闇が光を飲み込むまで
夢月七海
第一話 伯爵の秘密
「伯爵様。今夜はどうぞよろしくお願い致します」
僕の寝室に招かれた侍女のニナは、酷くかしこまった様子でそう言った。瞳の奥で、僅かな怯えが揺れている。
彼女がこの城に仕え始めたのは数か月前からなので、夜に僕から寝室に呼び出されるのは初めてのことだった。そのため、ニナはこれから僕に抱かれるのだと思い込んでいる。それは勘違いだが、数回ほどここに通っている他の侍女たちも、結局真実は知らないのだから、仕方がない。
「いいよ。そんなに硬くならずに」
「はっ、はい」
ベッドの前でそう言って微笑んでみせたが、彼女の緊張はほぐれずに、むしろ裏返った声で返答した。相当重症だなと、苦笑してしまう。
ベッドの縁に、僕と二人並んで座っても、ニナは俯いて、ネグリジェを履いた膝の上に両手を揃えたまま動かない。どうしようかと少し考えて、あることを思いつく。
「ちょっと、話をしようか」
「話、ですか」
「うん。僕の子供の頃の話だ」
大きな瞳でこちらを覗き込むニナに、にこやかに話し掛ける。そして、誰にも言っていないことを、僕は滑らかに語り出した。
「子供の頃、僕はいつでもお腹を空かしていた。物心ついた時にはもう、道端に捨てられていたからね。とにかく、何か食べ物は無いかと歩き回り、ゴミ箱を漁っては大人たちに追いかけられる、そんな少年期だったよ」
「はあ……」
「そんなある日だった。この街に、悪魔が襲来してきたんだ。何もかもを壊して、老若男女を殺して回り、酷い有様だったよ。ああ、でも、僕をいつも臭い臭いと言っていた、パン屋の親父が殺された瞬間は、嬉しかったけれどね」
当時のすっきりした気持ちを思い出して、小さく笑い出してしまった僕を、ニナは不思議そうに眺めていた。しかし、「あれ?」と呟くと、恐怖でさらに目を大きく見開く。
「伯爵様は、代々この地を収めるヴェルフェルム家の生まれですよね? それがそんな、捨て子みたいな生活を送っていたなんて……。それに、悪魔が襲来したのは、今から二百五十年も昔の話、だったはずです」
あからさまな矛盾に、怯えを見せるニナは、僕から距離を取ろうと、上半身を後ろへ逸らせる。そんな彼女を安心させようと、優しい笑みを浮かべた僕は、そのまま口を開いた。
『僕が話す内容に、君は疑問を抱かない』
「あ――」
僕の、聞こえない声が耳に届いたようで、ニナは途端にぼんやりとした顔に変わった。口が半開きになり、目もどこか遠くを見るかのようだ。あまりに間抜けで、僕は彼女のことがちょっと嫌いになる。
だけど、今はもう、自分の話を最後まで聞いてほしかった。ニナの緊張をほぐしたいという当初の目的すら抛り出して、僕は後を続ける。
「悪魔たちの攻撃は、苛烈だった。富める者も貧しい者も、関係なく屠っていく。……僕が生き残れたのは、運が良かったからだ。小さい体を、崩れた壁の隙間にねじ込んで、じっと耐えていた」
ニナは、じっと僕の瞳を見つめたまま、話を聴いている。言葉の意味は分かっているので、時々こくりと頷いた。
「奴らが過ぎ去ってからも、僕はまだその壁の隙間にいた。辺りはしんとしていて、異臭が絶えず漂う、まるで自分の知っている街とは違う様子だったけれど、ずっとこそこそ生きて生きた勘なのかな、まだ何かあるような気がしていた。そんな状態での、三回目の夜、気を失いそうなほど空腹だった僕の目の前に、空から黒い何かが降り立った」
大昔のことなのに、僕はあの瞬間の緊張感を生々しく思い出す。膝の上に置いた掌に、じんわりと汗を掻いてしまうほどだ。
あの影を見た時、ぞわりと鳥肌が立ったのは確かだ。しかし、妙に高揚していたのも覚えている。悍ましい死の象徴のようでもあり、待ち侘びていた救世主のようにも、見えてしまった。
「それは、大きな大きな蝙蝠だった。羽を畳んで地面の上に立ち、きょろきょろと辺りを窺っている。もしも見つかったら、絶対に殺される。そんな予感がして、僕は息を潜めていたが、蝙蝠の赤い瞳は僕のいる方向とは正反対の場所に向けられた。その瞬間になって、僕は誰かの足音がこちらに近付いてくるのに気が付いたんだ」
蝙蝠の方に意識を集中していたので、その足音が聞こえた時は、まるで突然湧いてきたかのようだったなと、思い返す。
「駆けてきたのは、二人の男だった。手にはそれぞれ、鍬と鶴嘴を持っている。どこかに非難していた町の住民が、蛮勇を持って悪魔に立ち向かおうとした。そんな、英雄譚じみた瞬間だったんだろうね」
ただ、見ていた僕はそんな意識など全くなく、ああ、彼らはすぐに殺されるだろうなと、冷ややかに感じていた。実際、彼らが目の前に来ても、蝙蝠の姿をした悪魔は、慌てる様子も逃げるそぶりも見せなかった。
「悪魔に対して、男たちはわあわあと早口で何かを言っていた。どうやら、殺された人たちの仇を撃とうとしていたらしい。生き残ったんなら、そんなことせずに逃げていけばいいのに。僕はそう思っていた。その懸念は、現実のものになった」
「どうなったのですか?」
ぼんやりとした顔つきのニナが、そう尋ねる。鈴を転がすような、可愛らしい声だ。
僕は、彼女の髪を手で掬い、さらさらと流しながら、話を続ける。
「怒りに燃える彼らをじっと眺めていた悪魔は、何かを言った。……音が聞こえたわけじゃない。ただ、空気が震えて、何か喋ったんだろうと、肌感覚で分かったんだ。すると、男たちはぴたりと動きを止めて、ゆっくりと互いに向き合った」
この先を話すのは、ちょっと躊躇する。けれど、どうせ彼女は忘れてしまうのだから、まあいいかと、口だけを動かした。
「二人の男は、手に持った武器代わりの道具を、目の前の相手に振るった。最も憎い相手は、この男だと言わんばかりに、躊躇なく。鮮血が飛び散っても、罵り声を挙げながら、なおも武器を振り下ろす。悪魔がそれを見て、可笑しそうに甲高い笑い声を挙げる。……今まで見た中で、最もおぞましい光景だった」
「……」
その瞬間を想像したのだろう。ニナは口元を覆い、黙り込む。
僕の掛けた暗示によって、この話に疑問は持たないが、恐ろしさや気持ち悪さは確かに感じ取っている。申し訳ないなと少々罪悪感を抱きながらも、僕の過去の肝はもう少し先にあるので、話し続けた。
「鶴嘴を持っていた方の男が、頭部をかち割られて、倒れ込んだ。完全に息絶えている。鋤を持った方は、呆然とそれを見下ろしていたが、やっと悪魔の笑い声が耳に入ったかのように、その大蝙蝠の方を向いた。
……反撃されるなんて、思ってもいなかっただろうね。振り下ろされた鋤を、驚いた悪魔は右の翼で受け止めて、人間でいうと、掌のあたりが斬り落とされた。直後、また空気が震える感覚がして、もう一人の男も、自分で自分の首を鋤で斬って、その出血の多さからよろめくように倒れ込んだ。悪魔は、忌々しげに何かを呟きながら、翼を広げて、飛び去って行った」
「何と、恐ろしい……」
震える声で、ニナが言った。その瞳に、恐怖とは別の憐憫が灯っている。互いに殺し合った男たちのことを同情しているのだろう。
きっと、彼女の反応が、人間として正しいものであろう。ただ、あの瞬間の僕は、空腹で判断力が可笑しくなっていた。
「僕は、隠れていた隙間からふらふらと外に出た。もう、空腹感は限界だ。目に入るのは、男たちの死体ではなく、斬り落とされた悪魔の掌だ。僕はそれに飛び掛かり、むしゃぶりついた」
改めて自身の行動を言葉にしてみると、我ながら異常だったなと冷静に振り返られる。野良犬のような暮らしをしていた子供の僕でも、悪魔の体を食べるなんて真似はしない。
何か、人間を魅了するようなものがあったのだろうかなんて考えている僕の横では、ニナが「よほどお腹が空いていたんですね」と同情するように返していた。いくら疑問を持たないようにしているとはいえ、彼女のずれた視点に、苦笑を漏らしてしまう。
「ともかく、そうやって悪魔の掌を、骨までしゃぶりつくした後からだったよ。僕に、人を操る不思議な力が宿ったのは」
「人を……操る……」
ニナが、僕の言葉を繰り返す。疑問を持たずとも、この一言の不可解さを、氷を融かすかのようにゆっくりと理解しようとしている。
だから僕は、もうちょっと詳しく説明してあげることにした。
「僕は、人間の耳では聞こえない声を発することが出来る。それを聞いた者は、言われた通りに思いこんだり、行動したりする。今、君も僕が、『僕が話す内容に、君は疑問を抱かない』と言われたから、こんな状況になっているんだよ」
「そうなんですね」
自分の事なのに、ニナは他人事のように頷いていた。僕が、その後ろ頭を撫でてあげると、彼女ははにかんで笑った。
この能力は、あの蝙蝠の悪魔が元々持っていたものなんだろうと、僕は考えている。悪魔に命令されたからこそ、あの晩の男たちは殺し合い、自らも傷つけたのだろうと。
「この能力のお陰で、僕は生き延びることが出来た。まず、町を復興させるためにやってきた、伯爵の子だと、本人とその家族に思い込ませて、貴族になることが出来た。今の地位に就いても、生じるあらゆる矛盾を、この力によってねじ伏せてきたんだ」
「素晴らしいですね」
「他にも、ほぼ不老不死になれた。大きな怪我はすぐに治るし、歳は取らないけれど、死なないわけじゃない。この体には副作用があってね、銀と聖なるものには触れられないんだ。悪魔が由来だからだけれど、何故か、日光も浴びたら灰になってしまう。蝙蝠の悪魔が持っていた力だからかな。あと一つは……」
意味深に言葉を切ると、ニナは無言で小首を傾げた。大きな瞳が、僕をじっと見つめている。
しかし、僕は、彼女の目を見ていなかった。視線は、ある一点に注がれる。
「食事の代わりに、生き血を飲まなくてはいけなくなった」
「血、を」
ニナの首筋、熱い血潮が流れているその柔らかな肌だけを、僕は見詰めていた。三日我慢して、渇きは最高潮に達している。
僕はニナの肩を抱いた。思ったよりも乱暴になってしまったのか、ニナが「あ、」と小さな声を挙げる。
でも、どうでもいい。そのまま、首筋に牙を立てる。ニナの肌が裂け、空いた穴から血が溢れ出る。
その血が舌に触れただけで、僕の心は純粋な喜びに震えている。嚥下した血液が、全身に染み渡り、僕を癒してくれる。
血を飲むことに対する抵抗感や罪悪感は、最初に一口飲んだ瞬間に消え失せてしまった。
ああ、僕はどうしようもない化物だ。人間のふりをして、この街を支配し、夜な夜な生き血を飲み下す、この世に一匹だけの化物だ。
だが、そんな化物になったことを、微塵も後悔していない。全身全霊を満たしてくれる血の魔力だけが、僕の存在を肯定してくれる。
そうして、僕は侍女を歯牙に欠け、貧血になった彼女に、別のことをされたと新たな暗示をし、送り返す。定期的に繰り返されるそれが、僕の夜の習慣だった。
闇が光を飲み込むまで 夢月七海 @yumetuki-773
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