5:とある佐藤くんの日常

『何気ない日常を淡々と描いた物語』(2023/01/23・monogayary)



 とある佐藤くんの一日は〔推しの声〕で始まる。

 カナル型のイヤホンから流れる、ありふれた日常の一ページ。内容そのものは余り興味がない。時には「なんのことだか分からない」こともあるし「一体全体それのどこが面白いのか理解し難い」こともある。因みに今、推しが語っているのは、昨夜より放送スタートとなったドラマの感想だ。佐藤くんは視ていないので、さっぱり分からない。

 けれど、佐藤くんにとって重要なのは〔推しの声〕。内容は二の次。

 推しが元気に語り、愉しそうに笑い、時に悲しみで声を震わせ、不満そうに愚痴を溢す。

 それらを聴くのが佐藤くんの朝の日課で、その日の活力となる。推しが推している俳優の何某が如何にイケメンで演技力も抜群で

「今回の役柄がこれまでの爽やか系から打って変わって狂人っぽいのが堪らないのー!」

 と言われても、佐藤くん的には

「テンション高めで好きなものを好きなだけ喋り尽くす推しが可愛くて堪らないのー!」

 でしかない。興奮しているのか、平素より早口なのも良き。〔推しの声〕が今日も可愛い。

 俳優の何某には微塵も興味はない。が、ドラマは普通に面白そうだと思ったので、来週から視聴することを心のメモに残す。第二話放送前に、一話目の再放送をしてくれたら有り難いな、なんて考えながら。



 通勤中のBGMは〔推しの歌声〕だ。

 控えめに言って、音質は良くない。率直に言えば悪い。更に素直に言うと最悪。

 ざらざらの音質は耳障りなアナウンスを余計に不快なものへ変える。正体不明の話し声も邪魔だ。けれど、致し方ない。推しは表立った歌手活動をしていないから。

 佐藤くんが聴く〔推しの歌声〕は不法に録音されたものだ。

 犯罪だと重々承知している。警察にバレたら逮捕される。分かっている。けど、止められない。否、止める止めないの話ではない。

 佐藤くんは罪を犯すしか〔推しの歌声〕を聴く方法がない。だから、仕方がないのだ。推しが歌手としてデビューしてくれれば違法な手段を用いらずに済むけれど、推しのデビューは佐藤くんが決められることではないので。佐藤くんは違法BGMで癒されながら不愉快な満員電車で出勤するしかないのである。



 日本で最も多い苗字を有するその人は、平々凡々が服を着て生きているような男だ。

 父親は、そこそこ名の知れた企業で働くサラリーマン。母親はパート勤めの主婦。五歳下の妹は二流大学の二年生。佐藤くんが中学一年の頃に購入された実家の戸建住宅には、ローンの返済が残っている。自家用車は今日日、見ない日はないほどに有り触れた国産エコカー。

 佐藤くんは公立中学校を卒業後、私立高校へ進学した。偏差値は中の上ぐらい。夢も将来への展望もなかった佐藤くんは、それなりの大学を出て、それなりの企業に就職できれば良いな〜としか考えていなかった。ので、進学先は「履歴書に記入しても恥ずかしくない学校」であれば何処でも良かった。その内、父親が

「つまらん企業に勤めるぐらいなら公務員になれ。未来永劫安定した職に就け」

 と繰り返すようになったので、佐藤くんはその通りにした。履歴書に書いても恥ではなく、且つ身の丈に合った大学へ進み、市役所の公務員試験に合格。晴れて事務職員となった。

 喜ぶ両親とは反対に、派手好きな妹は「公務員なんて地味過ぎ」と唇を尖らせていたけれど、佐藤くん本人は己の道が正しかったと確信している。


 業務時間中、佐藤くんは推し活が出来ない。

 激務というわけではないけれど、窓口対応がある。細々とした事務処理もある。業務に対して市民からクレームが入れば上司に睨まれるし、ミスをすれば叱責される。だから推しに想いを馳せる暇はないのだ。

 けれど、休憩時間となれば話は別。

 自前のスマホスタンドにスマホ立てかけて、佐藤くんは昼食を食べる。小さな画面で流すのは聖地巡礼の際に撮影した写真と動画だ。推しの生まれ故郷や、SNSにアップされていた場所へ訪れた感動を思い出しながらスープカレーヌードルを啜る。スパイスが効いた至極の一杯だ。推しの舌は間違いない。



 定時に退勤した佐藤くんは二駅離れたコーヒーショップへ向かう。注文はハニーミルクラテ一択。推しの好きなメニューだ。

 店内の片隅にある席を陣取り、推しが「面白かった」と語っていた小説を読む。普段、佐藤くんは小説を読まない。そもそも読書自体、あまりやらない行為だ。推しが面白いと評価したから、好きだと言ったから、同じ一冊を手にする。ただそれだけ。



 頃合いを見て退店した佐藤くん。そのまま〔推しに会えるイベント〕へ足を運ぶ。

 生の推しに会える機会は一日たりとも逃さない。基本的に週四日。時々三日になったり五日になったりと変動はあるけれど、開始時刻は同じだ。イベント会場の暖簾を潜れば、威勢のいい「らっしゃいませー!」が響き渡る。出迎えたのは如何にも陽キャな青年だった。妹と同じ年頃だろうか……なんにしても佐藤くんの苦手なタイプである。

「らっしゃいませー。一名様っすか?」

 佐藤くんの左右、そして背後を確認した陽キャが訊ねる。小声で肯定すれば変わらぬ快活さで「こちらへどうぞー」と案内された。

 一人ないし二人用の席に腰を落ち着かせ、佐藤くんは取り敢えずビールと出汁巻き卵、たたききゅうりを頼む。おしぼりと突き出しを配膳した陽キャが「かしこまりましたー」と下がって行ったのを見送り、腕時計で時間を確認。おしぼりで丁寧に手を清め、割り箸を割いて突き出しを突く。程なくして陽キャが注文した品を運んでくる。

 ビール、出汁巻き卵、ビール、きゅうり……の順番で口へ入れながら再度、時間を確認。

 近くを通りかかったスタッフに声を掛ける。

「すみません」

「はい」

「ウーロンハイと油淋鶏……あとアスパラ串、つくね、砂肝を一本ずつ」

「かしこまりました。空いたお皿、お下げします」

 やはり妹と同じ年頃の、しかし陽キャより余程落ち着いた青年が二枚の皿を回収し、軽く頭を下げて去って行く。残り少ないビールを舐めるように飲みつつ、読みかけの小説を取り出す。ここで読んだら行儀悪いだろうか。一瞬の躊躇いが佐藤くんの動きを止める。が、どうせ誰も気にしないと結論付けた。

 物語の中頃。甘い声が佐藤くんの鼓膜を振動させる。

「おまたせしましたぁ」

「……どうも」

「あ、佐藤さん! 今日も来てくださったんですね!」

 当然だ。先述した通り、生の推しに会える機会は一日たりとも逃さない。その為だけに身体をそこそこ鍛え、体調を万全に整えている。健康管理も完璧だ。けれど、推し本人へ正直に話すのは勇気がいるし、何より恥ずかしいので「えぇ、まあ」と曖昧な返答をする。

「ここの油淋鶏が一番美味しいので」

「わぁ、ありがとうございます!」

 天井から降り注ぐ橙色の明かりに照らされた油淋鶏は、推しが作ったものではない。にも拘らず、まるで自分が褒められたように喜ぶ。くらり……佐藤くんは眩暈を感じる。嗚呼、なんて可愛いんだ。笑顔が眩しい。尊い。天使。

 しかし、そのまま倒れるわけにはいかない。料理とウーロンハイを並べ、空っぽになったグラスを手に取り盆へ乗せる姿を然りげ無く眺めながら、栞を挟んだ小説を閉じる。

 推しが大きな眼を一層大きくさせ「あ」と声を上げた。

「その本」

 と言って、じっと小説の表紙を見つめる推し。顔がいい。

「私も読みました」

 先ほどの笑顔とは打って変わり真剣な顔つきで続いた言葉は、些か素っ気ない印象を受けた。随分と平坦な声だ。表情も強張って見える。もしかして感想を言いたくて、けれどネタバレになるから我慢しているのだろうか。

 だとしたら誠実で、いじらしい人だなと思う。佐藤くんは益々推しが好きになる。



 イベント終了後。会場を出た佐藤くんは、ゆっくりと歩き出す。

 目的地は決して遠くない。街灯が少なく、軽自動車が譲り合わなければ擦れ違えない幅の車道だ。その隅で佐藤くんは独り、ぽつんと立ち続ける。電柱の陰に潜むように。冷たいコンクリートに寄り掛かりながら。淋しい夜のお供は通勤中にも聴いた〔推しの歌声〕に限る。

 二時間後。建物の陰から誰かが姿を現す。眼を凝らし、正体を確認した佐藤くんは安堵の胸をなで下ろす。今日も無事、イベントを終えられたらしい。出待ちした甲斐があった。

 しかし、油断は禁物。家に帰るまでがイベントだ。カナル型のイヤホンを外して、推しが通り過ぎるのを黙って見守る。そして一定の距離を保ち、静かに護衛をする。良からぬ輩が彼女を害さないように。下心を持った男が近付かないように。視覚と聴覚を研ぎ澄ませ、己の気配を殺し、足音に細心の注意を払いながら推しを見守る。

 推しの家は単身者用の綺麗なマンションだ。三階建て。部屋は一八部屋。推しが住まうのは二階の、右から三番目——二〇三号室。

 カーテン越しに室内の照明が灯されたのを確認する。その明かりを暫く見上げ、再びイヤホンを装着。鞄から取り出したスマホを操作してアイコンをタップする。液晶の光が佐藤くんの平凡で特徴のない容貌を、ぼんやり浮き上がらせる。

 アプリが正しく起動すれば、イヤホンから音が聴えてくる。歌声ではない。とんとんとんとん。何かを置く音。外す音。水が流れる音。とんとんとん。唐突に入り込んだ明るい男女の声に、佐藤くんは眉を顰める。誰だ、聞き憶えがあるぞ。記憶の引き出しを開閉している間に、複数の笑い声が被さった。あぁ、最近流行りの芸人か。

 布が擦れる音。とんとんとん。ドアが開き、閉じる音。テレビの音声だけで満たされた時間が数分続いて、ドアの開く音が混じる。ドアが閉じる音。とん。冷蔵庫が開いて、閉まる音。とんとんとん。布が擦れる。何かのプラスチック音。プシュッと何かが抜けた音は、缶のプルタブが引き起こされた際のものだろう。


 瑣末な音に耳を澄ませながら“生”を実感する。

 佐藤くんが稼いだ金で、推しは生きている。

 さして強くない酒を頼み、格別美味しいわけでもない料理を食べ、きちんと料金を払うことで、その一部が推しの給料となる。佐藤くんの財布から出て行った金で推しは美味しいものを食べ、ハニーミルクラテを飲み、洋服を買い、可愛い下着を身につけ、好きな小説を買い、化粧品を買い揃え、洗剤やトイレットペーパーなどの必需品を補充し、必要な家電を購入し、光熱費と家賃を支払う。

 佐藤くんが稼いだ金で、推しは生活している。

 推しの細胞の一部分は、佐藤くんが構成している。

 そして、推しの安全で穏やかで平和な日常は、佐藤くんによって護られている。


 二〇三号室の窓が、ふっと暗くなる。

 テレビの音も消え去った夜の静寂。スプリングが僅かに軋んだ音と、布同士が大きく擦れた音を最後に、佐藤くんは家路につく。

 帰宅後。ラップトップを開いて〔今日の推し〕を記録する。交わした会話。こっそり撮影した写真。録音した音声も纏めて保存する。就寝の支度中もカナル型イヤホンは外さない。

 電気を消し、ベッドへ潜り込む。

 枕元には推しと同じ機種で、同じカバーを付けたスマートフォン。

 とある佐藤くんの一日は〔推しの寝息〕で終わる。



(終)

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