第5話 始まりの一歩
それからというもの。
あいている時間を見つけては、マデリーンはせっせと刺繍に励むようになった。
黙々と手元の作業に集中していれば、時がたつのも忘れられる。
変に考え込まなければ良いのだと気づいてからは、より意識的に取り組むようになった。時間をかけたおかげで、マデリーンの刺繍の腕はめきめきと上達していった。
そうしているうちに、ミアと離れてざわめいていた心も、次第に静かに落ちつきを取り戻していった。
(しっかりしないとね)
そう、冷静に考えられるようにもなってきた。
寂しいだなんて子供っぽいこと、言っていられない。姉も、嫌な学園生活を頑張っているのだから。ミアに余計な心配はかけたくなかった。
(刺繍、好きだわ。落ちつくし……)
何より、できたものを母に見せると、手放しで褒めてくれるのだ。それがマデリーンは嬉しかった。
(……できた)
マデリーンは針を片付けると、仕上がったばかりのハンカチを空に広げてみた。
二輪の、薄荷色の薔薇の刺繍だ。やっとできた。
丁寧に時間をかけて作った二枚は、父と母の分だ。父も母も、マデリーンの不安定さを咎めることなく、じっと寄り添い見守ってくれたから。
感謝のしるしとして、何か形になるものを贈りたかった。
共に朝食をとった後、マデリーンはディーに歩み寄った。何故かどきどきしてしまう。
「お母様……あの、これを」
「まあ。私にくれるの?」
こくこくとマデリーンは頷いた。
頬が熱くなっているのを感じる。こうして、家族に改めて贈り物をするというのは何だか気恥ずかしい。
出来栄えはどうだろうか。自分では、上手くできたと思っているのだけれど。
マデリーンからハンカチを受け取ると、ディーは顔を綻ばせた。
「ありがとう~マデリーン、刺繍が上手いのねえ。私よりずっと上手いわ~。ねえ、あなた。見て下さいな」
「ん? これは……マデリーンが?」
ルーファスは、ディーの手元をじっと覗き込んだ。そうして、くしゃりと笑う。
「素晴らしいな! マデリーンは天才だな!」
「わ」
ルーファスはニコニコと笑いながら、マデリーンの体を軽々と抱き上げた。マデリーンはぎょっとして、慌ててルーファスを止めようとした。
「お、重いですわ、お父様!」
「何を言う! マデリーンは羽のように軽いな。もっと食べないとな!」
「このハンカチ、あなたの分もあるんですって~」
「何と……ありがとう、マデリーン!! どこに飾ろうか!?」
「つ、使ってください!」
ルーファスもディーも、嬉しそうに笑っている。
くるくるっと何回か宙を回転した後、ようやくマデリーンは降ろしてもらえた。目が回りそうだ。ドレスの裾が乱れてしまったが、今は気にならない。
「もったいなくて使えないな、これは……」
「そうよねえ~。マデリーン、大事にするわ」
父も母も、穏やかに笑いかけてくれる。マデリーンの胸に、あたたかく灯るものがあった。
(……お父様、お母様……)
時間はかかってしまったが、ようやく前向きな気持ちになれた。
「ありがとうございます、お母様、お父様……」
心から、そう思う。
感謝の言葉は、自然と口から零れていた。
父や母の為にも、しっかりしなくてはならない。ただ待っている間に、マデリーンができることがあるはずだ。時間をかけて上達した、この刺繡のように。
(同じ時間が流れるのなら、有意義に使うべきだわ。……そうよ)
ここで、姉の為にできることをしよう。
いつか家族が困った時は、マデリーンが助けられるようになりたい。
不安定でぐらぐら揺れているような木には、誰も頼ろうとはしないだろう。地に根を伸ばして、しっかりと立っていなくては。
「……お父様、あの」
「どうした?」
「……えっと」
ルーファスは屈むと、もじもじと言いよどむマデリーンと目をあわせた。
この可愛い娘は、変なところで遠慮がちだ。
もっと何を言っても構わないのに、とルーファスは懸念していた。
今まではミアが、マデリーンの分まで代弁していたけれど――マデリーン自身、自分の口から言えるようになって欲しいと常々思っていた。
「マデリーン、何でも言ってごらん」
マデリーンはそわそわと落ち着かない様子だったが、ルーファスは根気よく待った。照れるマデリーンも世界一可愛いな、と思いながら。
ややあって、ようやくマデリーンは重い口を開いた。
「わっ……私、お姉さまの役に立ちたいの。だから、もっと勉強がしたいわ!」
思いがけない娘の言葉に、ルーファスは目を瞬かせた。そして、破顔する。なんて可愛らしいことを言うのだろう、我が娘は。
「おお! そうか……マデリーン、素晴らしいな!」
「マデリーン、あなたは頑張ってるわよ~。令嬢としては、もう十分に完璧。それでも、もっと……ってことよね~?」
「うん」
ディーの穏やかな声に、マデリーンは力強く頷いた。
あまりの健気さに、思わず膝から崩れ落ちそうになる。この娘は天使かもしれない、とルーファスは思う。半ば本気で。
「……我が娘ながら、なんと……!」
「いいわねえ、母様も応援するわよ~!」
ディーもルーファスも賛同したからか、マデリーンの唇から安堵のため息がこぼれた。高みを目指そうという娘に、反対などする筈がない。
「勉強だけでは心身のバランスが取れない。体も動かそうな、マデリーン。何事にも体力だぞ!」
「はい、お父様!」
すっかり元気を取り戻したマデリーンは、やる気に満ち溢れている。空元気に見えなくもないが、ミアが不在な分、しっかり傍について娘を見守ることにしよう。
とはいえ、ルーファス自身が教えられることは、剣術や体力方面のみではあるのだが。きっと、マデリーンの望むものは筋力だけではないだろう。
「しかし、マデリーンは一通りの礼儀作法は習得しているし、基礎学力もある……」
「そうねえ……私が教えられることは、あとは魔法の使い方くらいだし……そうだわ、家庭教師をお願いしましょうか?」
「ディー、何を言う! 君は素晴らしい女性だぞ!」
「ありがとう、あなた~。それで、家庭教師といったら……あの方にお願いできないかしら~?」
「おお、そうだな。あいつを頼ろう」
適任がいた、とルーファスは手を打った。マデリーンはきょとんとして、父と母を見比べた。
「あいつ??」
「旧友だよ。ディーを救出に行く時に同行してくれた、頼もしい賢者殿だ」
「賢者様」
マデリーンの青い目が、驚きで見開かれる。マデリーンのキラキラとした興味は父母にも伝わったようで、二人はうんうんと頷いている。
「そうだ! しかもあいつ、確か水属性の魔法が得意だったはずだ。うってつけだな!」
そうと決まれば手紙を書こう、とルーファスはペンをとった。
「手紙を書くのは何年ぶりだ……? 十年か? まあいいか」
がさがさと机の引き出しから紙を取り出し、ルーファスは真剣な眼差しでペンを走らせる。マデリーンは、そろりと母に歩み寄った。
「……お母様」
「なあに、マデリーン」
こそこそっと母に耳打ちをする。ディーも、マデリーンに合わせて小声で答えてくれた。
「お父様に、お友達がいたのね?」
マデリーンは心底、そこに驚いていた。父が、知己と会って歓談しているイメージが一切ないのだ。ミアもきっと驚くに違いない。
ディーは、可笑しそうにクスリと笑った。
「ふふ、居たみたいね~。初めて聞いたわね?」
「……うん、はじめて……お母様は知ってる? 怖いひと?」
賢者というと、どうしても怖そうな人物像を想像してしまう。
眉間に皺がギュッと寄っていて、髭が長くて、頑固で気難しい老人。物語に出てくる賢者や魔法使いは、いつもそんな風に描かれていたから。
ディーは、可愛らしい想像をしている娘の髪を優しく撫でた。
「そうね~会った事はあるわ~。とってもいい人よ~」
「お髭はある?」
「どうかしら、昔に見た時は確かなかったはずだけど……今はあるかもしれないわね?」
「わあ……」
「ふふ、マデリーン。緊張しなくても、優しい方だから大丈夫よ~。……そういえば」
「?」
ディーは少し考え込む仕草をした後、ルーファスに声をかけた。
「あなた~。指導をお願いするのなら、家族の皆様も招待したらどうかしら~」
ルーファスは、ぴたりとペンを止めた。顔をあげ、ディーを見る。
「む? ジェニーもか?」
「そうよ~。あなた、随分とお世話になったでしょう~? 長く会っていないし、おもてなししたいわ~」
「それもそうだな……あいつらの顔も久々に見たい気がする。いっそ呼ぶか」
「ええ、それがいいと思うわ~」
また知らない名前が出た。
くいくい、とディーのドレスの端を引いてみる。
「お母様、ジェニー様とは?」
「賢者チェスター様の奥様よ~。体術が得意な方でね~。大きな盾を持って前線に立って、とっても格好よかったのよ~」
マデリーンは目を丸くした。今日は驚いてばかりだ。
「その方も、お母様を助けに来た時、一緒に?」
「ええ。懐かしいわね~。ルーファスが竜の尻尾で吹っ飛ばされたところをジェニーの盾が受け止めて、すっごい音がしていたわ~」
「……わあ」
マデリーンの想像を軽く超えている。ミアは知っているのだろうか。今度戻ってきたら、是非一緒に聞いて欲しい。きっとミアなら、この話を心から楽しむに違いない。
そうそう、とディーはのんびりした口調で付け加えた。
「確か、年の近い男の子がいるわよ。初めて会うのだけど、仲良くなれると良いわね~」
「うん……」
そればっかりは、マデリーンにも自信がない。
だが、期待をしている母の前で、否定はできなかった。
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