1-6

 壁抜き騒動から一夜明けた朝。


「いやもう、本当にすみませんねぇ、信蔵さん。越してきて早々に、また引っ越しをお願いしまして」


「いえ、構いませんよ。さして荷物もありませんでしたし」


 信蔵は今、二度目の家移りを終えたところだった。とは言っても、徒歩十数歩の同じ長屋内、持ち物に至っては昨日借りてきた諸々一式と我が身だけだ。


 もともと大した手間ではないところに、居職いじょくで基本長屋にいる平太と銀右衛門が荷運びを手伝ってくれたため、まさしく瞬きの間に引っ越しは完了した。


「いやぁ、同時に二部屋空いていて幸いでした」


「ええ、本当に。おかげ様で今日も屋根の下で眠れます」


 間取りも旧居とほぼ同じ新居の中で、信蔵と長兵衛は笑い合う。


 いくら薄いとはいえ、まさか壁を尻で突き破って隣人が転がり込んでくるなどとは思いもよらなかった。さすがは大江戸、驚きの連続である。


 傍目から見れば災難でしかない事態ではあったが、実は信蔵にとっては悪いことばかりではなかった。というのも、信蔵はもともと人間関係に積極的ではなく、人の輪に入っていくのが得手ではない。よって、このようなきっかけでもない限り、なかなか歩み寄りが進まないのだ。住人たちとの距離感が一気に縮まったことを思えば、この珍事はありがたいくらいであった。


 今日も今日とて壁穴越しに米吉とお留と朝餉を共にし、江戸についての色々な話を聞かせてもらったところである。


「あちらのご夫婦は、その……いつもあのような感じで?」


 少しばかり気になった信蔵が聞くと、長兵衛は大らかに笑って首を振る。


「いやぁ、普段はとても仲がいいんですよ。まぁどちらもはっきりしていると言いますか、きっぷの良いところがある似た者夫婦なもので、喧嘩となると少々派手になりがちなんですが……さすがに壁を抜いてしまったのは今回が初めてですがねぇ……」


 ちなみに壁の修繕費用は一旦長兵衛が立て替え、米吉とお留の月々の賃料に分割して上乗せする形になったらしい。なにくれとなく住人たちの世話を焼き、時には自分が壊したわけでもないのに修理の手配や立て替えまでして、大家というのも楽ではないのだな、と信蔵は思った。


「これね、もううちで使わなくなったものなんで、よかったら使ってやってください」


 詫びの意味も込めてなのか、長兵衛は台所用品を色々と置いていってくれた。見れば、箱膳に湯呑み茶碗、鉄瓶やらざるまである。


 飲み物は水か白湯を飲めばいいし、持ってきた椀ひとつで全て済ませてしまえばいいか、などと思っていた信蔵の部屋は、にわかに生活感が出てきたのであった。



 *  *  *  *  *  *  * 



 それからは、町の方々を巡り小野禍福を探し歩く日々になった。


 しかし様々な場所に出向いて聞き込んでみても、皆一様に「知らないねぇ」と首を振り、なんの収穫もないまま日が過ぎてゆく。ため息をついては、明日こそ何かわかるといいが、と眠りにつく夜が続いた。




 そんなある日の夕刻。

 信蔵が江戸に住み始めてそろそろ七日が経とうという頃に、権三が狸長屋へとやってきた。


 藤一郎としゃべりにでも来たのかと思いきや、なんと小野禍福の居所がわかったのだという。彼はあれからも魚を買ってくれる常連や、友人づてに情報を集め続けてくれていたらしい。


 思わぬ朗報に、信蔵の心は柄にもなく浮き足立った。


 ——————これは思ったよりも、早く事が済むかもしれん。


 そんなことを思いながら、長兵衛が置いていってくれた一式で早速茶を淹れ、部屋にやってきた権三を歓迎する。


「おお、悪ぃな」


 ただ、湯呑みを受け取った彼の表情は僅かに曇っていた。何か気がかりなことがあるらしい。


「……それで、その方はどちらに?」


 信蔵はいそいそと権三の前に座った。彼は熱々の茶で口を湿らせると、ひとつ頷いて話し始める。


「拝み屋なら、てっきり長屋住まいか何かかと思ってたんだが……その小野禍福ってお方はよ、どうもお武家さんの屋敷に住んでるみてぇなんだ」


「……武家の屋敷、ですか」


 権三は頷いて続ける。


「お屋敷の縁者が手慰みに拝み屋家業をやってんのか、それともお抱えの陰陽師か何かなのか、そのあたりはよくわからねぇんだが……不忍池しのばずのいけからほど近い武家地に、その屋敷があるらしい。俺ぁ初めて聞いた名だったが、五角いつかど家っつうお旗本だそうだ」


 信蔵は思わず眉根を寄せた。旗本というのは確か、徳川家直属の家臣の中でも、特に将軍に御目見ができるような立場の家系であるはずだ。


「……あの、見ず知らずの人間が突然訪ねていって、会わせてもらえるものなんでしょうか……」


「ちょっとこればっかりはわからねぇが……行くだけ行ってみるしかねぇだろうな。ただ、駄目だって言われたら、あまり食い下がらん方がいいかもしれん。相手の住んでる場所が場所だしよ。切り捨てられる可能性だって、なくはねぇしな」


 権三は渋い顔でそう唸る。


「お前ぇの用は、どうしてもそのお方じゃないと無理なやつか」


 問われた信蔵は、一瞬答えに窮した。あまり突っ込んで内情を明かすと、まさしく藪蛇になってしまうからだ。


「無理というか、その方以外の当てがなかったもので……」


 信蔵は考え考え言葉を絞り出す。


「実はその、国元の恩人が呪いを受けまして……もちろん、あちらにもそのような生業の者たちはいるので、方々を回って解呪を頼んだそうなんです。ただ、どうにも厄介な呪いなのか、結局解けなかったようで……命に別状はなくともほとほと困っているということだったので、なにか手はないかと探していた時に彼の方の名を耳にして……恩人は忙しい方なので、私が代わりに解呪が可能かどうかを確認しに来た次第なんです」


「あぁなるほどなぁ……腕がとびきりいい奴じゃねぇと解けねぇとすると、選り好みせざるを得ないわけか。……しっかしお前ぇも忠義もんだな。恩人とはいえ、人のためにわざわざこの江戸まで出てくるんだからよ」


 権三はどこか感心したように信蔵を見ている。


「いえ、とても恩のある方なので、これくらいはなんてことありませんよ」


 まことしやかに笑って返しつつ、信蔵は内心居心地が悪くて仕方がなかった。小太郎の時とは違い、今言ったことは大部分が嘘だったからだ。呪われた恩人も、恩人のために江戸まで出てきた忠義者も、実際には存在などしない。


 合っているのは呪われた人間が、その呪いに散々振り回されてほとほと困り果てているというところくらいだ。


「権三さん、貴重な情報を本当にありがとうございます。会っていただけるかはわかりませんが、とにかく一度行ってみようと思います」


 今日は既に日が暮れかかっているため、信蔵はひとまず明日、その屋敷に行ってみることに決めた。

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