三章 芝居國の怪
3-1
他の当てがないゆえ、解呪の対価である嘆きの衣探しは続行する。
——————だが、小野禍福自身とはあまり関わらぬようにした方が良さそうだな……
狸長屋に戻ってきた信蔵はまんじりともせずに一夜を過ごし、そう結論づけた。
ところがその目論見は、ものの数刻もしないうちにあっさり覆されることになる。
「……」
ふいに目を細めて戸の方を見た信蔵は、寝転がっていた布団の上に音を立てぬように身を起こした。
——————誰かいる……
信蔵の部屋の外に、何者かの気配があった。
いくらか薄明るくなり始めてはいたが、まだ町の木戸は開いていない。
たとえ木戸が立てられている時間ではあっても、医者や産婆など急を要する者が通り抜ける可能性はあった。しかしそれにしては、番小屋同士で通行を知らせる送り拍子が鳴っていない。
そして信蔵の新しい部屋は、井戸と厠から最も離れた奥にあった。たとえ厠や水汲みに起きた者がいたとしても、信蔵の部屋の辺りを通るのはおかしいのだ。
天落衆の者が何か用があって来た可能性もなくはないが、もしそうなら信蔵にわかるような合図を送ってくるはずだった。
——————この気配……
信蔵は眉根を寄せて戸口の傍らへ忍び寄り、静かに歩み寄ってきた何者かの薄影が戸の障子の縁に映った瞬間、戸を開けて一気に部屋の内へ引き込んだ。
「このような朝早くからどうなさいました?……おや、驚かれましたか?申し訳ありません。木戸も開かぬうちに忍び入ってくるとは、どこぞの
隣人を起こさないように声を潜め、信蔵は引っ張り込んだ来訪者を見下ろす。
「……お主もしや、昨晩儂に驚かされたことを……根に持っておるな?」
信蔵に腕を捕まれ土間で膝をついている小野禍福が、潜めた声でおかしそうに笑った。
「……こんな朝っぱらからいかなる御用で?」
一応立たせてやりながら、信蔵は眉根を寄せたまま尋ねる。
「家の者が起き出してくると、動きが取りにくくなるのでな。朝のうちに、この書き置きをこっそり置いていこうと思うたのだ。まぁこうして気づかれてしまったわけだが」
彼はそう言いながら、右手に持っていた紙を差し出してくる。信蔵はひとまず受け取ったが、薄明るくなってきたとはいえ、文字を読むにはまだ光が足りない。かといってあまり会話をすると、隣人を起こしてしまうかもしれなかった。仕方がないので、急ぎ手燭に火を灯して文字を追う。
「……」
信蔵が手紙に目を通している間、小野禍福は何やら興味深そうに部屋の中を眺めていた。あのような立派な武家屋敷に住んでいる人間だ。長屋の中など、あまり見慣れないのかもしれない。
文を読み終えた信蔵は、いくつか気になったことを聞こうと小野禍福の方を向き——————次の瞬間、思い切り腹が鳴った。潜めた声より、よほど大きな音だ。
「返答はお主が
くすりと笑った禍福は、寛大にもそう言った。
一晩中起きていれば、それは腹も減ろうというものだ。信蔵はお言葉に甘えて朝食を用意してしまうことにした。
米を炊くのに水を汲もうと部屋を出ると、つられたのか禍福まで出てきそうになったため、慌てて部屋の中に追い返す。
「木戸がまだ閉まっているのに、泊めてもいない人間が入って来ていたらおかしいでしょう。戸が開く刻限までは中にいてください」
信蔵が潜めた声で慌てて言うと、一体何がおかしいのか、彼は笑い出しそうな顔をして頷いた。
「わかったわかった」
一応この長屋の決まりでは、人を泊める時は大家に伝えておかねばならないらしい。それがどの程度守られているのかはよくわからないが、越してきて早々に決まり事を破るような真似はしたくなかったのだ。
竈に火を焚きつけ、やがて飯が炊き上がる頃には木戸も開き、長屋の人々もそこそこ動き出してきていた。
——————長兵衛さんが箱膳やらなんやらを貸しておいてくれたおかげで助かった。まさか客がくるなど、思ってもみなかったからな……
そんなことを思いながら、取り急ぎ簡単に味噌汁を作る。客人に出すにはやや粗末かもしれないが、まぁ突然来たのだから大目に見てもらうことにする。
少ない荷物に入れてきた自前の椀と箸を、久しぶりに風呂敷包みから取り出してから、客人に譲った箱膳の茶碗に湯気を立てる飯をついでゆく。小皿に漬物ものせた。
——————そろそろ与一も来るかな……
「ひとまずこれで……あとは好きなだけ替えてください」
「いや、儂はいらな……待て、ちょっと待て、信蔵。お主、どれだけ盛っておるのだ!?」
禍福が押し付けられた膳の上の椀を、ぎょっとした表情で見つめている。
「これは借り物の茶碗なんですが、少し小さいようですから」
「……特に小さくはないと思うが」
禍福がまじまじとてんこ盛りになった茶碗を見つめていると、
「なっとなっとぉ〜」
と、納豆を商う棒手振りの声が聞こえてきた。
「菜は納豆でいいですか」
「ん、ああ、構わんよ」
禍福が頷いたので、信蔵はいつものように納豆を買う。
「おはよう、与一。今日は二人分頼む」
「おや、二人分とは珍しいですね、信蔵さん。毎度どうも」
納豆の入った皿を手に部屋に戻ってきた信蔵に、禍福はどこか微笑ましそうな表情を浮かべて言った。
「お主は納豆が好きなのか」
「いえ別に」
信蔵は首を振る。
「……」
ではなぜそれを買ったのか、という目で禍福が信蔵を見つめていた。
「飯など、ある程度腹が膨れて、栄養がとれればそれでいいでしょう」
信蔵は淡々と答え、納豆をのせた飯を口に運びはじめる。
「……信蔵、お主まさかとは思うが……江戸に出て来てから、納豆以外のものをろくに食べておらぬとかでは、ないだろうな……」
禍福が恐る恐るといった様子で尋ねてきた。
「漬物とか飯は食べてますよ。玄米とか麦飯の方が滋養にいいと聞いたんで、この通り江戸の方々みたいに白米ではないですが」
「いや、そういうことではなく」
「ご名答ですよ、旦那様」
三軒隣の老爺に納豆を渡した納豆売りが、苦笑しながら禍福に答えた。
「この長屋に来てから、信蔵さんが俺以外から朝の菜を買ったのを見たことがねぇです」
「……なんと」
絶句した禍福に、信蔵は眉根を寄せた。
「なにかいけませんか。納豆はとても滋養が高い。身体を作るのにいいんですよ」
「いや、それはそうかもしれぬが……お主とて
「もっとこう、ねぇ、旦那様」
禍福と与一は顔を見合わせる。
「いや、そりゃありがてぇですよ?毎日買っていただけるのは、納豆売りとしてはありがたくてたまらねぇんですけど……でもせっかくの炊き立て飯の朝餉なんだから、もうちっと色んなものを楽しんでもいいんじゃねぇかなぁと……俺は思うんですけど」
当の納豆売りが苦笑しているのだから、どうにも世話ない話だ。
「正直、腹にたまって、健康が保てればそれで良いです」
「……いやまぁそれが悪いとは言わんが……食はこの世にふたつとない喜びぞ?知ろうともせぬのは……ちと
禍福がなんとも言い難い表情を浮かべつつ、顎を撫でながら思案していたところに、
「とうふ、とうふー」
豆腐売りの声が飛んでくる。
朝は特に、菜になるものを商う棒手振りたちの稼ぎ時だ。彼らは天秤棒でそれぞれの商いものを運び、続々と長屋を訪れる。
「あ、伝二郎の豆腐、うめぇですよ。お兄さんの伝一郎さんが豆腐屋をやってて、そこですんごいこだわって作ったやつを売り歩いてるんですけど……舌触りが最っ高にいいです」
「二人分おくれ」
禍福がすかさず呼び止め買い求めた。信蔵の絡繰よろしく淡々とした食の改善を、試みてみることにしたらしい。
「ありがとうごぜぇます」
もうそれ以上余分な皿がなかったため、ひとまず笊の上に二人分のせてもらったものを、禍福は二人の間にずいと置く。
「そうだな……お主がこだわっている滋養というのであれば、叩き納豆を買って、こんな感じで菜をもう一品、とかにした方が身体には良いのではないか?」
「……叩き納豆?」
首を傾げた信蔵の声が聞こえたらしく、次の商い先に向かいかけていた与一が「いっけね」と呟いて戻ってきた。彼は開け放したままの戸から顔を覗かせると、
「すんません、信蔵さん。知ってるもんだと思って説明を
野菜を刻んだものと豆腐を入れた納豆が、四角く固められているものを見せてくれる。
「これに、あとは味噌と湯を入れればすぐに納豆汁になるんで、忙しい朝にぴったりなんですよ。うちの売れ筋です」
「へぇ、さすがお江戸は便利なんだな。では明日はそれを買ってみようか」
信蔵はまじまじと見つめてから、そう頷いた。
「あと、紋次郎さんの煮しめとかも、ほんと絶品なんでぜひ食べてみてくださいよ。ここの表店のとこに、煮売り屋がありますから」
そう言い残して与一が去り、部屋には二人だけになる。
昨晩の事が嘘だったように食事を共にしているのが、実に妙な感じだった。
「それでどうだろう?手紙にも書いたように、ちと他出を手伝ってもらいたいのだ。諸事情あって一人で出歩くと、どうにも渋い顔をされるゆえ」
「……では、朝も早くからお一人でやってきて、今ここで飯を頬張っていらっしゃる小野様は、私の夢でございますか」
それも悪夢だ。昨夜に引き続き、とびきりの。
信蔵の遠慮のない嫌味に、ふふ、と禍福は笑った。
「今はこっそり、よ。まぁこんなに長居しては、もう抜け出したことがばれておるだろうが……たまには良かろう。今日は家の者が忙しくてな。儂は頼まれごとがあって出かけねばならぬのだが、できればこちらの護衛には人数を割かせたくない。よって、腕に覚えがあるでろうお主に代役を頼みたいのだ。今日一日、多くとも二日あればすむと思う。日雇いでどうか?」
武家だ公家だとなると、何かと面倒なしがらみもあるのだろう。確かに忍仕事を通じて見てきた限り、戦国の世ほどではないにしろ、立場ある者にはある程度の用心は必要であるようだった。もちろん体裁的な意味合いも、大いにあるのだろうが。
それに禁じられてはいるものの、辻斬りなどという
「……わかりました」
なぜ俺が、とも思うのだが、頼み事をしている手前どう考えても立場が弱い。断って心象が悪くなるのは、最も避けたいところだ。ここは大人しく応じるのが最良だろうと、信蔵は依頼を受けることにした。
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