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 結局、権三の子どもたちは手習いに行く前におこしをひとかけずつ貰い、残りは帰ってきてから、という形で落ち着いた。


「しかし信蔵さん、よく小太郎の動きに気づきましたね。アタシらあの二人の達者な口にすっかり気をとられて、思い切りしてやられましたよ」


 対面に腰を下ろした、この徳右衛門長屋の大家である喜八が笑いながら言う。


「いやぁ、褒められたことではないんですが……昔、似たようなことをしたことがあったんです。口が立つ友人二人がうまく気を引いて、目立たない私は小太郎のように実行犯で……団子を少しばかりいただいたことが」


 信蔵はにこやかに——————見えるように祈りながら——————懸命に世間話に興じる。


 口にしたことは嘘ではない。似たような事を、幼い頃にしたことがあったのは事実だ。ただ本当のところを言えば、こと小太郎については単にその動く気配で気づいたというだけだった。信蔵は人並みはずれて気配に聡い。しかしこれは普通の市井の人には理解し難い感覚らしいので、別の理由で説明することにしたのだ。


「おやおや、同じ穴のむじなでしたか。しかし意外ですね。信蔵さんはどちらかと言うと目立つ方でしょう?子どもの頃は違ったんですかね」


 喜八が小首を傾げ、権三が頷く。


「そうそう。お前がここに来る時も、遠目でもすぐわかったぜ?」


「そ、そうですか?今はこの通り旅装束ですから、少し目を引くのかもしれませんね」


 当たり障りなくするつもりが、かえってあまり触れられたくない話題に飛び火してしまった。内心冷や汗をかきながら、信蔵は懸命にとぼける。


「それで信蔵はん、ここの店子たなこにならはるんですか?」


 権三の隣の部屋に住んでいるらしいお華という娘が、興味津々の顔で聞いてきた。言葉遣いからして、どうやら西の出であるようだ。もちろん、意図的にそう装っているのでなければ、ではあったが。


「でもこの間、ずっと空いていた部屋に弥助さんがお入りになったでしょう?全部埋まってしまったのではないかしら?」


 戸口のあたりに立っていた妙齢の女性も話に入ってくる。


「あ、そうおしたなぁ。あそこで終いでしたか」


 どうやら長屋住まいというものは、思っていた以上に人と人の距離が近いようだ。いつの間にやら当たり前のように集まってきて言葉を交わしている彼らを見て、信蔵はそんなことを思っていた。これが吉と出るか凶と出るかは、今のところはよくわからない。


 ただ、人との触れ合いに慣れない信蔵にとっては、どうにも異質な空間であることだけは間違いなかった。


「そうそう、部屋です、部屋。肝心な話を忘れるところでした。権三さんからね、信蔵さんが家を探しておられるというのは聞いています。ただ、さっきおようさんが言ったように、うちは今、全部埋まっていましてねぇ……」


 権三が渡した湯呑みで口を湿らせながら、喜八はすまなそうに言う。


「でも、二日前の俳諧の寄合の時に、知人のところに空きが出ると言っていたんですよ。筋違御門すじかいごもんを越えた先、神田明神にほど近いあたりです。もし場所にこだわりがあったりとか、広めの家を借りたいということでなければ、ご紹介できるんですが」


 どうですかね、と彼は信蔵を見る。江戸に親戚も知り合いもいない信蔵としては、ありがたいことこの上ない申し出であった。


「場所にも広さにもこだわりはないです。屋根と壁があって、雨風しのげればそれで充分なので……ぜひお願いできますか」


 身ひとつで山野に放り出されても生き抜けるように仕込まれた身であるため、信蔵は家の条件にこだわりはなかった。何かがなければないで、なんとでもなるものだ。


「あら、欲のないお人」


 お華がふふ、と笑った。


「建屋自体は古めですけど、屋根も壁もあるし、なんならへっついだってあるんで飯も炊けますよ」


 笑いながら言った喜八は、権三に向かってひと言付け足す。


「ほら、長兵衛さんとこです」


「ああ、狸長屋ですか」


 合点したような表情を浮かべて、権三が頷いた。


「狸?狸が出るんですか?」


 思わず首を傾げた信蔵に、


「いや、出るっつうか……そこの木戸番小屋の番太郎がな、藤一郎って奴なんだが……狸飼ってんだよ。そんでいつの間にやらすっかり、狸長屋の呼び名の方が通りが良くなっちまってな」


 と、権三が答える。


 犬だの猫だの鳥だの金魚だのはよくありそうだが、狸を飼うというのはあまり聞いたことがない。番犬ならぬ、番狸か。


「へぇ、狸をですか……さすがは大江戸、面白いものを飼うんですね」


「いや、あいつ以外にそんなの飼ってる奴見たことねぇから、変な誤解すんなよ。ありゃ普通は野にあるもんだろう。なんでも、怪我してたとこを拾って面倒見たら、居ついちまったらしいが」


 感心していた信蔵に、権三は慌てて普通ではないのだと首を振った。


「だけど良かったな、信蔵。ちょうどいい具合に空きが出て。俺ぁ、藤一郎の奴がいるんであそこの長屋にはちょいちょい邪魔するんだが、大家の長兵衛さんは穏やかで面倒見のいい爺さんだし、住んでる連中も感じのいい奴が多い。暮らしやすいと思うぜ」


 彼の言に、喜八も大いに頷いた。


「そうそう、あそこの長屋は大家と店子たちの仲がとても良いですからね。うちも負けず劣らずだとは思いますが……それであそこの紋次郎さんがね。同じ長屋のお清さんと所帯を持って、めでたく表店に住み替えたんだそうで。だもんで、部屋が二つ空くことになったらしいですよ」


「へぇ!紋次郎さんもとうとう店持ちか!俺も何度か食わせてもらったが、あの人の煮しめはどれも旨いぞ。良い菜が近くで調達できんのはいいことだな。良かったじゃねぇか、信蔵」


 権三は自分のことのように満足げに頷いている。


「では、そうと決まれば急ぎ話をつけに行きましょうかね。江戸に住みたいってお人は結構いますから、うかうかしてると埋まってしまわないとも限りませんし」


 喜八がそう言って立ち上がり、信蔵は狸長屋へと向かうことになった。

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