第一刃亜種の舟盛りのような情報量⑧
文明開化の音と主に西洋文化が日本に大量流入した時、日本の神秘学というのは、和洋折衷になった、その前の日本の古神道ではなく、陰陽道の一端、明治維新前、『宮地神仙道』の開祖として知られる宮地水位氏著の『異境備忘録』で言及される悪魔界の12人の魔王というのがいる、
それが、たった百年前であり、その数百年前には魔女狩りにあった。
心理学が未発達であり、他人の悪意が詳細不明な事が多かった。
それでも、他人の気持ち、他人の視線に込められた念は邪視と呼んでいた。
それは、不吉を孕み、内心は穏やかでないのが明白に見える。
だが、男達はその中でもそれを明確にする方法が決闘であった、西洋では騎士が、日本では果し合いと言えば、侍の文化として伝わり、これらは全く違うのだ。
はっきりと言えば女性であるならば、この論理は未来永劫分からないだろう。
それほどまでに男が自分の力を盲信して、盲進するのはもはや暴力を愛している。
原始人、野蛮人と言われた石器時代から紀元前、西暦元年から二千年を経ても、その根底にある格闘技への造詣、憧れ、狂信は、決して不朽しない概念であった。
棍棒が生まれ、斧が生まれ、剣が生まれ、槍が生まれ、弓が生まれ、矛が生まれ、鞭が生まれ、鉤爪が生まれ、やがては銃や大砲、軍事兵器が沢山が生まれた。
7000年の歴史を総括してみても、人間は悪意を武器、凶器へと変貌させた。
その原始的なまでの理屈を込めるのが、握り拳であった。
ただし、アマゾネスや巴御前等の例があるように女性の一部にもそのような理屈に女性の身でありながらも執着するので、実際のところ想定される性差はあまりない。
ただ、付け加えるならば、悪魔を超えなければ、退魔師は務まらない。
怪物を見て怪物になってこそ上等、悪魔を見て悪魔になってこそ最高の男。
屠龍の技という言葉は居もしない存在に賭ける徒労の努力だが禊瀬白猿は違う。
この男の一存、一興、一つの癇癪、それで自分の世界観を壊されたくはない。
だからこそ、化け物を目の前にしても、
たった一つの技、それは、やはり、
それが、無言のまま、放たれた。騎士道精神など微塵も感じない。
ならば、こそ、それで、屠龍の技はここで完成する。
「
神聖な気が禊瀬白猿から流れ出した、無意識下から現れた虎を模した衝撃波が放たれた、明鏡止水の境地でここで至り、そのまま殴り飛ばす事に成功をした。
「決着だーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
レフェリーは絶対不変に禊瀬白猿の勝利を宣言したが、彼は直後に倒れた。
その魔龍の拳法には毒気というのが呪いの怨念が多分に含まれたからだ。
つまり、相打ち、つまり、引き分けという形で試合が終了をした。
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