名もない風洞試験場にて


Laroux/Cascade




-落雷で発電機が故障し、数時間が経過した。月のない雷雨の夜、古い風洞試験場は濃い闇に覆われている。まだ朝焼けの予感はない。

-この筒状の建造物は、約9割が地下に造られている。建造物からは吸気口が地上へ向かって伸びている。今は外気を遮るいくつかのゲートが解放され、吸気口からは突風がひっきりなしに吹き込む。巨大なファンが電力の助けもなく回転している。

-建造物は地上の誰からも忘れ去られていた。中に何者が隠れ住もうと、誰にも気づかれることはなかった。建造物や打ち捨てられた地下鉄の路線を含む、この街の細かな記録は戦災で失われていた。


L:「…………灰になった」


-吸気口の内壁には、金属の足場が組んである。柵から脚を投げ出してラロックスが座っている。彼は下方へ言葉を放り投げた。

-巨大な吸気口は、地上の雨音を反響させながら地下へ運んでゆく。傷んだコンクリートから雨漏りが溢れる。彼はいつか話に聞いた母胎を想った。そこでは様々な音が、くぐもったノイズのように聞こえるという。

-ヒューマノイドはどこから生まれたのでもなく、どこへ帰るのでもない。血肉に包まれて眠っていた記憶はなく、母胎に関して思い出すことはない。


-ラロックスが気配に気付く。暗闇と雨音に身を潜めて、カスケードが彼のことを見ていた。質の悪いオールドアンバーのような瞳が宙に浮いている。ラロックスは憎しみを込めてふたつの眼球を睨んだ。

-彼はカスケードが嫌いだった。仕事であっても会話を拒むほどで、貼り付けたように崩れない笑顔を嫌っていた。カスケードの笑顔は、ヒューマノイドの彼よりもはるかに人間からかけ離れている。キチン質の仮面を被っているように見える。仮面とは"嘘"だ。ラクーンドッグが嘘を嫌うことを、この男はよく知っている。

-落雷で空間が照らされた。目の前のカスケードには微笑みのかけらもなかった。今日は仮面をどこかに置き忘れていた。


-闇の中で衣擦れの音が移動する。外骨格と金属の足場がぶつかって無機質にきしむ。ラロックスの髪に冷たく堅い、尖ったものが微かに触れた。2対ある腕のうち、どれかの爪。普段の彼は、カスケードが身体に触れることを許さない。彼より高い位置に立つことすら許さない。そんなことをしようものなら、これでもかと怒鳴り散らし怒り狂ってやる。いつも仲裁を務めるアンティニーは気の毒だ。

-気配は彼の隣に腰を下ろした。また雷が落ちてカスケードの横顔を照らし出す。こんな夜はいつも、ただ潤んだ目でどこか遠くを眺めている。ラロックスの機嫌を逆なでするジョークもない。仮面がないカスケードに当たり散らすのは退屈だし、意味のないことだ。嫌悪の対象が存在しない。


L:「どうしたい」

C:「……引っ掻いてみて」


-ラロックスは要望通りにしてやった。闇に手を伸ばし、カスケードの首の辺りを探る。わずかに覗く人工筋肉にするどい鉤爪を立て、浅く掻き切る。カスケードがかすかに呻いた。鉤爪に熱い体液がまとわりつく。殴ってやる日もあった。首を絞めてやる日もあった。


L:「今日も血はある。体温もある」

C:「ほんとかな」

L:「疑うなら来んな」

C:「はは……」

L:「テメーで確かめろ」


-ラロックスは血で滑る手を開いて、カスケードの頬に擦り付けた。けれども銃弾を跳ね返す外骨格は、到底ヒトの手触りではなかった。ラロックスはヒトの皮膚の手触りをよく知っている。それはこんなに堅くて冷たいものではない。カスケードの手のひらも同じ外骨格で覆われていて、胸に手をやっても鼓動を感じ取ることができない。


C:「……わからない」


-ラクーンドッグは狂っていて、カスケードを大した価値のない実験体として使う。でもカスケードはいつだってへらへら笑っていたから、彼女と同じくらい狂っている生物だとラロックスは思っていた。実際には狂っているのではなく、彼は壊れかけていた。

-この男はあまりにも不器用で、なにもかもを誤ってしまった。俺のように信仰を捧げるべきだったのだ。恋ではなく。


-細く流れる血を手探りですくい取る。堅い頬をたどって、頬と同じ質感の下唇に触れた。鉤爪が半開きの歯に当たった。分厚い殻の下で柔らかいままの舌に、血と温度を教える。


L:「これで分かるだろ」

C:「……」


-暗闇で繰り返される行為が、不快極まりない仮面を保つ手助けになっている。ラロックスはそれを知っていた。完全に壊れた方が彼のためになることも知っていた。けれど、あのどうしようもない仮面は彼に残された最後の矜持でもある。人間は、惚れた相手の前では笑顔でいたいと思うらしい。


L:「テメーは人間なんぞに生まれなきゃ良かったんだ」

C:「……悪いことばかりじゃないよ」


-雷鳴はいつのまにか遠ざかっていて、もういちど横顔が照らされることはなかった。衣擦れと金属的な足音も離れてゆく。

-どうして自分が涙を流すのか、カスケードにはもう理解できない。ラロックスはこの男を憐れだと思っている。

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