17.追いかけっこの結末

 頭上に高々と昇っていたはずの太陽はいつの間にか西の地平線に沈みかけ、訓練場を鮮やかなオレンジ色で染め上げていた。


 訓練場の利用者たちが各々の訓練を終えて出口に向かう中、紅葉も訓練場の出口を目指して歩みを進めていた。その足取りはおぼつかなく、正面を見ているはずの焦点はどこにも合っていない。


「死ぬ、これマジで死ぬって……」


 今の今まで本気の殺意を向けられ続け、容赦なく木刀を振るわれ続け、休む暇もなく追い回され続けた彼に、余力などどこにも残されていなかった。


 紅葉は疲労で考えがまとまらない中、ほとんど無意識的に訓練場の出口を指さした。だが、指先に魔力を込めようとしたところで猛烈な吐き気に襲われ、能力行使どころかただ魔力を溜めては放つという基本的なことすらままならない。


「も、もうだめ――」


 そこでついに紅葉は耐えきれなくなって、その場にばたりと倒れ込んだ。受け身もまともに取れずに地面に叩きつけられ、痛みが気つけになって気絶すらできない。


 指一本、ぴくりとも動かせないほどの疲労。


 視界の隅々まで、まるで現代アートのように乱れるほどの目眩。


 胃の中身全部をぶちまけそうなほどの吐き気。


 そんな彼に、無慈悲に声が掛けられる。


「やっと、捕まえたぞ……」


 紅葉の後を追い続けていたカレンがついに彼に追いついた。紅葉の隣にどかりと座り込み、うつ伏せに倒れ込む彼の襟首をうなじ側から鷲掴みにする。


 もう逃がすまいと、最後に残った力をありったけ振り絞って握りしめてくるせいで、紅葉の首はキリキリと絞め上げられる。


 ついに堪え切れずに紅葉が咳き込んで、やりすぎたことに気が付いたカレンはほんの少しだけ拳から力を抜いた。


「俺……、まだ死にたくないです……」


 ひとしきりむせた後、紅葉が呼吸を整えてから口を開く。


 出てきたのは、なんともか細い声だった。


「馬鹿言え、私ももう疲れて動けん」

「そう、ですか……」


 一方、カレンは言葉の節々に疲労の色こそ感じるものの、紅葉ほどの疲労を見せていなかった。普段から鍛えている彼女に体力で負けているのは仕方ないにしても、その差が不自然なほどに大きすぎる。


 その上、カレンの走る速さは尋常ではないほどに速かった。革の胸当てに軽鎧をつけて、なおかつ細身の木刀を片手に走り回って、それで紅葉に追いつけるくらいには速い。


 そんな彼女から逃げ切るためは、この世界で与えられた能力を使うしかない。紅葉はアッシュに教わった通り、手当たり次第目についたものに指差しして能力行使を試みた。


 結果はなんとも言い難いくらいに微妙だった。成功したりしなかったり、一回目は失敗したのに二回目では成功したりと、その法則性が今一つ掴めない。


 一応コツが掴めてきたのか、時間が経てば経つほど成功しやすくなってきたのは運がよかった。でなければもっと早く彼女に捕まって木刀を叩き込まれている。


 それができなくなるまで逃げおおせられたのだ。今日の追いかけっこは、ある意味では紅葉に軍配が上がった、のかもしれない。


 息も絶え絶えの中、しばらく二人の間に沈黙が訪れた。何を話せばいいのか分からず、どことなく気まずい。


「……その、本当にすいませんでした」

「絶対に許さないからな」

「ごめんなさい」

「……もう貴様の謝罪も聞き飽きた。さっさと失せろ」


 カレンは紅葉の襟首から手を離し、早く行けと手をひらひらさせる。


 だが、紅葉は動かない。いや、動けない。


「疲れてるのと、あと目眩と吐き気が酷いんで、もう少しこのままでもいいですか?」

「魔力切れか……。まあ、初めてだというのにあれだけ能力を使えば仕方ないか」


 ため息交じりにカレンが立ち上がる。倒れ伏したままの紅葉と自分の震える手を交互に見やり、やがて舌打ちして紅葉に告げた。


「今日はもういい。城の者を呼んで部屋に運ばせるから、しばらくそのまま寝ていろ」

「はい」

「あと、次に私の前に現れてみろ。今度こそ叩き切るからな」

「……はい」


 立ち去るカレンの背中を、紅葉は横になったまま見送った。


 後のことは、今一つよく覚えていない。


 倒れ込んだままの紅葉のもとに見知らぬ誰かとマナが駆け付けたことも、もう一度医務室に担ぎ込まれていったことも、ほとんど気を失いかけていた紅葉にはまるで記憶になかった。

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