二〇話、とある地下室と、老人と少女
暗い地下室。光ひとつ無い。
少女は大きすぎる上着を脱いだ。
シャツを脱いだ。
下着を脱いだ。
裸になった。
地面に蹲った。
地下室は静かだった。
上から光が差し込んだ。
少女はその天使の
一人の老人が降りてきた。
老いても、身体はしっかりしていた。
杖もせず、入れ歯もない。
彼がやってくると地下室に芳香が漂った。
少女に近づき、しゃがんだ。
その一つ一つの動きが、彼が只者では無いことを語った。
階段からやってくる白い光が、部屋の一部を暗く照らす。
やあ。
彼は少女に話しかけた。
わたしを待たせないでよ。
と、少女は不満そうに返した。
ごめんよ。仕事があってね。
彼はネクタイを緩めた。
少女は両手で膝を抱え込んだ。
すまない、いつものを用意できなかった。
彼が頭を下げた。
少女は頭を横に振った。
いいの。いいのよ。しょうがないわ。
君は、これからどうする気だい。
聞かれて、少女はどもった。
まさか、動かないことはないだろうね。
少女は下唇を噛んだ。
老人が続ける。
その白い肌が。
その優しい釣り目が。
───今にも裂けそうだというのに。
彼は、孫に触れるような手つきで、少女の肩を撫でた。
少女は下を向いた。
分からないわ、と答えた。
どうすればいいのか、分からない。
今まで、他者願望で動いてきた。
自分の意思なんて、なかった。
あなたと出会った時から、あなたのことばかり考えてた。
好きだった。
その風貌の全てが好きだった。
あなたが優秀だった。
それから、恋というものを知らなかった。
わたしを、求めようともしなかった。
老人が、静かに弁解する。
君を求めないのは、軽々しく求められるはずがなかったからだ。
他にも、同伴がたくさんいた。
平和じゃない世の中で、身を滅ぼしてきた人も沢山いた。
簡単に、君だけを大切になんかできない。
それって!
少女は気持ちを昂らせて言った。
わたしが死ぬのが、怖かったってこと?
違う。
老人がはっきり断る。
君には理解はできないだろうね。
少女に、背を向けた。
その背中に漂う哀愁を、少女は目でなぞった。
あの時。あんなにも仲間を連れて。
結局、わたししか残さなかった。
みんな散って、あなたは老けた。
結婚して、孫までいる。
ああ、それなのに。
どうしてあなたは。
大切でもなかったわたしを。
───ずっとそばに置いていてくれたの?
捨てても。良かったのに……。
違う!
老人の声が、地下室に響く。
少女の方を振り向き、その小さな身体を包み込んだ。
少女は抵抗せず、涙を浮かべた。
だから、言っただろう。
君には理解ができない、と。
君のことは、出会った時から大事にしていた。
そもそもわしの運命を変えたのは、君だ。
他の人の心を動かすことから。
他の人の身体を薙ぎ倒すことまで。
君は何一つ、苦手なことはなかった。
だが、一つだけ、わしは気づいていた。
わたしは……。
君には、自我がない。
君は、わしを何度も救った。
だが、それは、わしのためだった。
それは、他人のためだった。
君は、自分らしさを、持ったことがあるか?
……だって!少女が反抗する。
では、わしが仮に死ぬとして。
君がわしを君の「自分らしさ」にしていたとしたら。
……君はその後、一体なんなのだい。
……。
少女は答えられなかった。
唇が震えている。
何かを、言いたそうにしている。
だが、彼はそれを待たなかった。
老人は再び少女に背を向けて、降りてきた階段の方。
光の射す方へと向かっていった。
その歩みはゆっくりとしていて、まるで。
まるで、彼女に言葉を言わせる、その最後の機会を与えているようだった。
最後の一歩。
階段に、片足を乗せた時。
少女は弱々しく口を開いた。
弱々しい。が、その言葉の中身は強いものだった。
彼女は言った。
わたし、守りたい。
あなたのためではない。
誰かのためでもない。
ただ、自分のために。
自分らしさのために、守りたい。
それだけの力はある。
心もある。
けれども、勇気はなかった。
でも!
少女は昂って、叫ぶように言った。
それでもあなたはわたしを見捨てなかった。
何十年も、待ってくれた。
もしかしたら、何百年だって、待ってくれるのかもしれない。
でも、わたしは嫌。
もっと、一緒に遊びたい。
もっと、知りたい。
老人は黙って、振り返らずその一言一句を聞いていた。
だから、と少女が続ける。
わたしは。
────硬い鱗片を、剥がしてみせる。
沈黙。
鼓動。
老人は振り返らなかった。
背を向けたまま、優しく言った。
おめでとう、と。
これを───君の今の言葉を、わしはプライドと呼ぶ。
随分待ったが、その甲斐があったものだ。
本当に君は、素直じゃないな。
老人の声は、少し潤んでいた。感心した声だった。
少女が微笑む。
服を着なさい。
風邪をひかれたら困る。
老人が忠告する。そして申し訳なさそうに言う。
月光はまた、今度持ってきてあげよう。
月関連の仲を、久々に見つかったんでね。
うん、お願い。
少女が頷く。下着を掴む手を、きゅっと結ぶ。
それから、と老人。
───わしは死なんぞ。
白い歯を見せて笑った。
君を待ったのは、思い出があるからだ。
だが。
君を待てたのは、プライドもあるからだ。
忘れぬように。
うん、と返事する少女。
頼むぞ。相棒。
これからが、本番だ。
老人はそう言って、少女の方を向き、拳を突き出した。
少女は涙を流しながら笑って頷き、自分の小さな拳をそれにぶつけた。
涙が収まる。
二筋の跡を頬に残す。
その肌は白く、その髪は長く黒い。
一対の瞳が、赤く光っている。
その顔は少女そのもの。
だがその決心は、何十年も溜めた、爆発であった。
少女は老人の優しい両目を見た。
背後の光が、少し眩しい。
これから、どうなるのかは分からない。
でも、わたしは決めた。
わたしは───。
「このシラカバ、学園を、生徒を───守り抜いて見せます」
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