18:明日は振り返らない
(2023/04/21・Prologue)
雇い主が消えた。
借金が溜まりに溜まった末の夜逃げとか、未払いの給料を踏み倒すためとか、脱税がバレてとんずらとか、そういう理由ではないと思う。俺の給料は毎月ちゃんと支払われていた。借金があった様子はない。仮にあったとしても俺の預かり知らぬこと。脱税については言わずもがな。一介のアルバイトに雇い主の納税額など判るわけがないし、当然、全額納めていたと信じている。
では、なぜ消えたのか。
「消えた」という表現は、聊か適さないかもしれない。
正確には失踪した。
二〇XX年四月XX日、午前七時のことである。
繁華街に建つ、如何にも怪しい雑居ビルの三階。〈初音探偵事務所〉に出社すると、居るべき人物の姿がなかった。
俺の雇い主。事務所の社長……つまり初音探偵その人である。名前は未来。「ミライ」と書いて「ミク」と読む。初めは偽名かと疑ったが、正真正銘の本名だという。
「探偵業で偽名を使うなんて有り得ない、信用第一の仕事なんだから」
と、呆れ混じりに諭されたのは良い思い出だ。マッチョとは言わないが、それなりに鍛えられた成人男性の氏名が『初音未来』。それなんて冗談? と疑われて当然だと思うけれど。でも、運転免許証には確かに『初音未来』とあったので疑念の余地は消えた。
それはさておき。
初音社長は優秀な探偵である。
猫探しや浮気調査は勿論、警察から秘密裏に持ち込まれた未解決事件の資料の精査や、助言も請け負っている。警察云々の件は一市民として知りたくなかったグレーゾーンだ。が、現実、初音社長の協力は、捜査の役に立っているらしい。
そんなフィクションみたいな男の、ワトソン的立場に居るのが俺……と言いたいところだが、実際は違う。
初音未来は才能や能力を『探偵スキル』に全振りしている男である。故に家事能力が壊滅的だった。ので、俺が雇われた。
端的に言うと家政夫。
友人には「男で家政婦とかウケる」と、語尾に森を茂らせる勢いで笑われる。『家政婦』ではなく『家政夫』だ。それに、金になれば良い。俺には金が必要である。生きるために、纏まった金が。
〈初音探偵事務所〉は事務所兼、社長の住居である。そして社長は二三時に就寝し、六時に起床する。徹夜で仕事なんか絶対にしないし、外泊するのであれば事前に連絡がくる。
俺はいつも通り午前七時に出社して、社長に朝食を食べさせ、営業時間を迎えるまでに洗濯や掃除など必要な家事を一通り終えるはずだったのに……。
二〇XX年四月XX日。
事務所に初音未来社長の姿はなかった。
外泊などをする旨の一報は来ていない。
荒らされた様子もない。前の夜、最後に見た時と変わらない、整然とした室内。
「脅迫だとか、怪しい電話やメールもなかったんだね?」
俺の連絡を受け、駆けつけてくれた久保田刑事(よく未解決事件の資料を持ち込む人だ)へ事情を説明した後、投げ掛けられた質問に頷きで返す。
「知る限りでは、何も」
「そっかぁ」メモを取りながら言葉を継ぐ。「でも、それだけじゃあ失踪したと断言は出来ないね。初音くんもイイ歳したおっさんだし。イケてる女の子と出会って、ホテルでしっぽりしてるのかも」
「おっさんって、そんな歳いってないですよね」
確か久保田刑事と同じぐらい。二七、八歳だと思っていたけど。
「アラサーなんて立派なおっさんだよ。この間なんか『一八歳以上は全員ジジババ』って参考人に言われちゃってさぁ……めちゃめちゃ凹んだからね」
「はぁ、そうなんすか」
「ま。一応、失踪届は出しておこうか。仕事柄、物騒な目に遭ってはいないとは言い切れないしね」
「ありがとうございます」俺は軽く頭を下げる。「助かります」
「いーのいーの。今まで何かと助けて貰ったしね」
事務所のドアを開け、去る間際。「そういえば」と、振り向きざまに久保田刑事が口を開く。まるで今思い出したとでもいうふうに。
「一ヶ月ぐらい前かな。初音くん、奇妙なこと言ってたよ」
「奇妙なこと?」
「『もし僕を殺せる人が居るとすれば、きっと旭くんだけだ』って」
おかしな話だよね、旭くんを全面的に信用しているから家政夫として雇ってるのに。と、久保田刑事は本当に可笑しそうに笑った。
探偵事務所の応接間。合皮張りのソファーに浅く腰掛け、上体を背凭れへだらしなく預けた体勢で天井を眺める。顔のような染みが俺を見下ろしていた。その視線を遮るように、パーカーのポケットから取り出したスマートフォンを掲げる。
顔認証でロックを解除し、ちょちょいと操作して残高を確認。
初音社長が知らない、久保田刑事も当然把握していないネットバンク。表示された一〇個のゼロを見て、唇を内側に巻き込むそうに噛む。液晶画面に写った俺が、俺を見つめ返していた。下衆な笑みを浮かべて。
(終)
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