周到に周到を重ねても、どうしても人目に触れぬままではいられない。


 もともと信蔵は、人に混じって市井で暮らし情報を集めるような役回りではなかった。ひたすら暗闇に潜んで目的を果たし、あるいは刃もつ影となって守り、それ以外の時間は修練に励むような人生だったのだ。それゆえ江戸の日向を歩いていると、まるで夜の生き物が昼日中に引き摺り出されたような、なんとも拠り所のない心持ちになった。


「どうぞ、お上がりください」


 若侍の声で、信蔵は我に返る。そうだ、今は物思いになど沈んでいる場合ではない。信蔵は慌てて彼について玄関を上がり、離れの中へと足を踏み入れたのであった。

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