弥生文書

10:fruitless suicidal

(2023/03/09・twitter)



 ある人魚が突然「人間になりたい」と言い出した。

 それを聞いた他の人魚達はびっくり仰天。傍にいる仲間とコソコソ囁きあい、ちらちらと「人間になりたい」人魚を見遣る。「人間になりたい」人魚の顔は真剣だった。元々、冗談など言わない性向の個体である。至極大真面目、心の底からの願いであることは容易に信じられる。けれど。

 壮年の人魚が、戸惑いを押し殺しながら口を開く。

「『人間になりたい』って……上半身は既に、人間のそれだぞ」

「そうだけど。そうじゃなくて」

 脚が欲しい、と人魚は続ける。

「二本の脚を得て、海を出たい」

「なぜ? 人間に恋でもしたか?」

 若輩の人魚が揶揄うような口調で訊ねた。が、浮かべた笑みはぎこちなく、目許は完全に強張っている。他の人魚も似た表情を浮かべた。中には怯えの色をみせる者もいた。

 人間に恋をした人魚が、人間の脚を得る。

 それは余りにも有名な御伽噺である。そして事実に基づいたフィクションでもあった。時代の流れに伴って文体は変化し、内容の一部も円やかな表現となっている。けれど結末は二次創作的に歪曲しない限り、さほど変わらない——悲劇に終わる。

 だから「人間になりたい」と言われ、人魚達は酷く動揺したのだ。「人間になりたい」人魚は堅物と言ってよいほど真面目で、表情の変化に乏しい個体だけれど、人魚らしく美しい容貌と歌声を持っていた。

 何より、とても素直だった。まるで物を知らない赤子のように。

「恋、はしてない」

「人間になりたい」人魚は、ふるふると首を横に振る。

 けど、と言葉を継いで、おもむろに背後から何かを取り出す。

「これが食べたいの」

 突き出されたのは奇妙な硬さの透明なコップと、白くて薄い素材で出来た手提げかばん、よく分からないものが描かれたカラフルな小袋——所謂、プラスチックゴミだった。昨今の海で度々見かけるそれらは、人魚達が暮らす海域にも漂ってくる。まるで水母くらげみたいに。

 小袋のイラストは意味不明だが、コップと手提げかばんに記されたマークを人魚達は知っている。それは海域から最も近い海岸にあるカフェのマークだ。パストラミサンドが旨いとは鳶の、フィッシュサンドが絶品とは鴎の言である。

 これが食べたい。そう言った「人間になりたい」人魚と、プラスチックゴミを交互に見、

「つまり……人間の食べ物が食べたいから、声と引き換えに脚を得て陸に上がるってことかい?」

「うん」

 壮年の人魚の問いに、頷きながら返答した「人間になりたい」人魚。仲間達は力のない笑い声を漏らした。その気持ちは安心半分、呆れ半分である。まさか、色気より食い気な理由だとは思わなかった。完全に予想外。

 若輩の人魚が「人間になりたい」人魚の肩に、ぽんと手を置く。

「やめとけやめとけ。実際に食ってみて、舌に合わなかったらどうする」

 だいたい、声を無くして、どうやって注文するんだ?

 指摘を受け、「人間になりたい」人魚は若輩の人魚の眼を真っ直ぐに見据える。一分、二分。或いはそれ以上の時間をかけて考えたのち、ひとつ頷いた。

 コップと小袋を手提げかばんに入れ、プラスチックゴミを纏める。

「やっぱやめとく」



(終)

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