2.一杯の紅茶

 少女に手を引かれるまま歩き続け、谷底を抜けた先には一面の森が広がっていた。


 その森の入り口にぽつんと佇む古びた丸太小屋が、先ほど彼女使っていると言っていたものなのだろう。小屋のあちこちに修繕の跡が残っており、趣があるというよりは誰彼からも忘れ去られたような印象を受けた。


 小屋の隣には庭と思しき空間もあるが、特に何かがあるわけでもなく、ただ雑草が生い茂っているばかりだ。


 少女が玄関の扉に手を掛けると、ギイと重い音を立てながら扉が開いた。中は広間が一つしかなく、室内で靴を脱ぐ習慣がないのかタタキすらなかった。


 玄関から入って左手には立派なレンガ積みの暖炉と小さなかまどが置かれ、正面には日用品や食料品を置いておく棚と簡素なベッドが並んでいる。そして右手には、天井まで届く巨大な本棚が壁一面を覆い隠すようにいくつも並べられ、中には分厚い本がぎっしりと詰め込まれていた。それでもなお収納スペースが足りていないのか、床には本が積み重ねられていくつもの塔を形成している。


「どうぞ、かけてください」

「ど、どうも」


 広間の中央には丸テーブルと椅子が一組あった。少女はその上に無造作に置かれた本を本棚の側に寄せながら、紅葉に席を勧める。


(いや、本多すぎじゃないか?)


 紅葉は小さな図書館のような内装に少々驚きながらも、彼女に勧められるまま席に着いた。


「今お茶をお出ししますので、少々お待ちください」


 そう言って少女が暖炉を一瞥すると、何をするでもなく突然暖炉の中に火が燃え上がった。その火をかまどに移し、その上に金属の容器を乗せる。かまどに置いた拍子に容器の中身がちゃぷんと音を立てたので、おそらく中の水を沸かそうとしているのだろう。


 その間に彼女は棚からティーカップと球形の網、そして、筒状の容器を取り出した。筒状の容器のふたを開くと、中から茶葉の香りがふわりと漂った。茶葉を真ん中から開いた網の中に閉じ込めカップに入れると、ひとまず準備は整ったらしい。


 やがてかまどに置いた金属の容器がかたかたと音を立てて揺れると、少女はその容器を掴み、中のお湯をカップに注ぎ入れた。カップの茶葉が注がれたお湯に浸されることで、花のような香りを周囲に漂わせ、お湯の色を鮮やかな赤に変えていく。


 出来上がった紅茶を、少女は紅葉の前に差し出した。


「本当は蒸らした方がいいのでしょうが、時間がかかるので今回は止めておきます。何があったのか分からず混乱していることでしょうが、ひとまず落ち着いていただけますでしょうか」

「ああ、ありがとうございます」


 紅葉は一礼して、おそるおそる紅茶に手を取り、一口すする。


「……美味しい」

「ならよかったです」


 さして紅茶に詳しいわけではないが、今まで飲んだどの紅茶とも違う味に、思わずため息とともに口から感想が漏れ出ていた。甘い香りと口当たりが紅葉の緊張をほぐし、体の芯から温まっていくような感覚で全身を満たしていく。


 そして、ふと彼の目から涙がこぼれた。


 生きている。


 訳の分からない状況に置かれ、命の危機に瀕したものの、どうにかこうにかまだ生きている。


 今日ほど死を身近に感じ、そして生を実感したことは今まで一度もなかった。自分で感じる暇もないほど急激に摩耗していた心が、たった一杯の紅茶で満たされる。


「あ、いや、違うんです、これは、えっと、……すみません」


 悲しいわけでもないのに溢れてくる涙を、いくら拭えども止まることのない涙を、彼は必死に押し留めようとした。


「……謝らないでください」


 少女は、ふと目線を逸らして言った。


「あなたは理不尽に巻き込まれ、そして理不尽に死の淵に立たされました。あなたが泣きたいと感じるのであれば、どうぞ思う存分泣いてください。あなたが怒りを覚えるのならば、思う存分怒ってください。それで少しでも気が紛れるのなら、私はいくらでも付き合いますから」


 少女の言葉についに耐えられなくなり、紅葉は泣き崩れた。


 正面に立つ彼女の、暗く澱んだ瞳に気付けないままに。

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