11:おまえが来るには早過ぎる

『迷子タクシー』(2023/03/21・monogayary)



 目の前に広がる光景を見、男は二度、目蓋を開閉する。

 眼前の白。右の白、左の白。背後を振り返っても白。天を仰ぎ見ても白。白白白――異空間としか言えない場所に男は立っている。何故そこに居るのか、どうやって辿り着いたのか、男にはてんで分からない。ただいつの間にかそこに二本脚で直立し、阿呆のようにボーッとしていただけだ。口を中途半端に開きながら。染みひとつ無い所為で殺された遠近法を求めて。

 男は頭を垂れ、足許へ眼を遣る。白い地面――地面が存在するのかさえ曖昧だが、宙に浮いている感覚はないので地面らしきものはあるのだろう――を踏む己の足は、黒い革靴で覆われている。ぴかぴかに磨かれたその靴は、就職祝いに父親が買い与えてくれたものだ。左手首に装着した時計もそう。父はよく言っていた。「安物のスーツを着ても構わない。けど、靴と時計は良いものを選べ」

 父の教え通り、男は高価な革靴には少しばかり不釣り合いな値段のスーツを身に纏っている。洋服店に吊されていた既製品だ。中に着た薄いグレーのワイシャツと、スーツの紺色に合わせたネイビーのネクタイがちらりと見える。右手には合理的で機能的な黒のビジネスバッグ。朝、支度を終え、玄関の壁に備え付けられた姿見で確認した時と何ら変わらない恰好だ。

 ジャケットやズボンのポケットを軽く叩き、手を入れる。鞄を開いて覗き込む。仕事に必要なファイルも、中学卒業時から使い続けている万年筆も、財布やスマートフォンなどの金品も揃っている。

 とりあえず、物盗りに遭ったわけではなさそうだ。男は胸を撫で下ろす。そしてすぐ溜息を吐いた。強盗の線は消えたが、誘拐という犯罪に遭った可能性が消えたわけではない。

 途方に暮れていると後方から「プップー」という音が響いた。きゅうりに驚いた猫のように飛び上がった男は、急いで後ろを振り返る。

 一台の黄色い車が止まっていた。それはアメリカのドラマや映画に登場するイエローキャブに似ている。

 男は早鐘を打つ左胸に手をあてる。ビジネスバッグを持つ手に力を込める。どちらの掌も汗で、ぐっしょりと濡れているのが不快で堪らない。男は緊張していた。同時に恐怖も感じていた。突如現れた――エンジン音どころか走行音さえ無く、まるでマジックの如く出現した――イエローキャブに怯えるな、という方が無理な話だ。

 再び響いた「プッププッ」に、びくっと肩が震える。その時、音の正体がクラクションであることに男は気付く。

 ジーッと鳴く蝉の鳴き声に似た音をたてて、運転席側のウインドウが開かれる。

「おやおや、迷子ですかィ?」

 と、言いながら顔を出したのは、男と然ほど年齢の変わらなさそうな男性だった。ハンチング帽のつばを摘んで軽く持ち上げた彼の目尻は垂れ、唇の両端は僅かに上がっている。

「いや、迷子というわけでは……」

 男は視線を彷徨わせ口籠もった。迷子になったつもりはなかった。そもそも、この場に居る経緯も、来た方法も不明なのだ。自分が知らない場所に居るという事実は確かに迷子らしいが、道に迷ったつもりはない。ただ、進むべき方向の判断がつかないだけで……。

「あぁ、いい。いいンですよ、お兄さん」運転手が帽子に触れていた手を振って笑う。

「ここに居る御方は大抵、迷っちまッた御方なんでさァ。寧ろ迷っておられない人間の方が稀有ってもンでね。だからまァ、恥ずかしがらんでくだせェ」

「はぁ……」眉根を寄せた男は、次の言葉を逡巡して「あの」と続ける。

「ここは一体、何処なんでしょう」

「何処」

 と鸚鵡返しをして、運転手は中空へ眼を遣る。

 釣られるように男も運転手が見つめているであろう場所へ視線を移す。が、やはり呆れるほどの白しかなかった。視線を運転手へ戻す。

「そうですねェ」と言い、顎をひと撫でした運転手が男の質問に答える。

「所謂、地獄の一歩手前ッてやつですかねィ」

「地獄」

 の、一歩手前。

 男は唖然とした。そして、脳内が言葉で埋め尽くされる。

 何故。なぜ。なぜ。どうして。地獄の一歩手前にいる。地獄の一歩手前? 何を言っているんだこの運転手は。地獄なんてあるわけがない。だから、地獄の一歩手前なんてものも、あるはずがない。地獄の一歩手前ってなんだ。仮にそんなものが存在するとして、なぜ俺は、地獄の一歩手前に立っている? 俺は死んだのか? 運転手は何者なんだ? そもそもこのタクシーはなんだ? 何故、地獄の一歩手前に停車している?

「安心してくだせェ。お兄さんは死んじゃあいませンよ、まだ」

 男の混乱を察したように、運転手はにやりと笑う。

「マ、立ち話もなんですから、乗ってくだせェよ。一から十まで、みな責任もって説明してあげまさァ」



 * * *



 イエローキャブそっくりな黄色いタクシーは、冥土の入口に辿り着いた珍客を拾う〈迷子タクシー〉である――と、運転手は語る。

 ここでいう珍客とは『予定外な死』であり『死人リスト』に名前がない人間及び動物のことを指す。植物は別として、地球上のあらゆる生命には“始まり”が設けられ“終わり”が定められている。人間は、その定めたもうた御仁を「神」と呼ぶ。

 が、運転手は「神なんて居やしません」と軽く流す。

「おれはまだ、神ッてやつに遭ったことがないんでね。自分の眼で見たモノしか信じない質なんでさァ」

 人間も猿も熊もパンダも馬も羊もライオンもペンギンもペリカンもフラミンゴも駒鳥も鳩も烏も鴎も鯨もイルカもラッコも秋刀魚も鮪も鰯もイカも海鼠もクラゲも大トカゲもイグアナも蛇も蜘蛛もムカデもバッタも蝙蝠も蠅から蚊まで、みな“終わり”は決定している。犬も猫も鼠も例外ではない。すべての生命の終焉は一冊の本に纏められている。人間に至っては何年何月何日何曜日何時何分何秒に、どのようにして死亡するかが事細かく明記されたリストが存在する。如何なる生命も逃れられない運命。

 しかし。本やリストに記された日時とは異なるタイミングで、死を――正確には死の縁に立つ――ものが不定期に現れる。

「それが俺、ってことですか?」

「その通り」

 後部座席の左側――助手席の真後ろに坐り、己を指さす男を、上半身を捻った体勢で振り向きながら運転手は頷く。

「正しい日時にちゃんと死ねば、ちゃーんと地獄へ直行できるンですよ。寄り道も道草もせず、まぁーッすぐにね」

 でも、珍客はそうはいかない。と、運転手は立てた人差し指を左右に揺らす。舌を鳴らすように、チッチッチッと言いながら。

「見知らぬ土地に……それも現地の文化は疎か言語さえ分からない国に、裸同然で放り出されるもんでさァ。珍客はどちらへ進むのが正解か見当もつかない。右? 左? 前? 後ろ? そもそも此処はドコ? ワタシは誰? そんなふうに迷子になっちまッた珍客を導くのが、おれの仕事ってわけよ」

 男は「ワタシは誰?」状態ではない。が、正しく自分が珍客であり、迷子であることは理解した。運転手の言うことを信じるならば、だけれど。

「先ほど『地獄に直行できる』と仰いましたよね」

 なんとなく、ついでだから訊いちゃおう、というような軽い気持ちで尋ねる。

「天国には行かないんですか? 絶対、地獄行き? 書類審査とか何かで『天国行き』か『地獄行き』か決めたりしないんですか?」

「もちろんしますよ。アッチもコッチも御役所仕事ですからねィ。

 ただし、虫や家畜を殺さず、嘘をつかず、盗みもせず、享楽に溺れず、酒を飲まない人間が何処にいます? 犯した罪をきちんと悔い改める人間は何パーセント? 一度でも信仰心を失わず、疑わずにいられる人間がどれほどいるでしょう?」

 運転手の問いに、男は言葉を失う。どう返答しても不正解だということが分かり切っていた。

 人間に限って言えばね、お兄さん――運転手の言葉は続く。

「流産した、もしくは生後間もなく病気か何かで亡くなった――世界を知らない正真正銘の無垢な赤ん坊を除いて、みな平等に地獄行きが決定してるんでさァ。ミサイルなんかで無辜の民を殺害したヤツも、無差別に大勢を殺傷したヤツも、子供や年寄りを虐めた末に殺しちまッたやつも、鶏や豚や牛を潰したヤツも、釣った鮪や秋刀魚を適切に処理したヤツも、家ン中に出たゴキブリを殺したヤツも、己の血ィを吸いやがった憎き蚊を叩き潰したヤツも、等しくね」

 差別なんざ存在しませンよ。

 運転手は、からりと笑った。それは初夏に吹く風のように爽やかで、晴れ渡った初秋の空みたいに朗らかでもあった。男と然ほど年齢の変わらなさそうな男性の身体に、幼子と老人が同居しているように感じられた。

 そんなこと、絶対にあり得ないのに。

「さ、お喋りはこんなもんで」と、運転手が前を向く。

「そろそろ導いてやんなきゃな。ちょいとお聞きしますがね、お兄さん、一体全体どうして迷子ンなっちまッたか、心当たりはありやすかい?」

「いえ、それが全然、まったく……」

「ははぁ、なるほどなるほど。じゃあ、そっからですねィ」

 うんうんと頷きながら、運転手はダッシュボード上に取り付けられたカーナビへ手を伸ばす。ぽんと指先で触れると〈lost cab〉の文字が浮かび上がり、煙のように消えた。

「それじゃあ手始めに、お名前を教えてもらえますかィ?」

 運転手からの質問に、男は素直に答える。

 氏名。年齢。生年月日。性別。出生地。幼稚園から大学まで、卒業した学校名すべて。就職先。現在の居住地。身長。体重。視力。足のサイズ。一番始めに抱いた『将来の夢』。二番目の『将来の夢』。初恋はいつだったか。初恋の人の名前。最初に出来た恋人の名前。童貞(或いは処女)を捨てた年齢。エトセトラ。

 正直「こんな情報いるか?」と首を傾げたり、プライベート過ぎる問いに眉を顰めたりもした。けれど男はすべて答えた。

 運転手の指が液晶画面をリズムよく叩き、スワイプし、踊るようにタップする。軽口を挟みながらも澱みなく作業をする様は、正しく〈迷子タクシー〉のベテランドライバーに見えた。

 しかし入力された文字は、男には一文字も読めなかった。身を乗り出してみても駄目だった。

 程なくして。どうして迷子になったのか、原因と経緯が判明する。

「なーるほど。お兄さん、刺されちゃったンですねェ」

「は!? 刺された!?」

「えぇ。帰宅途中、会社近くの駅のホームでグッサリ。ほぼ通り魔的犯行でさァ。強いて言うなら犯人のターゲットは、お兄さんの隣に並んでいた女性ですけど――」その女性の名前を運転手が告げる。「お兄さんの知り合いですかィ?」

「いや、全然、知りません」

「でしょうね。この人、女子高生ですし」

「女子高生⁉︎ 余計知るわけないでしょ! なんで訊いたんですか⁉︎」

「お兄さんがパパ活やってる可能性も微レ存」

「やってねぇよ!」

「冗談でさァ」

 ハハハと笑って、運転手は「で? どうしやす?」と尋ねる。

「え、どうしやすって?」


「現世に戻るか、このままいくか」


 男は、ぽかんと口を開ける。何を問われたか瞬時には理解できなかった。現世に戻るか、このままいくか。いく、とは、つまり、逝くということだろうか。

 そういうことなのだろう。バックミラー越しに運転手と眼が合う。その眼は真剣そのもので、男は思わず息を呑んだ。口内が急速に乾燥していく。同時に、奇妙な既視感を感じる。

「たまに居るンですよ。現世がしんどくて、あんまりにも辛すぎて、死んじまッた方がマシって御方が」

「でも」男は喘ぐように言葉を絞り出す。「でも、〈迷子タクシー〉は珍客を導くんですよね? 『死人リスト』に名前がない、本来死ぬ予定ではなかったのに、地獄の一歩手前まで来てしまった人を、右も左も分からない人を、導くのが『おれの仕事』って。あなた、そう言ったじゃないですか!」

「えぇ、言いやした」

「だったら!」

「だから、導いてるでしょ――生きるか、死ぬのか」

 男は今度こそ、言葉を失った。

 けれど反対に、納得する自分が居ることにも気がついた。

〈迷子タクシー〉は、うっかり死の縁に立っている人間の手を取って「まだ死ぬ時期じゃないですよ」と生かしてあげる優しい存在ではない。あらゆる生物には“始まり”が設けられ“終わり”が定められている。人間は、その定めたもうた御仁を「神」と呼ぶ。

 運転手は言った。「神なんて居やしません」

 でも、死は、如何なる生命も逃れられない運命。

 老若男女、すべての人間に平等に与えられる地獄行きの切符。直行できるはずだった地獄まで、乗せていってくれる黄色いタクシー。

「生きたいって……現世に戻りたいって言ったら、戻してくれるんですか?」

「もちろん。乗客の要望に応えるのもまた、おれの仕事ですからねィ」

「じゃあ、戻ってください! 戻って! 現世に‼︎ 今すぐ‼︎」

「了解でさァ」

 半狂乱に叫ぶ男を余所に、運転手は変わらぬ朗らかさで頷く。

 三度、カーナビの液晶をタップ。運転手が白い手袋をはめる。両手でしっかりとハンドルを握り、エンジン音や振動もなく不気味なほど滑らかに、タクシーは白一色の世界を前進する。



 静寂が車内を支配している。

 走行音さえも存在しない空間では、聞こえないはずの音が幻聴として耳に届きそうだった。窓の外は相変わらず白ばかり。走っているのか止まっているのか分からない。ここも充分、地獄じゃないか。男は内心で独り言つ。溜息は隠さなかった。

 シートに浅く腰掛け、だらしなく背もたれに凭れながら、男は「さっきはすみません」と呟く。声は無様に掠れていた。

「ん? なんですかィ?」

 バックミラーに映った運転手の眼が、男を捉える。

「さっきは、」今度は少し大きめの声で、はっきりと「すみませんでした。取り乱して」

「あぁ、良いんですよ」にこにこ笑う運転手。

「気にしないでくだせェ。大半のお客さんはパニクっちまうもんなンでさァ。マ、仕方ありませんわ。生き死にの問題ですから」

 生き死にの問題。

 心の中で反芻しながら、男は意味もなく外を眺め続ける。こうなった経緯を振り返って、男は思い浮かんだまま、疑問を口にする。

「女子高生はどうなったんでしょう。俺の横に並んでたっていう」

「さァ」運転手が肩をすくめる。「おれには分かりやせん」

「カーナビで検索できないんですか、さっきみたいに」

「こいつで調べられるのは、乗車したお客さんについてだけでさァ。相乗りしてない御方のことはちょっとね。プライバシーってもんがありますし」

「はぁ」気の抜けた返事をして、暫くの沈黙の後、男は言った。「訊いていいですか?」

「どうぞ」

「なんでこんな仕事してるんですか?」

「なんで、と言われても……」

 運転手は真っ直ぐに前を見据えている。しかし、声には僅かばかりの困惑が滲んでいた。

 男が質問を重ねる。

「というか、あなた何者なんですか? 何に当たるんです? 地獄の門番? 鬼? まさか死神の親戚とか?」

「あぁ。そういうことでしたら差し詰め、地獄で暮らす亡者ってとこですかねィ」

「亡者……って」

「えぇ、えぇ。おれァ、随分昔に死んじまッた人間でさァ」困惑の消えた明るい声音で運転手は続ける。「無事に地獄へ行きやしてね、それからマァながーいこと地獄巡りをして、なんやかんやあって、生前運転手をやってたのを買われて、今があるッて感じですよ」

「えー……そんなこと、あるんですか」

「たーっくさんありやすぜ。マ。刑務所の中で、囚人が刑務作業やってンのと一緒でさァ」

 ほい、到着。の言葉と共に、運転手がサイドブレーキを引く。

 いつの間にかバックミラーに固定されていた視線を、車外へ向ける。

 白以外の色彩は見受けられない。タクシー乗り場の標識だとかベンチだとか、そういう目印になりそうなものもない。本当に現世に戻ったのだろうか。

 男の不安を読み取ったように、運転手が笑う。

「安心してくだせェ。ちゃーんと現世ですよ。そうは見えやせンけどね、車から降りたら一瞬でさァ」

 運転手がそう言うなら、そうなのだろう。信じるより他にない。

「分かり、ました。あっ、お金」

「要りやせんよ」ビジネスバッグから財布を取り出そうとした男の動きを、後部座席へ振り向いた運転手が止める。「言ったでしょ。『刑務所の中で、囚人が刑務作業やってンのと一緒』って」

 後部座席のドアが勢いよく開く。

 ビジネスバッグを抱えながら途方もない白を見、男は運転手を振り返る。運転手は笑顔だった。とても優しい笑顔だった。垂れた目尻に皺が寄っている。

 その時、男はふと、祖母の話を思い出した。

 彼女の夫――男の祖父がタクシー運転手だったこと。徴兵され、大戦で命を落としたこと。遺留品の一部は生還した仲間の手によって持ち帰られたが、遺体は帰ってきていないこと。

「さァ、早く降りた降りた!」

 運転手が右手を忙しなく降る。まるで犬猫を追い払うように。

「おれァ暇じゃないんだ。他にも迷子が居るかもしれないからねェ」

「え、あ、はいっ」はっとして、慌てて頭を下げる。「すみません。ありがとうございました!」

「良いッてことよ。最期まで、悔いなく生きなせェ」

 その言葉を聞き、男は黙って頷く。

 不思議なことに、数分前まで感じていた不安が一切消えている。心の底から運転手を信じられる。大丈夫。タクシーを降りたら一瞬だ。どんなことになっているか分からないが――高確率で、病院のベッドで目覚めるんだろうけど――現世に戻ることが出来る。そして彼の言葉通り、悔いなく生きるのだ。定められた死を迎えるまで。


 目蓋を閉じる。

 鼻から息を深く吸い、止めて、口からゆっくりと吐き出す。

 目を開き、車外へ出した左足に力を込めて、男は黄色いタクシーを降りる。



(終)

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