第12楽章 新しい世界にて

 それは、いつかどこかのおとぎ話。



 第12楽章



「おばあさま、アジーです」

 朗らかな声が山小屋の木のドアをノックする。それに応えるようにふわふわとした赤紫の髪がドアへ向かった。

 ドアを開けると、そこには淡いベージュの髪にオリーブの目を持つ少女。顔を合わせると、彼女はにこっと笑った。

「やっぱり、変な感じ?」

「何がかしら、アジー」

 アジーは「おばあさま」をまじまじと見た。

「だって、おばあさまはいつまで経っても老けないんですもの」

「あはは」

 からからと笑った「おばあさま」はアジーを手招いた。

「ずっと言っているでしょう。私は魔女なのよ」

 冗談めかしてそういう「おばあさま」の見た目は少女であるアジーとそう変わらない年代に見える。むしろアジーの方が大人っぽく見えるかもしれない。

 綻んだ琥珀色の瞳は星光のよう。

「ふふ、シェロおばあさまったら」

 そう、彼女はかつて、別の世界で「星光の魔女」をしていた少女、シェロだった。


 シェロはとある世界に辿り着いた。特に何事もなく、平々凡々と人々が日々を連ねていくだけの世界。おかしな謂れや言い伝えもなく、人々は笑い合い、助け合って生きていた。

 シェロは気紛れに、その世界に降り立った。特に何も起きなかった。世界から拒絶されて弾き飛ばされるようなことも、空を飛んでいるところを見つかって騒ぎになるようなことも。

 シェロがどのくらい飛んで、その世界を見つけたのかは、シェロにもわからない。何せずっと星たちの間を飛んでいたのだ。日が昇ることも沈むこともなく、ずっと夜のような空間を、前に進んでいるかどうかもあやふやな状態でずっと飛んでいた。考えれば、よく気が狂わなかったものだ。

 シェロは朝が来て、夜が来る世界を探した。星もほとほと見飽きたから、朝日を浴びたくなったのだ。まあ、その朝日も言ってしまえば星の一つなのだが、これは気分の問題である。

 世界を見つけたのはこれが初めてではない。シェロの旅は延々と続いていたが、いつか想像した通り、星がこれだけあれば、他の世界の一つや二つはあるものだ。

 あるところでは、人々が戦争をしていた。ずっとずっと爆発が絶えず、鍔迫り合いの音や銃声の音で満ちていて、とても穏やかに眠れそうにはなかったため、見過ごした。

 あるところは草木に溢れていた。ありのままの自然が存在し、居心地よさそうに様々な動物たちが生きている、そんな世界。人間が立ち入らない方がいいな、とシェロはその世界に居着かなかったが、空気がとても美味しかった。

 またあるところでは、魔女が蔑視されており、運悪く見つかったシェロは人々に追い回された。箒で空を飛べなければ、今頃命はなかっただろう。星光の魔女は不老であっても不死ではないのだ。逃げるが勝ちというやつである。

 そんな風にあらゆる世界を見て、シェロはこの特に何もない世界を選んだ。特に何もない世界に、一つの伝承として、シェロのいた世界のことを伝えようと思ったのだ。

 おとぎ話だと一笑に伏されてもいい。何か爪跡を残したかった。そうでなければ、シェロの旅が報われない──とか、そういうことではなく。

 シェロはただ、大切な友人の話を誰かに聞いてほしかったのだ。アイシアに話したのと動機はさして変わらない。終わった世界の後には、シェロ以外、誰も残らなかったから、シェロは話し相手がほしかった。

 そんなシェロがこの世界に来て出会ったのが、アジーの祖母にあたる人物である。故に、アジーには「おばあさま」と呼ぶように聞かせた。アジーは素直で純粋で、ちょっとお茶目な女の子だ。……アーゼロッテに、よく似ている。

 アジーの祖母もアーゼロッテに似ていた。だから、語り聞かせたくなったのだろう。彼女の知らない世界の話を。

 生まれ変わりだとかは知らない。シェロはそういう人々の間で膨らんだ想像を迷信と認識するタイプだ。夢見がちな女の子な割に、夢がないところは千年以上前から変わっていない。

 この世界に降り立って、さてどうしようか、と思っていたとき、この山小屋を訪ねたら、偶然アジーの祖母と鉢合わせた。この世界に来て、初めて出会った人間がアーゼロッテにそっくりなのも何かの縁だろう、と話し相手になってくれないか持ちかけたのが始まりだ。

「さ、中へどうぞ、アジー」

「ありがとう、おばあさま。今日はおかあさまがタルトタタンを焼いてくれたの」

「あら! ではお茶会をしましょう。ロゼは元気?」

「元気よ。ロティおばあさまが亡くなってからは村の働き頭だわ。おかあさまの作る布は街でよく売れるって行商人のおにいさんが言っていたもの」

 ロゼとはアジーの母である。アジーの祖母……シャルロッテが家庭を築いてから、代わりにシェロの話し相手に娘を送ってきたのだ。ロゼも家庭を築いてから、アジーを代わりに寄越すようになった。

 アジーたちの家は、麓の村で代々続く機織り職人の家なのだそう。布を織る女性が働き手で、男性は山で狩りをしたりして、日々の食糧を得ている。シャルロッテの兄が使っていたのがこの山小屋だ。シャルロッテが家との交渉の末、シェロが住んでもいいことにしてくれた。たまにしか家の者が来ないので、掃除やら手入れやらをしてくれればありがたいと了承してくれたのだ。シェロからしても、ありがたい話だった。

「……ロティは亡くなったのよね。何年前かしら?」

「五年前よ。病でぽっくり。でも人間ってそんなもんだわ」

 アジーがからからと笑う。喪失の痛みはあっただろうに、人の死を受け入れて、前に進めるその姿は、シェロには眩しかった。

 けれど、嬉しくもあった。シャルロッテはこうして、話し相手をシェロに残してくれたから。シェロはひとりぼっちにならないで済んだ。

 嘘か本当かわからない、魔女だという話を聞いて、シェロの容姿が変わらないことも深掘りせず、不審者でしかないだろうに、何十年もここに置いてくれている。この温かい感じが好きだ。

「おばあさまのいた世界では、人間の死ってそんなに恐れられていたの?」

「どうかしら……世界が滅びる方がよっぽど恐ろしかったのではないかしらね」

「あはは、それもそうね!」

 お湯を鍋で沸かしながら、朗らかに会話していく。シェロは魔女だけれど、今はもう空を飛ぶ魔法以外は使えない。まあそもそも魔法なんてそんなに使えなかったけれど。不老不死に近い不老長寿であるため、食べ物を食べたり飲んだりしなくても生きていけたが、やはり飲食は日々の彩りなのだな、とこういうときに思う。

「その世界も大変よね。いつ滅びるかわからないなんて。魔女の気分一つで終わってしまうかもしれないのに」

「そうね。あの世界の人々は愚かだったのかもしれないわ。星光の魔女が世界を守ってくれるのが当たり前だと、勘違いしていたのかもしれないわね」

 何百年も、何千年も、安寧が守られてきたからこそ、人々は当たり前の感謝をしなくなった。どれだけ残酷な役目を押しつけているか、知りもせずに。

「愚かと決めつけるのはよくないわ、おばあさま」

「え?」

「世界を救うとか、滅ぼすとか、次元の違う話だから、私が言うのも筋違いかもしれないけど……」

 アジーはシェロににこりと微笑みかける。

「世界って、布みたいなものでしょう? たくさんの人がいて、やっと一枚なのよ。その中で真っ直ぐな糸ばかりではないわ。ほつれもするし、よじれて変な柄になったりする。使い古された布はぼろぼろのよれよれになって、他の糸と一つではいられないの」

 ぽこぽことお湯が沸いたのを見て、アジーは火を止め、さっと茶葉を入れて蓋をする。一瞬で閉じられてしまったが、ふわりと香った茶葉の匂いが二人の間に漂った。

「おばあさまは、世界と一つでいられなくなった一本の糸なの。糸なのは、みんな同じ。だからきっと、みんな同じくらい優しくて、苦しくて、愚かなの」

 使い古されて、捨てられた布が燃やされただけ。世界の滅亡も、そんなものなのだ。

「でも、燃えて灰になるのも、悪くはないわ」

「そうかしら?」

「おばあさまは空がどうして青いか知ってる?」

 アジーは得意げに笑った。

「仕組みはよく知らないけれど、空中にある塵の反射なんですって。灰も塵みたいなものでしょう? だから、死んだら空になれるのよ」

「ふふ、それは素敵ね」

 カップを用意しながら、シェロは笑った。

 ずっと空を飛んでいたのに、空の色のことなんて、考えたこともなかった。習ったこともなかった。

 やはりここは、新しい世界なのだな、と噛みしめる。

「それでね、おばあさま」

 タルトタタンを切り分けると、アジーが少し寂しそうに切り出した。

「私、村を出て大きい学校に行くことになったの。だから、もう来られないかもしれない」

 小鳥が沈黙を彩るように、場違いなほど可憐に囀ずる昼下がりのことだった。

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