呪われ信蔵、大江戸にて怪異を追う〜忍と拝み屋と怪事の顛末〜

喜楽寛々斎

序章 今際の呪い

 月明かりのもと、振り返った老女がたまたま小ぶりな石仏を手にしていたことが、信蔵の命運を分けた。


 左手に握られたその仏は、心臓を食い破らんとした切っ先をわずかに逸らし、即死する定めにあった彼女にささやかな時間を与えたのだ。生き永らえたというにはあまりにもわずかな、ほんのひと時。


 しかし後から思えば、それこそが信蔵を思いもよらぬ道へと引き込んだ決め手であった。

 運命の交わりとは、かくも面妖なものである。


 「……」


 膝を折って崩れ落ちた老女を受け止め、速やかにとどめを刺そうと短刀を握り直した信蔵は——————そのあまりにも穏やかな目と視線がかち合い、思わず動きを止めた。


「ありがとう。これでようやく……自由になれます」


 命を奪おうとした相手に、礼を言われるなど初めてだ。戸惑って見返す信蔵に、彼女は少しばかり困ったような表情で微笑みかける。


「わたくしをここから逃してくれるのが、同じ目をした方とは……因果なものですねぇ」


 老女は唯一顕わになっている信蔵の目を真っ直ぐに見つめ、何かを決めたような眼差しで続けた。


「お若い方、せめてものお礼として……最後にあなたに贈ることにしましょう。この“もとの呪い”を」


 次の瞬間、老女は死にかけているとは思えぬ力で信蔵の胸ぐらを掴んで引き寄せ、ぐぅっと目を覗き込んでくる。気づいた時にはもう遅い。魅入られたように彼女の目から目が離せず、指一本動かせなかった。


「あなたはもはや闇には潜めませぬ。どんなに身を隠そうとも、誰もあなたを無い者とは扱えませぬ。その日の下こそがあなたの居処。あなたこそが日の照るところ」


 まるで何かの宣誓のような言葉を言い終えた途端、抗い難い威圧を放っていた彼女の気配がふぅ、とか細くなる。幾度も目にした、命の終わる時だ。


「まぁこれが……お礼に、なるか……かえって……復讐に、なってしまう、かは……あなた、しだい、でしょう……け……ど」


 そう言い残した老女の頭はごろりと力なく落ち、あとは月光のもと、ただ骸が血のしみを広げるばかりであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る