一章 信蔵、江戸へ
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世は泰平と言うけれど、つくづくそれとは縁がない。
胸の内でそんなことをぼやきながら、信蔵は触書きの掲げられた高札場を横目に、その立派な木橋へと足を踏み出した。
我が人生というやつは、どうしてこうなのだろうか。生まれてこのかた二十余年、平穏を謳歌する世間様の潮流に、いつだってそっぽを向き続けているのだ。
そういう星の元に生まれたのだろうから、つべこべ言っても仕方があるまい。信蔵とて常日頃から、己にそう言い聞かせてはいた。とはいえ、いかな忍耐に忍耐を叩き込まれた人間であっても、こうも困りごとが立て続くとさすがにうんざりしてくる。
にっちもさっちもいかない現状を前に、もういい加減にしてくれ、と大声を上げて物申したくなるくらいには焦れてきていた。神か仏か、いかなる存在に異を唱えれば良いのかは、信蔵自身にもよくわからなかったが。
——————あるいはとうとう、仏罰かなにかが下ったのかもしれんが……
薄桃の花びらを幾枚も絡めて、ごう、と強く吹き抜けていった風を、思わず目が追う。
橋の上から見える景色はなかなかに見栄えがして、疲れきった信蔵の心をいくらか慰めてくれた。日の出に煌めく水面には多くの舟が行き交い、ぞろりぞろりと連なった町並みの先にはまた別の橋が架かっていて、その奥に江戸城の石垣と富士の山が小さく見えている。
そう、ここは春もうららの大江戸八百八町。
信蔵が今まさに渡っているのは、かの有名な日本橋であった。
どこか玉葱を彷彿とさせる橋の飾りに目を留めたところで、威勢の良い掛け合いの声が風に乗って聞こえてくる。立ち止まってそちらを見やれば、北側の河岸辺りに何やら簡易な建屋が立ち並び、人だかりができていた。声と共に風に混じる磯のような匂いからして、どうやら魚河岸であるらしい。
「……あ、すまない」
信蔵が音と匂いに気を取られて急に歩みを止めたため、後ろから来ていた
火事と喧嘩は江戸の華などというくらいだから、吹っかけられるかもしれない。そう身構えた信蔵は、急ぎ詫びる。仮に殴り合いになったところで市井の人間に負けるわけもなかったが、できれば到着早々に悪目立ちはしたくなかった。
「おう、なんだ兄ちゃん。優雅に景色なんざ眺めてるところからすると、江戸は初めてかい?」
幸いにも、そのいかつい振り売りは喧嘩っ早い人間ではなかったらしい。彼は目を細めて鷹揚に笑うと、信蔵にそう尋ねてきた。
「ええ。つい今しがた着いたところなんです。いや、驚きました。見事だと聞いてはいたのですが、聞きしに勝る栄えっぷりで」
思ったままに褒めれば、その棒手振りはまんざらでもなさそうな表情を浮かべて、うんうんと頷いている。
「そうだろう?ま、将軍様のお膝元がしけてちゃ話にならねぇからな。今はまだ朝早いから人がちぃと少ねぇが、これからだぜ?このお江戸の本当の賑わいはよ。もうちょっと日が高くなった頃に、またこの辺りを通ってみな。おったまげるぞ」
彼は少ないと口にしたが、それでも既にそこかしこに人の姿はあった。目当てのものを仕入れた、あるいはこれから仕入れに行く棒手振りたちが、天秤棒に桶やら籠やらをぶら下げて足早に行き来し、箒を持った小僧たちが粛々と道を掃き清め、それぞれの店を開ける準備が進んでいく。
都と言えども、江戸の朝は早いようである。
「花のお江戸にひと旗上げに来た……つうわけでもなさそうだな。お伊勢参りかなにかか?」
思いのほか話好きなのか、彼は首を傾げながら旅装束を
「いえ、ちょっと人探しに来まして……まぁそうは言ってもその方の居所を知らないので、しばらく住みながら探すことになるだろうとは思うのですが」
この一見なんの変哲もない旅支度の内に秘めたものは多く、わずかであっても事情を明かすかどうか、信蔵は束の間迷った。しかしこんなところで立ち話になったのも何かの縁かもしれない、と言葉を続ける。
「つかぬことをお尋ねしますが、
「……小野禍福……?小野禍福、なぁ……いやぁ、悪いが初めて聞いた名だな。そいつはお武家さんか?それとも役者かなんかかい?」
もっともな疑問だ。しかし、信蔵はため息混じりに首を振って答えた。
「それが私にも、名以外の詳しいことがほとんどわからないんです……ただ江戸住まいらしいということと……なんでも怪しの術や、それを解くことに長けた御仁らしい、ということしか」
最後のひと言は、迷った挙句に付け足す。けれど、それを聞いても棒手振りは取り立てて妙に思うような素振りはせず、なるほどな、とだけ頷いた。
「あぁ拝み屋の類か。名前しかわからねぇっていうんじゃ、ちと時間がかかるかもしれねぇなぁ……なにせこの日の元に、江戸ほど人が多いところもないだろうしな」
信蔵も頷き返す。
「八百八町なんて言いますしね」
八百も町があるなどあくまで眉唾か、あるいは酒に酔っての大口だろうが、それでも人が非常に多いことには違いない。そう考えていた信蔵だったが、棒手振りが首を傾げながら呟いた言葉で二の句が継げなくなった。
「いやぁ、今は八百どころじゃすまねぇだろ。俺は細けぇところはよくわからんが、とっくに千五百は超えてるはずだ。正直なところそこまできちまうと、住んでる俺らだって把握しきれてねぇのさ。とにかく、そんくらい人は多いってことよ」
——————町が……千五百以上ある……?
尾鰭がついた上での八百八町かと思いきや、ほぼその倍である。予想を遥かに凌ぐ事態に、信蔵は愕然とした。一体ひとつの町にどれくらいの人が住んでいるのだろうか。そんな無数にも思える人々の中から、信蔵はこれからたったの一人を探さねばならない。
——————そうでなくとも気が滅入りそうだというのに……
しかも、探し人を見つけて話はそれで終わりではない。むしろそこからが正念場だった。
取り掛からねばならぬことの途方のなさに呆然としている信蔵をよそに、棒手振りは指を折ってする必要のあることを数え始める。
「お前ぇ、親戚んとことか、住むあてはあんのか?……親戚どころか、知り合いも全っ然いねぇ?そんなら、まずは長屋探しだな。空いてるところを探して、借りてよ。見つけるまでは旅籠か木賃宿を押さえて……あ、あと、もし仕事をして金を工面しながら人探しするっつうなら、それもだな……おい、若ぇのに死んだ魚みてぇな目してんじゃねぇよ。大丈夫だって。ここで出会ったのも何かの縁だ。この権三が手伝ってやっからよ」
半ば放心している信蔵を見て吹き出した棒手振り——————権三という名らしい——————が、励ますようにばしばしと背を叩いてくる。
「その禍福さんとやらも、周りの連中に聞いてみてやるからさ」
「良いんですか……?ありがとうございます。一体どこから手をつけたものか、正直途方に暮れていたもので……」
意外にも世話焼きらしい彼は、にかっと人好きする笑みを浮かべて言った。
「いいってことよ。俺ぁ因幡町の徳右衛門長屋の権三だ。あそこにゃ権三が二人ばかしいるからよ。魚売りの方って言やぁわかるぜ」
「私は信蔵と申します」
「おう、よろしくな。おっといけねぇ、長っ尻になった。とにかく俺ぁ、ちょっくら朝の仕事をしてくるからよ。宿だけ押さえて、昼過ぎになったら訪ねてきな。本当は泊めてやりてぇとこだが、なにせ裏長屋にかみさんと俺と子どもが三人も、みっちり詰まって暮らしてるからよ。勘弁な」
「いえ、大丈夫です。本当にありがとうございます。田舎者ゆえ大きな町にはほとほと不慣れで……手を貸していただけるだけで本当にありがたい」
言いながら信蔵は頭を下げた。窮地に人の優しさがとりわけ沁みるというのは、実に的を射ているのだと実感する。
「おう。ま、お前ぇにも色々と事情はあるんだろうが、人探ししつつ、遊山のつもりで気楽にやりゃいい。なにせ天下のお江戸よ。ここにゃおもしれぇもんが山とあるからな」
快活にそう言い置くと、権三は天秤棒にぶら下がった桶を揺らしつつ商いに向かった。その後ろ姿を見送ってから、信蔵は改めて江戸の町を見つめる。
「……」
連なりに連なった家屋。あれらの多くに人が住み、日々を営んでいる。そして今目に映っているのは、そのほんの一部に過ぎない。とんでもない人数が、この城下町では生きているのだ。
——————果たして、見つけられるか。
いや、弱気になっている場合ではない。なんとしても見つけなければならなかった。見つけて、願いを聞き届けてもらわなければ。
そうでなければ信蔵に——————帰る場所はないのだ。
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