07 深い愛
意識がもうろうとしてきた。
もう、どっちに逃げればいいのか分からない。
煙がこの部屋の中にも、流れ込んでくる。
このままだと炎で焼ける前に、死んでしまうかもしれない。
けれど、私はまだ死ぬわけにはいかない。
腕の中にある赤ちゃん。
我が子を守らなければ。
それだけはしっかりと考える事ができた。
だから私は、押し入れの中にあったそれで我が子をつつんだ。
現場に到着した消防士は、ひどい火事を目にしていた。
炎の勢いが強すぎる。
煙の量も多かった。
逃げ遅れた人がいたとしても、これでは助からない。
必然的に、そう思った。
ホースで水をかけて消火にあたっている隊員達も、絶望的な表情をしていた。
しかし、どんなに可能性が低くても、何もしないでいられるわけがない。
俺達は、専用の装備を身に着けて、火に包まれる家の中へ突入した。
家の中は真っ赤な色に染まっていた。
ごうごうと燃え上がる火の柱があちこちにあって、思うように前に進めない。
それでも、生存者がいないか確認しながら、一つ一つの部屋を調べていく。
リビング、キッチン、お風呂、トイレ。
この部屋は二階建てだが、一階に人はいなかった。
激しく燃えている部分は、一階のリビングの部分だった。
だから生存者がいるなら、二階だ。火から逃れるために上の階へあがったのかもしれない。
煙は高い所にのぼるからそれは危険な行為だ。
火事では、煙を吸って死んでいく人は予想以上に多い。
けれど、そんな事は知らなかったのかもしれない。
パニックになっていて、とりあえず火から離れようとする者もいる。
だから俺は、二階へあがるために階段を探すことにした。
外で消火作業にあたっている消防隊員は、不審な男を発見した。
ライターを持って立ち尽くすその男は、うつろな表情で家を見つめている。
消防隊員が不審に思って見つめていると、男は突然家の中へ走り出した。
それを見ていた消防隊員や、事の成り行きを見守っていた地域の住人が慌てて、制止の声をかける。
しかし、聞こえていなかったのか男は立ち止まらなかった。
真っ赤に燃える家の中へと、迷わず入っていった。
男が走り去った場所には、一枚の写真が落ちていた。
そこには仲の良さそうな家族がうつっていた。
真っ赤に燃える家の中から、男の笑い声が外へ響いてきた。
その声は、不気味な声だった。
声を聞いていた者達は顔を青ざめさせた。
周囲にいた地域住民達は、炎につつかれている家の事情を知っていたからだ。
燃えさかる家は、激しさを増していく。
そこにやってきたのは、老夫婦。
その老夫婦に、近所の人たちが声をかけた。
「おばあさんおじいさん、大変だよ、あんた達の孫がまだ家にとりのこされてるんだ。さっき別れたはずの旦那さんが家の中に入っていったのを見たんだよ」
二階にあがった消防士は、生存者を探していく。
しかし、意識のある人間はいなかった。
心臓がとまっている女性が倒れているのみだった。
女性はまったく動かなかった。
煙を吸い過ぎたのかもしれない。
声をかけたが反応がない。
二階には真っ黒な煙が充満していて、生身では活動できないほどだった。
もしかしたらもう間に合わなかったかもしれない。
そう思った消防士の心は弱気になっていたが、それでも体を動かした。
その女性をかついで外へ運び出そうとする。
まだ、死ぬと決まったわけじゃない。
自分にできることをして、少しでも生への望みを繋げるべきだ。
しかしその時わずかに、動けないはずの女性が動いたような気がした。
消防士が疑問に思って足をとめる。
すると、どこからか「おぎゃあ。おぎゃあ」と赤ちゃんが泣く声がした。
はっとした消防士が家の中を探すと、頑丈な鉄の金庫の中にビニール袋につつまれた赤ちゃんが入っていた。
このままでは呼吸困難になってしまうが、煙を吸わせないために袋をここで外すわけにはいかない。
消防士はその赤ちゃんもかかえて、家の中から急いで脱出する事にした。
しかし、そこに立ちふさがる者がいた。
男性だ。
煙の充満している部屋にいるとは思えないくらい、平然とした様子で立っていた。
どこからか、家の中に入ってきたのだろう。
急いできたのか、呼吸が荒い。
「やっぱりまだ死んでなかったのか! 俺を裏切った妻の子供なんて死んでしまえばいいんだ」
その男は、叫びながら消防士に襲い掛かってくる。
赤ちゃんを守るため、消防士はかかえていた女性を床へ落としてしまった。
男性は女性の事など目もくれずに、赤ちゃんをうばいとろうとする。
消防士はそれに、必死に抗った。
男がどこからかナイフを取り出したので、慌ててその場から離れる。
だから、女を助けに戻る事もできずに、消防士は赤ちゃんをかかえたまま、廊下を逃げる事になった。
しかし、火の手が強くどこかの部屋に逃げ込む事はできない。
決死の思いで逃げた消防士だが、なぜかその前に男性が立っていた。
まわりこめるような家の構造ではなかったにもかかわらず。
消防士は悲鳴をあげて、後ずさった。
すさまじい形相をした男が亡霊のように様に見えたからだ。
それだけではない、周りでごうごうと燃えている火すらも敵になる。
不自然な動きをした火が、消防士をぐるりと取り囲んで焼き尽くそうと、魔の手を飛ばしてきた。
もう駄目だ。
その時、消防士はそう思った。
燃える火に包まれた消防士の手から、男性がかかえていたものをうばいとる。
ビニール袋ごと、赤ちゃんが奪われてしまった。
はっとした消防士が手を伸ばしても遅かった。
「ははははは! 死んでしまえ!」
狂った笑い声をあげる男性が、燃え盛る火の中でビニール袋を破こうとしたが、その行動がなぜか止まった。
男性は、信じられないといった顔で、自分の足にしがみつく女性を見ていたからだ。
その驚きは、動けないはずの女が動いてここまで来たからではなかった。
「嘘だ! ありえない! 俺が一か月前に殺したはずなのに!」
男性にしがみついた女性は、みるみるミイラの様な姿になっていく。
それにともなって、男性も同じような姿になっていった。
何が起きたのか分からないと、消防士は茫然としていた。だがはっと我に返って赤ちゃんをかかえなおした。
気が付くと、周りを囲っていた火だけは消えていた。
女性の姿も、男性の姿もなくなっている。
何が起きたのか分からない消防士は、それでも腕の中の赤ちゃんをまもるために、その家から急いで脱出していった。
崩れ落ちる家から間一髪逃れた消防士はやってきた、救急車のサイレンを聞いて安堵した。
ビニールをやぶくと、赤ちゃんはけたたましく泣き声を上げ始める。
その声を聞きつけてか、消防士の元に老夫婦がやってきた。
「たった数分でも子供を残して出かけるなんて、なんてことをしてしまったの!?」
「けれど、無事でよかった。もうこんな事はしない! 私達を許しておくれ」
家族なのだろう。おばあさんとおじいさんが泣いて孫の無事を喜びあっている。
救急隊員へ赤ちゃんを手渡した消防士は、風にまって足元に飛んできた写真を拾い上げる。
そこには、赤ちゃんを抱えた幸せそうな家族……ではなく、二人の亡霊と赤ちゃんがうつっていた。
写真は風にとばされて、燃える火の中へと消えていった。
一か月前とある夫婦が死亡した事件があった。
男は離婚の事で激高し、女と赤ちゃんを殺害しようとした。
女は重傷を負った。
しかし、赤ちゃんを守ろうとした女は反撃、男も重いけがを負う事になった。
その後、赤ちゃんは老夫婦に引き取られ、育てられる事になった。
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