1-2
「お、来たな。信蔵」
因幡町の木戸のところで、権三が手を振っていた。どうやら待っていてくれたらしい。
「どうも、お邪魔します」
「おう。ちったぁその辺りの見物でもしてきたか?」
表店の脇から細道に入り、裏長屋へと向かいながら権三は聞いてくる。
「はい、いくらか。いやもう、目が回りそうでした。こんなに人がいるのを見たのは初めてで……見るもの見るもの珍しくて」
信蔵は正直、面食らっていた。日本橋界隈のあまりの賑わいと栄えぶりにである。
とるもとりあえず今日の宿を押さえた信蔵は、約束の刻限までまだだいぶあるからと、町に繰り出してみることにした。
いかなる時であろうと、情報収集は必須である。これまでは仲間がその役割を担ってくれていたが、今は己一人だ。しっかり自分でやらねば、と気合いを入れて宿から出たとこまではよかったのだが、そこからは調査ということが頭からすっぽ抜けてしまうほどに驚きの連続であった。
ぱっと見三十五
当然、道ゆく人も桁違いに多い。立ち並ぶ店に入ってゆく者、急ぎ足でただ通り過ぎる者、はたまた威勢よく客を呼び込む者。目にも華やぐ町娘、棒手振り、若衆に二本差し。身分も装いも様々な人々がこぞって往来を行き交い、賑々しいことこの上なかった。
江戸に行ったことのある里の者たちに多少の話は聞いていたが、やはり実際に目にするのとしないのとでは大違いだ。信蔵とて、これまで生業のために繁華な城下町などを訪れることはあった。しかし、やはり〝天下〟の名を戴く町は生半可なものではないのだと身をもって思い知る。
「どこのものが旨いのかよくわからなかったのですが……こっちは酒饅頭、この包みはおこしなんで、よかったら皆さんで」
信蔵は店の者に勧められるままに買った手土産を、権三に渡した。
良い関係を築くための油として手土産は必須であると、教えを受けた里人に口を酸っぱくして言われていたからだ。江戸の風俗についていくらか習い、せめて言動が田舎者という括りから外れてしまわないよう気をつけているつもりだが、正直うまく装えているかはわからない。とにかくふとした拍子にぼろが出ないよう、気を引き締めるしかなかった。
「おいおい、嬉しいがそんなに気ぃつかうんじゃねぇよ——————いてっ……やれやれ、お前たちときたら……我が子ながら嗅ぎつけんのが早ぇというか、ちゃっかりしてるというか……大きい方から、弥七、楓、小太郎だ。ほらお前たち、挨拶しな」
家の中から飛び出してきた子どもが三人、権三の腰回りにまるで入れ子人形よろしく並び、信蔵を見上げている。ということは、彼らが出てきたこの井戸脇の部屋が、権三の家であるらしい。
「おかし」
「弥七、それは挨拶じゃない」
「おかし食べていいんですか?」
「楓、丁寧にしても言ってることは兄貴と同じだぞ」
「……」
「なぁ小太郎、せめてうんとかすんとか言ったらどうだ?」
これだもんなァ、と大仰に空を仰いだ権三の様子は意に介さず、子どもたちは目をきらきらさせて信蔵を見上げてくる。どこかの店に飾ってあったびいどろのようだな、と思いながら信蔵は答えた。
「父ちゃんが食べて良いと言った時に、仲良くお食べ」
「はぁい!」
「ありがとう、お兄ちゃん!」
上の二人が元気良く言い、一番下の子は権三の後ろで嬉しそうにもじもじしている。
「いつだって返事はご立派なんだが、油断も隙もないんだぜ?特に上の二人はな」
権三は苦笑しながらおこしと饅頭を家の板間に置き、子どもたちを見下ろした。
「いいか、お前たち。午後の手習いをしっかりやったら、信蔵がくれたこの旨そうなおこしをおやつに食っていい」
「今食べたい!」
「すぐ食べたい!」
間髪入れずに、二人は口を揃えた。
「もうお師匠さんとこに戻る刻限だから、後でな」
権三がそう諭すと、弥七と楓は口々に言い立てる。
「だっておとっちゃん、早く食べてあげないとしけっちゃうよ!」
「そうだよ!これ江戸もんのおこしでしょ?」
「きっとせっかちだから、四半刻も経たないうちにしなしなになっちゃうって!」
「そうそう!楓たちが帰ってくる頃には、おこしか豆腐かわからなくなっちゃってるよ!そんなのおこしがかわいそう!」
我が道を行く子どもたちの言い分に、井戸端で談笑していた人々が吹き出している。
「お前らなぁ……いっくらここがお江戸っつっても、一刻ぽっちでおこしが豆腐になってたまるかい!本当にもう、口ばっかり達者になって。ほれ、つべこべ言わずにお師匠さんとこに戻れ。食うのは帰ってから!」
権三にぐいぐいと背を押された弥七と楓は、まだ納得のいかない顔で踏ん張って騒いでいる。
「おとっちゃんのけち!」
「けちぃ!」
「けちで結構!ほら、早く行けって」
やり取りを眺めていた信蔵は、思わず笑ってしまった。
「なるほど。油断も隙もないというのは、確かですね」
置かれた菓子にそろそろと近づいていた小太郎が、信蔵がじっと見ていることに気づいてびくっと止まる。
「弥七と楓が大人の気を引いている間に、お前がこっそり三人分頂戴する算段か。まだ小さくとも、自然な分担をちゃんと考えているんだな」
信蔵の声に、慌てて振り返った権三が叫ぶ。
「アッ、小太郎!お前もかよ!」
一瞬の間のあと、井戸端は盛大な笑いに包まれたのだった。
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