1-5

 翌朝、狸長屋に越してきた信蔵は、頃合いを見計らって近隣に住まう人々に挨拶をして回った。


 権三や喜八に何を持っていくのがいいと思うかと聞いたところ、蕎麦切手か手ぬぐいあたりがいいのではということだったので、信蔵はしばらく考えた末、手ぬぐいを渡すことにした。蕎麦切手も喜ばれるだろうが、里の知人に蕎麦を食べると息が苦しくなる者がいたことを思い出し、人によっては体質に合わないこともあるかもしれぬと思ったからである。


 既に仕事に出ていたり、留守にしていた者もいたため、全員に挨拶ができたわけではなかったが、残りはまた後で回ればいいだろう。


「……ふー……」


 ひとまず部屋に戻ってきた信蔵は、大きくため息をつく。


 これまでは仕事で必要な会話くらいしかしてこなかったため、基本的に人と話すことに慣れていなかった。そのせいで初対面の人と次々に言葉を交わさねばならぬ状況に、非常に気力を消耗したのである。それでも権三が言っていた通り、ここの住人たちは気のいい者ばかりのようでほっとした。


 手習いの師匠をしているというお高。


 傘張りの浪人らしい銀右衛門。


 指物師の平太。


 青物の棒手振りの喜兵衛に、その息子の六太。


 そして信蔵のすぐ隣の部屋に住むのは、大工の米吉とお留という夫婦ものだった。


 出会った人々の名と顔を思い返しながら、しっかりと記憶に焼き付けておく。


 ——————後は早急に探し人が見つかることを、祈るばかりだな……


 そんなことを考えながらしばらく休息した信蔵は、ひとまず生活用品を揃えに出かけることにした。


 この江戸にいつまでいるかもわからぬ身なので、昨日長兵衛が教えてくれた損料屋なる店に出向き、布団やら枕屏風やら、釜やら炊いた米を入れるお櫃やらを借りてくる。


 里には賃料を払って物を借りるような生業はなかったが、さすがは江戸である。様々な商いの仕方があるらしい。


 金子は多少あるため古道具屋などで買ってもよかったのだが、なんとなく買ったが最後、ここに居着くことになるような気もして、借りるに留めることにした。早く本懐を遂げて去りたい、という願掛けとも言えるかもしれない。


 それに、例の探し人を見つけたあと、どれくらいの費用がかかることになるのかも未知数だ。財布の紐を閉めておくに越したことはないだろう。


 本当のところを言えば、別に布団などなくともむしろを敷けばいいし、釜などなくとも米は炊ける。しかし一介の町人が布団や釜を持たずに暮らすのはもしかしたら不自然かもしれないと思い、借りることにしたのだ。信蔵がもっとも避けたいのは、不審に思われたり、変に目立ってしまうことだった。


 そうして借りてきた布団は、権三の家や挨拶に訪ねた時に垣間見えた部屋を真似て、枕屏風で隠した部屋の隅に置いてある。


「……」


 しかしそれにしても、この裏長屋というものはものの見事に壁が薄いらしかった。


 お隣の米吉とお留が話している声や物音が、かなりのところ聞こえてくるのだ。当然、こちらの音も筒抜けになるのだろう。


 ——————人に知られたくない話は、ここではしない方が良さそうだな……


 そんなことを考えながら、信蔵は借りてきた釜で試しに炊いてみた飯の残りをお櫃から出し、湯漬けにして夕餉ゆうげを食べ始める。近隣の様子を見て回っていた時に棒手振りから買った漬物は、これまで食べたことのない味ではあったがなかなかに旨かった。


 ——————それにしても……


 小野禍福なる人は、一体江戸のどの辺りに住まっているのだろうか。


 長屋の住人にも、訪れた損料屋の主人にも、彼の人について一応尋ねてはみたのだが、残念ながら全て空振りであった。やはりそう都合良くはいかないようだ。


 その名を耳にしてすぐに、とるもとりあえず江戸まで来てしまったが、もう少し情報を集めてから来るべきだったかもしれない。探そうにも、手持ちの情報があまりにも少なすぎるのだ。しらみ潰しに探して回るには、江戸はあまりに大きく人で溢れていた。


 そんな後悔を感じながら漬物を噛んでいた信蔵は、ふいにハッと顔を上げる。


 次の瞬間、


 どんっ


 と、部屋中に衝撃が走った。


「……っ」


 反射的に体勢を低くして身構えた信蔵は、傍らに置いていた道中差しを意識しないまま握っていたが、しかしすぐに手を離す。直前に聞こえていた声から、なんらかの襲撃ではないとわかっていたからだ。わかってはいても咄嗟に掴んでしまったのは、もはや息をするのと同じくらい身についた習い性ゆえだろう。


「あいたたた……」


 今、信蔵の部屋にもうもうと立ち込めている埃の中には人影があり、何やら痛そうに呻いていた。


「……あの、大丈夫ですか?」


 片手で痛めたらしい尻をさすりつつ、差し出された手を取った隣人のお留は、ハッとして信蔵を見つめる。それから恐る恐る壁の方に目を移し——————事態を把握して、みるみるうちに青くなった。


「……嘘……いやだアタシったら……!ごめんなさい!ごめんなさい、信蔵さん!」


「お留!お留お前ぇ、大丈夫かっ!?」


 血相を変えた米吉の頭が、にゅっと信蔵宅に現れた。


「あ、アンタぁ……どうしようこれ……」


 つい先ほどまで聞こえていた威勢のいい声はどこへやら。お留は泣きそうな顔をして夫を見上げる。


「おい!なんか派手な音がしたが大丈夫か!?開けるぞ!」


 何事かとすっ飛んで来た長屋の人々が戸を開けた先で見たものは、壁をぶち破って信蔵の部屋に転がり込んでいるお留と、それに手を差し出して立たせてやっている信蔵、薄壁に見事に空いた大穴、そしてそこから身を差し入れて大慌てで妻の安否を確認している米吉の姿であった。

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