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 因幡町を出た信蔵一行は、室町や十軒店じっけんだな、今川橋を通り過ぎ、さらに歩みを進めて神田川に突き当たった。


 喜八や権三が道々、江戸に不慣れな信蔵のためになんやかやと教えてくれたため、道行きはあっという間だ。


「それが筋違御門です。この辺りは八ツ小路なんて呼ばれてるんですが、火除け地でしてね。広々してるでしょう?ここを右に行くと柳原の床店って言って、古着や古道具なんかを扱う小屋がたくさんあります。そのさらに先まで行くと浅草御門ですとか、両国の広小路に出ますよ」


「広小路の辺りにゃ、食い物屋とか店とか色々出てんだ。面白れぇから、落ち着いたら行ってみな。川開きしたら花火なんかも見れるぜ」


「花火ですか。風流ですねぇ」


 三人は何くれとなく話しながら橋を渡り、さらに先へと進む。


「ここを折れて、はい、そこです。ここが神田相生町ですね」


 喜八がそう告げた瞬間、脇の木戸番小屋から男が顔を覗かせた。


「おや、喜八さんじゃありませんか。お久しぶりです。そして昨日ぶりだな、権三」


「おう、藤一郎。今日は店子希望の奴を連れて来たんだ」


 あぁ紋次郎さんたちが出た部屋だな、と頷いた藤一郎は、涼やかな目元をしたなかなかの男前だった。軽く挨拶を交わした後、


「長兵衛さん、ついさっき呼ばれて出てったとこなんです。たぶんすぐ戻ってくると思うので、ここでお待ちください」


 藤一郎がそう告げて、木戸番小屋に皆を招き入れてくれる。


「へぇ……色々売ってるんですね」


 信蔵はもの珍しく思いながら、草履や蝋燭などのちょっとした日用品が置かれている辺りを眺めた。


「番太郎業には一応多少の金は出るんですけど、まぁやっぱりそれだけでやっていくのは難しいんです。それで番小屋では、こうして何かしら商っていることが多いんですよ」


 と、藤一郎が微笑む。


 なるほど、生活費の足しにするのか、と信蔵は納得した。


「寒い時期なんかは焼き芋とかもやるよな。こいつの焼き芋、すげぇうめぇんだ。なんか知らんが、甘くてねっとりしててな。他の番屋のとは全然違うっていうんで、遠くからわざわざ買いに来る奴もいるくらいなんだぜ?正直、こいつの焼き芋を一度食うと、他の焼き芋が見劣りしちまうんだよなぁ。うちの三匹のお餓鬼さまたちときたら、『藤一郎兄ちゃんの焼き芋じゃなきゃ嫌』だの『藤一郎兄ちゃんの焼き芋以外は焼き芋とは呼べない』だの、一丁前にわがまま言いやがる」


 権三が眉根を寄せて子どもたちの言いようを真似ると、藤一郎は吹き出した。


「芋の種類と、焼き方にちょっとしたコツがあるんだよ。信蔵さんも芋がお嫌いでなければ、ぜひご贔屓に」


 芋は好きなので楽しみです、と笑って頷いた信蔵だったが、できれば秋になる前に片をつけたいのが正直なところではある。


 信蔵は権三や藤一郎たちの間で交わされる話を、聞くともなしに聞きながら大家を待った。「芋については一端の口をきくくせに、巷で流行りのお化けを怖がって子どもたちが夜一人で厠に行けない」だの、「女人の土左衛門どざえもんが上がったが、どうやらどこぞのお武家のご無体によるものらしい」だの、「付喪神になった行李こうりがどこかへ消えてしまった」だの——————他愛のない噂話の類だ。


 ——————それは付喪神などではなく、ただの盗人の仕業じゃないのか……?


 信蔵が内心ひっそりそう思った時、大家の長兵衛が戻ってきた。


「おや喜八さん、いらっしゃいまし。申し訳ない、お待たせしてしまったようで……」


「いえいえ、こちらこそ突然押しかけて申し訳ありません。実は、この前寄合で仰っていた、空き部屋のことなんですがね……」


 喜八がすぐに話を通してくれ、一行はぞろぞろと連れ立って裏長屋を見にいく。井戸や厠などの場所を案内された後、信蔵は紹介された部屋にすぐ決めた。


 間口が九尺、奥行きが二けんほどの、ごく小ぶりな住居だ。里に暮らしていた信蔵の感覚からすると随分狭いようにも思ったが、多くの人間が密集して暮らしている江戸の町人地では、この大きさは至って普通であるらしい。


 なんにせよ、屋根と壁があれば充分という信蔵にしてみれば、小さいながらも土間には竈も水瓶も作りつけの棚もあるしで、生活するには申し分なさそうだった。他に必要な物が出れば、古道具屋あたりで追々買い足していけばいいだろう。


「……よし、ではこれで信蔵さんは、明日からうちの店子です。よろしくお願いしますね」


 里を出る時に檀那寺だんなでらに出してもらった宗旨手形を見せ、証文を作りながら長屋に住むに当たっての諸々の決まりや話を聞いた信蔵は、こうして晴れて江戸住まいの身となった。


「こちらこそよろしくお願いします」


 大家や長屋の住人たちへの引越し挨拶に何を持っていくのがいいのか、後で権三に教えてもらおうと考えながら、信蔵は頭を下げる。


「あ、そうそう。井戸をお見せした時に言うのを忘れていましたが、この辺りは神田上水の水がきますんで井戸水も飲めます。隅田川の向こう側、本所や深川の辺りだとそうはいかないんですが」


「その辺りは井戸水が飲めないんですか?」


 生まれてこのかた、井戸水をごく当たり前に飲んでいた信蔵は驚いた。


「ええ。なにせこの江戸の町は、海に近い湿地を埋め立てて使っているところも多いですからねぇ。そういう場所だと掘っても水に塩気が出てしまうので、飲むには向かないんです。洗濯なんかはできますがね。それで神田上水や玉川上水なんかがつくられたわけですが、生憎、隅田川の向こうには通すのが難しいのだそうで」


 事情のよくわかっていない信蔵に、長兵衛は丁寧に教えてくれた。なるほど、権三が彼を面倒見がいいと評していたのは間違いないようだ。


「深いところから飲める水を汲み出す掘抜井戸もつくれなくはないんですが、なにせ結構な金子きんすを積まなけりゃいけませんから、長屋風情だとちょいと難しい。でも、ちゃんと水舟や水売りが水を運んでくれますから、あの辺りでももちろん障りなく暮らせますよ。桶二つ分で四文とかですから安価ですし……ただまぁ、毎日のことではあるのでね」


「なるほど。ひと言で江戸といえど、暮らしぶりは様々なわけですね」


 信蔵が感心して呟くと、長兵衛は頷く。


「ええ。この町は色々な身分、色々な出自の者が混じり合って暮らしていますから、余計にね。何かわからないことがあれば、遠慮なく聞いてくださいよ。店子の世話を焼くのも、大家の役目のひとつですから」


「助かります。生まれてこのかた田舎から出て暮らしたことがなかったので、町のしきたりにはとんと疎いもので」


 万が一何かおかしな言動をとってしまった時のために、町暮らしに慣れていないことを強調して予防線を張っておく。


 かくして、信蔵の波乱の江戸暮らしは始まったのであった。

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