第6話 西根課長

 会社で仕事をしている時に、同僚たちの視線がぎこちないことに気づいてしまう。

 きっと、正樹と揉めたことが、噂になっているのだろう。気にはなる、だが、プライベートなことだし、浮気された本人に何とも声を掛け難い……という所か。


 ここは、長年培った空気読めない鈍感スキルを最大限発動して、この同情と好奇心の混じった視線にあえて気づかないふり、無理矢理気づかないのが正解だろう。どうせ、一ヶ月もすれば、誰も気にも止めなくなるはずだ。

 微妙な空気感の中で仕事をしていると、上司に呼び出される。


 課長の西根真紀。仕事をサクサクとこなす尊敬できる上司。仕事に厳しく細かい所まで完成度を求めるから、部下の間では好き嫌いは分かれるが、私は、尊敬している。これで、二児を育てながら家庭と仕事を両立しているのだから、すごい。

 そんな上司に呼び出されて会議室へ。西根課長は、人前では決して仕事のミスを叱らない人だから、何か不備でもあって呼び出されたのかと、緊張する。


「忙しい時にすまないね」


 西根課長が、微笑んで座るように勧めてくれる。


「営業の伊川君を知っているよな?」


 伊川。正樹のことだ。課長の耳にまで噂は届いているということだろう。


「はい。知っています」


 どこまで、知っているのだろう。おずおずと私は、返事をする。


「殴ったそうだな。資料室でぶっ倒れていたところを、他の奴が発見した。本田君に殴られたと言っていたそうだ」


 面倒だ。どのくらい説明すべきだろう。


 そもそも、恋愛事情なんて課長にはどうでも良いことだろうし、問題となっているのは、私が殴ったことと、社員間でどのようなトラブルになっているかの確認がしたいだけだろう。ここで、七年も付き合っていたのに松本幸恵さんと浮気して~許せなくって~なんて話をするのは、野暮だし、私の女としての矜持が許さない。


 私の中では綺麗サッパリ終わった話なので、今更それを話して、伊川正樹や松本幸恵と三人でもう一度話をなんてことになれば、とんでもないストレスだ。


「本田君が、伊川君と付き合っていたことは、知っている。さすがに、七年も付き合っていたなら何となく気づいていた。そして、伊川君が松本君と仲が良くなってきたことも」


 給湯室でキスまでしていたんだから、正樹と幸恵の仲も、それとなく噂にのぼっていたということだろう。気づかなかったのは、私が鈍かっただけだ。


「いいんじゃないですか? 結果、伊川さんと松本さんが付き合うなら、それで。あんな男、どうでもよいです。不要です」


 平然と心穏やかに私はそう言い放つ。

 本心だ。

 今さら、こちらへ目を向けられても困るし、二度と関わり合おうとは思わない。


「ぶん殴ってすっきりした?」

 西根課長は、笑顔を崩さずにそう聞く。


「ええ。それで、何か問題が生じて、私が左遷とか退職になるなら、それも後悔しません」


 退職を余儀なくされてしまったら、生活には困るだろう。

 次の職を見つけるまで、モドキに買ってやるチュールの量は減るが、仕方ない。我慢してもらおう。モドキだって、きっと理解してくれる。

 文句の多い猫もどきだけれども、あれは、そんなに悪い奴ではない。


「すっきりしたならそれで良いよ。ただ、ね……」


 やっぱり何か問題だと上部では言われているのだろうか。

 所詮女子社員なんて使い捨て。どんなクズでも、それなりの営業成績を上げている正樹の方が立場は上ってことなのだろうか。

 正樹を慮って、私には、退職勧告か?

 私は、覚悟を持って、西根課長の言葉を待つ。


「もっと、足を使って踏み込んで仕留めないと。腕だけに頼っちゃ駄目よ」


 話はそれだけ。

 そう言って、西根課長は、会議室を出て行った。



 会議室から出た私を、同僚の柿崎がつかまえる。


「ね、西根課長に怒られた?」


「いいや。西根課長には、足を使ってぶん殴れば、もっと威力が増すってアドバイスをもらっただけ」


「そうなんだ~。さすが、課長」


 柿崎が恍惚としている。

 柿崎の話では、西根課長は、正樹の上司である営業の課長にさんざんに怒鳴られていたそうだ。どうやら、正樹は、『訴える』を実行して、自分の上司に、経理の女に恋愛の行き違いでいきなり殴られたと相談したらしい。


 どこまでいっても、クズだ。七年間の私が可哀想になるから、もう大人しくしてほしい。


 人前で大声で怒鳴る営業の課長を、西根課長は、涼しい顔で受け流して、


「ウチの課の子達は、私の預かりですから。私が、私の責任で指導します。あなたこそ、躾の出来ていない部下の教育を見直したらいかがですか?」


 と穏やかに笑っていたのだそうだ。

 カッコイイ。

 ヤバイ。惚れてしまいそうだ。


「西根課長、一生ついて行きます!!」


 柿崎の叫びに、私も激しく同意する。

 若い社員達の間で、課長カッコイイという話は、すぐさま広がり。西根課長のファンは、この件で急激に増えていった。

 西根課長の評判が上がれば上がるほど、私の件も、これ以上とやかくは言い難くなったのか、営業の課長からの横やりもこなくなった。

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