第7話 アイドルさんはねぎらいたかった
「はー……」
寒空に息を白くする。路面も凍るようなこの寒さの中で唯一「いいな」と思えるものだ。吐く息が白くなるとどうにももっと息を吐きたくなる。これは人間に刻まれた本能みたいなものかもしれない。
「ほれ」
「あっつ」
いうほど熱くなかった。けれど、冷たくなった頬にその熱は嫌に熱く感じたのだ。
「あっ、ごめん。そんな暑かったか」
「んーん、冷えただけ」
「言ってくれたら迎えに来たんだぞ」
「言ったら迎えに来てくれるから」
「なんだそりゃ」
「だから言わなかった」
いたずらっぽく言ってみる。そこにはおじさんがいた。コート姿でよんでもないのにもう片っぽの手に自分の缶コーヒーをぶらさげて。
「前も言ったけど、別にいいんだぞこれぐらい」
「だめだよ。おじさん、ただでさえ仕事で疲れてるし」
「社会人舐めんな。これぐらいみんなやってる。それに夜道は危ないだろ?」
「……うん」
そう言うとおじさんは背中を向けて駅の方へと歩き出した。妙におじさんの背中が頼もしく見える。
私は自然な感じで隣に追いつくと右手を絡ませた。おじさんは特にどうじていない。
人通りは少なかった。七時ということもあって、仕事帰りの人は多かったがそれ以外は家に引きこもってる感じ。当然だ。年末にわざわざでかけたい人などそういない。
バイクが一台、音を立てて私達の横を通り過ぎた。
「……ねえ、おじさん」
「なんだ?」
「年末、帰るの?」
「……帰りたいか?」
「……正直、帰りたくない」
「そっか……じゃあ家にいようか」
「いいの?」
「いいのいいの。どうせだしに使うのはお前だし」
「ひどーい」
「これがいざこざを招かない大人のやり方ってやつだ」
「ほんま汚い大人やで」
「真似するな」
「んふふ、ごめん……」
街路ではお店の明かりが道路の端まで伸びていた。ウィンドウの中はどれもきらめいていて、クリスマスも過ぎたからか歩道には年末セールの文字が散見される。そうか、大晦日はもうすぐそこまでやってきているのだ。
「……おじさん」
「なんだー?」
「……わたしね、あの家にずっといたい」
「……それにはまず大学先決めないとな」
「あー……」
「とりあえず大晦日に蕎麦食って、初詣言って、餅食って、豆まきでもして、お花見して。それからでもいいんじゃないか?」
「なんだか食べてばっかだね」
「大人になるとな、季節感覚を食べ物で接種するようになるんだ」
「それかゲーム?」
「そうそう、バレンタインのプレゼントアイテムとかもらって”そういや今日バレンタインだったわ”って思い出すんだ……って馬鹿野郎」
「あははっ!」
楽しい。おじさんといると、毎日が楽しい。物語のように苛烈にすぎるでもなく、ゆっくりと暖かく私を包み込むように過ぎ去ってくれる。私は──
「やっぱり、大人になりたくないな……」
「……」
おじさんは少し遠い目をして
「俺もだよ」
「え、おじさんも?」
「俺も、若いときにそう考えてた」
「へ~、意外」
「具体的には幼稚園の時、小学校に上がることを聞いておとなになりたくないと思っていた」
「えっ、はや。それはちょっと達観しすぎじゃない?」
「あはは、そうかもな」
そういうとおじさんは少し目線を外して
「今しかできないこともあるからな」
そう言った。
「ただいま~」
「おかえり~」
「一緒に帰ってきただろ」
「でも、おかえりの声がないと寂しくない?」
「……それはそうだな」
「でしょ~?」
「風呂どうする?沸かすけど、先入るか?」
「あ、うん。おねがい」
おじさんは荷物をテーブルに置くと洗面所の方へと移動する。お風呂を沸かしてもらっている間に私は外着の服をハンガーへとかけた。
「そろそろ湧いたから入れー」
「はーい」
15分後、ダイニングから呼ぶ声がする。もしかして、また仕事をしているのだろうか。やはり、私の稼ぎだけでは足りないのだろう。
気持ちを切り替え洗面所に来るとトップス、スカートの順に脱ぎ、ブラのホックを外す。
「あ~、ちょっと跡になってる」
最近は胸がちょっと出てきたこともあってスポーツブラからホックの方に変えているのだが、やはり初めてということもあって跡ができていた。自分にあったブラジャーを選ぶのは難しいというが、どうやら本当だったようである。
「パンティーは簡単に選べるのにな……」
世の中そううまくはいかないな、とブラジャー一つで達観した気になりながら足を通して脱いだパンティを洗濯機に入れシャワーの蛇口をひねる。
女の子のお風呂ではやることが多い。私はまず髪を洗い、体を洗った後に上にトリートメントをする。その後、シェービングジェルを塗ってムダ毛を除毛しお風呂に浸かる。言葉にするだけならなんてこと無いが、実に三十分から四十五分が浴槽に浸かるまでに消費されている。段取りが悪ければお風呂に入る前に指がふやけてしまうのもしばしばだ。
あまり体の天然オイルを洗い流さないようにほどほどで浴槽から上がると髪を押すようにタオルで乾燥させ、体を拭き新しい下着とパジャマに身を包む。そして、化粧水と美容液を塗ってドライヤーで髪を乾かす。これまでになんと一時間、へたすれば一時間半かかるのだから大変だ。好きでやっていることだけど、これを一日でも欠かすことがあれば如実に肌トラブルに直結する。
そんな単純作業の中でも私は考えていた。どうにかしておじさんの労をねぎらえないものかと。最近おじさんが徹夜続きなのは知っている。おじさんの朝のたちも悪いことを知っている。これを言うと多分普通に怒られるので絶対に言わないが、とにかくとして元気が無いのだ。
そして私は湯船に浸かりながら考えた。そして、ある結論に至る。そのために私は今日のお風呂上がりの作業をすっ飛ばして浴室から出た。
「お、上がったか。それじゃ俺も──」
おじさんがタオルを落とした。ついでに下着も。
「へっへーん」
「……」
固まっていた。
「おじさん、こういうの好きでしょ」
私は全裸でそこにいた。バスタオル一枚を羽織って。
おじさんはしばらく面白いことになっていた。おじさん流に言うなら「デバッグしてる途中のプレイヤーの挙動」みたいになっていた。意味はわからない。とにかく面白い動きをしていた。
「ん~?」
覗き込んでみた。顔をそらされる。多分なんて叱ればいいのか、そもそも叱ればいいのかなだめればいいのか諭せばいいのか頭がこんがらがってわからないのだろう。こういうおじさんは面白い。あれ?私、労をねぎらうんじゃなかったけ。
まあいいや、おじさんが今面白いし。
「……服を着なさい」
絞り出したような声だった。
「え~、つまんな~い。もっとなんかあるでしょ~?」
「つまんないもヘチマもありません。さっさと髪を乾かして出てきてください。後がつかえています」
「ほらほら、お風呂あがりの女子高生がバスタオル姿で目の前にいるんだよ?黒髪ロングだよ?アイドルだよ?」
「だから、だめなんだよ……」
「ほら、元気いっぱい出るでしょ?」
「ちょっ!」
目いっぱいの力で抱きついてみた。無論、水気はそれなりにきっている。
「十香さん……?」
「えへへ~。いい香り~」
「同じ柔軟剤使ってるし……じゃなくて、離れてください?」
「元気出た?」
「困ります」
「……敬語やめて?」
「上目遣いやめて?」
「何がそんなに気に入らないの?」
「この状況」
「ぶ~」
しぶしぶ離れることにした。
「元気出ると思ったのに……」
「いやまあ、元気は出たけどさ……」
「ほんと?」
「いや、まあ……というか、元気出させようとしてくれたのか?」
「そうだよ?最近おじさん元気なさそうだったから、こういうの好きそうかなって……」
「どストライクなことは口が裂けても言えないが――」
「どストライクなんだ……」
「普通に労をねぎらえ無いのか」
「普通にって?例えば?」
「……肩を揉むとか?」
「……ああ」
普通すぎて完全に失念していた。
「それじゃ失礼して……」
「まてまて!?その格好でやるつもりか!?」
「ちぇ、だめか」
「だめに決まってるだろ!寒そうだし、はやく服着ろ!ああ、髪も……」
おじさんは慌てたようにドライヤーを持ってくるとダイニングに私を座らせ髪を乾かし始めた。結局、労をねぎらおうとしてまた迷惑をかけてしまった。
「髪はすぐ乾かさないと、風邪引くだろ?」
「……ごめんなさい」
「別に良いよ」
「私、おじさんに元気になってもらおうと思って、でも、また迷惑かけて……」
「ああ、ほらっ。元気だして、そんなこと無いから」
「ほんと?」
「ほんとほんと、こういうのは何をされたかより気遣ってくれたことのほうがありがたいんだから」
「やっぱり迷惑だったんだ……」
「なんでそうなるかなあ……」
おじさんは困ったように、それでもなれた手付きでドライヤーを私の上にかけていた。
「化粧水の後に美容液の順でいいか?」
「えっ?ああ、そうだけど……」
「じゃあ、目えつぶれよ」
今度は私の化粧水やら美容液を持ってきたかと思うと、私の顔に塗り始める。まさかここまでやってもらえるとは。
「なんだかおじさん、慣れてない?」
「何が?」
「なんというか、女の子の扱い」
「そうか?」
「本当に彼女いなかったの?」
「……今はいないぞ」
「あー!!あやしー!!」
「何が怪しいんだよ……」
「元カノレーダー受信中!!ビビっ、怪しいです!」
「なんも怪しくないよ」
「うっそー。じゃあなんでそんなに化粧水とかドライヤーとかなれてるのー!?」
「……」
「んー?」
「……昔、ちょっとな」
「昔っていつ?」
「……俺が19の頃だ」
「はーっ、6年前じゃありませんか……」
「6年前ならもう時効だろ」
「いいえ、ギルティです。十香的にはまだまだ有効範囲内です」
「なんだそりゃ……」
「それでー?彼女さんとはどこまでいったの?」
「どこまでって……」
「ど・こ・ま・で・行ったの!?」
げしげしと肘でつついてみる。
「なんもないよ。ただ半年くらい付き合って別れただけ」
「えー、怪しいなー」
「ホントだって」
「観念しろ、このっ」
「あははっ、くすぐったいって!」
「このっ、このっ、隠し事しやがって!」
「悪い悪い、悪かったよ!」
「反省しろ、このっ、このっ──」
どさりと、ダイニングに鈍い音がなる。
「……」
「──っ」
床に垂れる私の髪、脱げかけるバスタオル。どこかについていたのか、溢れる水滴。おじさんの顔がすぐそこにあった。
動悸が、激しい。どくどくする。びっくりしたからだ。でも、それ以上に──
この胸の高鳴り
「ご、ごめっ……」
「…………」
おじさんは一言、「これに懲りたらヤンチャしないようにな」とだけ言って、私の頭をなでてくれた。私がやってしまったと萎縮しているのを感じ取ったんだと思う。そういうところ、ほんと──
「……」
もう一度、私はお風呂に入り直した。面倒なのに、おじさんにせっかく乾かしてもらったのに。それでも、おじさんは「いいよ」とだけ言ってまた仕事に戻ってしまった。そんなつもり無かったのに、また私はあの人に迷惑をかけた。
「鳴り止んでよ、もう……」
止めたかったのだ、あの時からずっとうるさいこの鼓動を。湯船に浸かり直せば鳴り止むかなって。
結局、私は落ち着けることもないままお風呂を後にした。風呂中ずっと響いていた水滴の音がまだ頭の中で鳴り響いている。
その日は結局、10時におじさんはお風呂に入った。
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