キミヒコは思う。

入川 夏聞

本文

 キミヒコが大学を出て、小さなソフトウェア会社に就職したのは、ただの成り行きだった。

 バイト先のコンビニでたまたま手にとったフリーペーパーに、求人が載っていた。ただ、それだけだった。それだけの理由で数年をそこで過ごし、いつの間にやらリーダーと呼ばれる役職を拝命していた。

 特に優秀だと自分を評価したことはないが、特に人と比べて無能というわけでもないようではある。

 それが、キミヒコの自己評価のすべてだった。

 ここで、あらかじめ断わっておかないといけない。この先、キミヒコが現実に何か成功するとか、信じられない幸運に出会うとか、そんな出来事はいっさい起こらない。

 ただ、彼はごくごく平凡で退屈な、あるいは少しだけ不幸な日常を、無意味な妄想で慰めながら、ぽかんと生きていくだけである。

 それが何か面白いのか、と問われれば、逆に問い返さねばなるまい。

 面白さだけが、この世界に存在を許されうる条件であるのか、と。


「……当たり前だ。そんなこと」


 会社最寄りの駅の改札を抜けながら、キミヒコの口からは思わず、そんな言葉が突いて出た。

 その反応は、己が以前に書いた短い小説への、自己批判と自己弁護が交錯した思考を一気に押し流すための、自己防衛にも似た精神的活動の帰結だった。

 彼の脳はしばしば彼の主人たる自我を超えて、このように過去の出来事や現在のぼんやりとした不安感、そして自らのうちから湧きのぼる妄想の類などを頭の中で撹拌させ、目の前に映る現実の上にでたらめにぶちまけて主人の思考や身体の機能を不意に奪ってしまうのである。

 朝の通勤時間帯であるから、周囲にはスーツ姿の人間がわらわらと交差している。 

 そんな往来で、他人にとっては意味不明なつぶやきを発してしまったという客観的な現実にキミヒコはすぐに気がついたが、あたりの喧騒がそんな些細な音などに動じるはずもなく、彼もすぐに目線をすぐ前を行く小太りの女のふくらはぎに向け、何ごともないよう自らを整えた。

 このままいつものように、目の前の人間の後ろをベルトコンベアに流された菓子パンのようについて行くのだ。そう思うとキミヒコの脳裏にはすぐ、機械の上を流れゆく、まっ白でモチモチとしたパン生地たちが出現した。そして、灰色のベルトコンベアの上をゆっくりと流れるそれらを一つひとつ、上から指先で垂直についているマスク姿の工員の様子までもが鮮明に描き出された。


「このパンは、手ごねであります! 手ごねであります!」


 沈黙した工員たちが、並び立っている。そんなまぶたの裏の映像のどこかから、見えざる宣伝マンの声が声高に売り口上をがなりたてている。

 キミヒコは思わずまた、嘘をつくな、と声を出したくなった。いったい誰が、そのような詐欺くさい言い訳のような売り口上を捻りだしたのであろうか。パン生地を指先でつついただけで、どこが手ごねだというのか。

 そう思いながらいつの間にかスマホを触って、大手玩具メーカー公式アカウントの発言に対して、ぶら下がるように苦言をいつものごとくペタリ、と貼り付けた。

 それは、過去にキミヒコが掴まされた不良玩具の件に対する抗議活動の一環だった。

 彼は変形するロボットフィギュアを好んでよく購入していたが、ある時、説明書どおりに変形させられない個体を引き当てた。

 キミヒコはすぐにメーカーへすごい剣幕で電話をかけた。

 曰く、貴様らがのうのうと生きていけるのは、金を何の役にも立たない変形玩具に捨てている、我々のようなバカどものおかげである。

 曰く、股間の部品がうまく伸びずに変形できないとは、人をコケにするのも大概にすべきであろう。

 曰く、つまりはバカどもに生かされてる分際のでかい図体こさえた大企業のくせに、人をコケにするとは何事か、云々。

 もちろん、電話向こうの女子は即座に閉口し、すぐあとには上役と名乗る低音うなる野太い男の音声があらわれて、うちではもう何も言うことはないから失せるように、との警告めいた断りを奇妙な柔和さで伝えられ、あえなくキミヒコは電話を切られたのであった。


 もう一度、自分の苦情文を読み返し、眉間の皺を気にしながら口元をにへらと軽く歪ませて、彼は手の内のスマホをスラックスのポケットへと滑らせた。

 ところ、首から下げた社給の携帯が振動したのである。

 キミヒコは、音もなくワンコールで出た。電話の主は焦ったのか一瞬のどをつまらせる音を発したが、すぐに本題へ向けて息を整えだした。女の声である。


「あ、キミヒコさんですか!? つながって良かった! いま、大丈夫ですか?」


 Bグループの内藤だった。どうやら本社からかけてきているらしい。どちらかと言えば冷静でクールなはずの内藤が、いつにもなく焦った様子を声音に乗せている。

 キミヒコは携帯片手にすました顔で、市営地下鉄の駅からすでに地上を歩いており、本社のある並木通りの雑居ビルまでは、もうあとたった2ブロックの距離のところであった。

 キミヒコの会社の始業開始は午前九時からで、今はまだ八時四十二分のところである。始業前に仕事をするほど、キミヒコはお人好しではない。が、社給携帯にはいつでも応じねばならない。それがリーダーの務めではあった。内藤自身もリーダーであるのだから、正直なところ、ため息の音のひとつでも彼女に聞かせてやりたいところではあったが、あいにく悪感情を表に出すな、と先日に社長から釘を刺されたばかりである。

 枯れた銀杏の木々の間から冬らしいカラっ風が強く吹き抜けて、駅からの坂道をのぼる人々の肌に、情け容赦のない寒気を叩きつけていく。


「大丈夫だから今、電話に出ている。なに?」


 控えめに言ったつもりだったが、内藤はすみません、と少し萎縮した様子をみせた。


「いえ、あまり大したことは」


「大したこともないのに、始業前の相手に電話するの?」


「あ、いえ。もちろん、そうではないです」


 どっちなのだ、この女。ついこの間リーダーになったばかりのこいつのせいで、始業前に腕の筋肉を酷使させられている。

 キミヒコは、イライラしてきた。イライラすると早口になるのが、彼の生来のクセだ。


「それは待てる要件という意味なの? そうではないの? どっちなの。あと数分で会社着くけど」


「それなら、はい。待ちます」


「待てる程度の要件なの? 勝手に電話してきて勝手にそっちでそうやって判断されて、もしも重要な案件だったら僕が困るし。そもそも、まだ何起こったか、僕、聞いてないんだけど?」


 まくし立てるキミヒコの勢いに気圧されたのか、内藤は「は、あ、ええと」などと言い淀み、ようやく「実は、先ほどポン管サーバの系が切り替わってしまいまして」と控えめな声で伝えてきた。

 それを聞いて、キミヒコはついにフラストレーションを口から大きく吐き出すに至って、内藤をしばし沈黙させた。

 ポン管サーバとは、キミヒコの会社が請け負っているシステムサーバの一つで、市営水族館の水槽管理システムを構成する主要サーバの一つであり、正式名称は「上水系ポンプ運用管理サーバ」のことである。役割としては、水族館内に設置してある各水槽へ適切な量の水を送り届けるためのポンプ出力をコントロールすることだ。

 このサーバが二十四時間、館内に設置してある複数のポンプをコントロールすることで、各水槽の生物は安定した水質環境で暮らすことができる。

 内藤のいう「系が切り替わった」とは、その重要な役割を持つポン管サーバが一つ停止したことを意味していた。

 通常、このように停止を許されないような重要なサーバは二台以上に冗長化されている。キミヒコの会社にこのサーバ管理を発注しているのは元請会社であるシステム大手FМCであるが、彼らのルールでは、このように冗長化されたサーバのうち、まさに稼働している方を「運用系」、冗長化されて待機している方を「待機系」と呼んでいた。

 そして「系が切り替わった」とは、正常に稼働していたはずの「運用系」サーバに何がしかの重大な異常が発生して動作不能に陥ったために、もう片方の「待機系」が自動で運用を引き継いだことをいう。

 ポン管サーバのシステムは、キミヒコの会社である玉城システムコンサルタント株式会社が実質すべてを担当している。

 つまりは、自分たちが一台のサーバを殺すレベルの重大なシステムバグを混入させていたか、操作ミスをやらかした可能性が高い、ということだ。


「トランザクション整合性と各プロセスのエラーチェックは?」


 キミヒコは系が切り替わった際に行うべき調査について、早口で確認していった。内藤はそれらについては的確に答え、とりあえずキミヒコからの叱責を免れた。


「……猿谷さんには、もう連絡したの」


 一通りの安全確認を終え、キミヒコは最後に一番どうでもいい「義務」の進捗を聞いた。猿谷は、元請けであるFMCの担当者の名前である。


「それはもちろん。ただ、事情を確認したいからすぐにリーダー会議を開きたいと……」


「当然だろうね。僕も出るけど、さっきの話だとポカやらかしたのはBグループなんだから、そっちが報告してよ」


 キミヒコは内藤に有無を言わさぬ口調でそう伝え、相手の「分かりました」という言質を確認してから電話を切ったのだった。





「……それで、内藤ちゃんとこの木村君だっけ? 彼が指示も受けてないのにサーバ上でインストールプログラムを流しちゃった、それで運用系サーバが切り替わった。そういうことなのかな?」


 内藤からの報告を聞いた猿谷は、それでもいつもの軽い表情のまま、リモート会議の画面に映っている。本来ならサーバが停止して系が切り替わるなど信じられない失態のはずだったが、この猿谷は内藤に昔から甘い。今も「すみません」と平謝りを続ける内藤に対して、姪っ子でもあやすような声で慰めの言葉をかけている。

 この男の七三分けの丸顔にブランドものの眼鏡という組み合わせは、リモートの画面を通しても気持ちが悪い、とキミヒコは心の中で毒づいた。

 それでも、猿谷に助けられている場面でもあった。キミヒコであれば彼のような無能な人物に対して、内藤のようにバカ正直に部下の失態を伝えたりはしない。ましてや、相手はプログラムもろくに組めない元請けの人間である。彼らはスケジュールや見積もりの金額を眺めたりするのに表計算ソフトをさわる程度の実力しかないくせに、何故かシステムエンジニアを自称しているため、問題が起こった際に貧弱なシステム知識をひねり出して盛大な勘違いを起こし、下請けに対して本質を見誤ったくだらない改善策を高圧的に指示してくるのである。だが幸いにして、今の猿谷にはその頭はないらしかった。

 つまりは、内藤に報告させたのが奏功したようだ。猿谷は、どうやらこのまま顧客に対して、下請けがポカってすみません、で押し通そうというハラのようである。

 それで事が済むのなら苦労はない。やってみるがいい。

 キミヒコは無表情のまま笑い、会議の様子を眺めていた。





 ただ、木村の失敗については気がかりではあった。彼は一か月前に入社した新人で、有名大学卒の経歴の持ち主だ。固太りした中年のような体格で、今まで部活動に所属したことはないらしく、色白の肌で、おでこがつるりと張った大福のような顔が特徴の青年だった。

 彼を面接したのは社長の玉城とキミヒコで、キミヒコ自身は「彼はどこか受け答えがおかしいです。雇うのはやめましょう」と玉城に率直に伝えていた。だが、玉城は一次面接で行っている数論テストの結果と学歴を指して「こいつは、めちゃめちゃ頭がイイ!」と喜んで彼を入社させた。木村は、もともとキミヒコらのチームの欠員補充の人材であったが、玉城は「いきなり開発は辛いだろうから」と、彼を内藤の部下としてアサインしたのだった。

 おかげでキミヒコは開発を担当するAグループをまた一人で継続することになったのだが、それで結構である、とも考えていた。

 新人の木村はいつか、とんでもないコミュニケーションエラーで問題を引き起こす。

 彼との面接以来、キミヒコはどこかでそう直感していたからだ。それが今、現実に起こってしまっている────。





「早川ですけど」


 するどい声音が飛んだ。いつの間にログインしたのか、つり目をした細身の不健康そうな男が会議に参加してきている。

 キミヒコは警戒した。彼はFМCのマネージャーで、猿谷の上席である。早川は猿谷とあまり変わらぬ年齢という噂で三十半ばくらいかと思われるが、痩せぎすで顔のほりが深く、本来の年齢よりずっと老けて見える。


「あー、早川さぁん。お疲れ様です、いつ入られたんですか」


 例のごとく、猿谷の呑気な問いかけを無視し、早川はキミヒコが最も警戒していた質問をまっすぐに投げてきた。


「内藤さん、今後の再発防止策はどう考えておられるんです?」


「え、はい、それは……」


 言い淀む内藤を、キミヒコは苦々しく思った。そもそもトラブルを起こした場合の再発防止策など、立案するのは当然の義務だろう。猿谷のようなレベルの人間と慣れあっているから、そうやって人として鈍くなっていくのだ。


「それはもう大丈夫ですよぉ、早川さん。早川さんは会議出てなかったんで知らなかったでしょうけど、内藤さんたちは次回からきちんと手順をダブルチェックするってことでしたから、それでお客さんも納得してくれますよ。私に任せてください」


「猿谷くん、あのさ。こんなこといちいち言いたくないんだけど、相手に知らなかったでしょなんて言うのは失礼だから、普通は言わないもんだと思うけどね。まあいいや、君さ、会議のメールに玉コンさん達の報告書つけてたでしょ。状況はそれで分かるよ、君にはわからないのかもしれないけどさ。誰でも自分と同じなんて奢った考え、捨てたほうがみんな幸せになれるんじゃないかな」


 ハイトーンボイスな早川からの嫌味を受けて、さすがに猿谷は表情を曇らせた。

 余談だが、玉コンは、キミヒコ達の会社である玉城システムコンサルタントのことである。玉コン所属のキミヒコも内藤も、声を潜めて彼らのやり取りを見つめるしかない。

 楽天家の猿谷にはこれくらい言わないと嫌味が通じないことを早川はよく心得ている、とキミヒコなどは沈黙の中で分析していた。


「で? 猿谷くんはさ、どう志村さんたちに報告しようとしてたの?」


 志村とは、水族館側のシステム担当者である。


「はえ? 早川さんはぜんぶ分かってらっしゃるんじゃなかったんですか?」


「……あ、の、さぁああああ!!」


 早川は、早々にキレた。


「そうやって人の揚げ足ばかり取って本業をおろそかにしてんじゃないよ! 原因究明も対応策も考えないで、客に何を報告するつもりなの。天気の話でもするの? バカ言わないでよ、我々はプロなのよ? まったく意識が足りないんだよ、意識がさぁ!!」


 猿谷はこのあと三十分間にわたりダメ出しを受け、文字通り涙目となりながら「あとで、志村様にご報告します」と言い残し、スッと画面から消えていった。


「それじゃ、キミヒコさん、内藤さん。ありがとうございました。慌ただしくてすみません、私も次がありますので。さっきの改善点を盛り込んだ報告書、猿谷へ送っておいてください。では」


 早川も画面から消え、ようやく茶番が終わったか、とキミヒコは思った。





「キミヒコさん、今朝はすみませんでした。改善点の件、ありがとうございます」


 結局、朝の会議では早川らから、プログラム更新時に流すプログラムから系を切り替える自動プログラムを取り除いて、以前のように手動で系を切り替える手順に戻したらどうか、というくだらない改善提案がなされた。

 もともと系を切り替える手順が複雑で間違いが多発したから自動化したのに、それでは本末転倒である。キミヒコにすれば、幼稚な茶番に付き合わされた挙げ句にこんなアホな改善を要求されるとは、この会議は心底無駄な時間だと思った。

 そういう無能な者どもの茶番で割を喰うのはいつも下請けの人間なのだ。なお、内藤はこの系の切り替え手順の手動化に乗り気を見せたので、もはや論外だった。

 仕方なくキミヒコは、手動で系を切り替える危険性と、自動化する前と後でのトラブル発生実績の数をその場で挙げ、代わりにタダでインストールプログラムに改修を加え、権限者のパスワード入力が無い限りプログラムが走らない仕組みを導入して新たな手順書を作ると提案して、早川から了承を得たのだった。


「いいよ。今さら手順を手動に戻すなんて面倒だろ」


「でも、パスワードプログラムなんて大変じゃないですか?」


 キミヒコは内心でほくそ笑んだ。

 こういうバカがいるから、プログラム作りはやめられない。

 こういうのは、何やら大仰そうな改修のように言うのがミソだった。実際はこんなもの、数分で出来るような改修なのだ。


「別に、仕方ないだろ。今さら手順を手動に戻す方が問題が多いんだ。それより、そちらは彼らのような素人が出すイカれた提案なんかを鵜呑みにしないでほしいね」

 

 そう言って、キミヒコは蔑む視線を内藤に送りながら、鼻を鳴らしてやった。

 内藤はうなだれたまま、すみませんと平謝りしている。キミヒコは彼女に、木村とあとで会議スペースに来るように言って席を立った。





 さて、木村である。内藤の話では、自分が彼に聞いても要領を得ない、ということだった。キミヒコは社長の玉城も呼んで、この機会に木村がいかにコミュニケーションに支障があるのかを証明しようとした。

 キミヒコの会社は小さな雑居ビルの狭い一フロアを借りている。そのために、すべての席はオープンであり、会議スペースもパーティションで長机を囲んだだけの簡素なものだった。

 四人かければ十分なスペースに、いまはキミヒコと社長の玉城、対面に内藤、木村が静かに座っている。


「じゃ内藤さん、とりあえず今朝の顛末を教えてくれる?」


 玉城がニコニコとしながら促すと、内藤は落ち着いた様子で説明した。

 この日、午後からプログラム更新が予定されていたので、朝イチでリハーサルをしようと内藤と木村はいつもより早く出社した。

 内藤はインストールプログラムの入ったDVDについて細かく木村に説明したという。そして、午後はこの中のプログラムをサーバ上で実行するのだ、と教えたという。

 木村はすぐに要領よく返事をし、内藤に二、三の質問をした。

 このときの質問は、どうやって会社にいながらプログラムを入れるのか、といったことや、プログラムが動くとどうなるのか、といった当たり障りのない内容であったという。

 内藤はリモートでDVDプログラムを入れる方法を、彼のパソコン上で丁寧に解説した。事前にマニュアルも渡していたので、その内容と照らし合わせながら間違いなく伝え、最後に「それじゃ、これね」と言ってDVDを木村に間違いなく手渡した。

 だが、内藤が少し目を話していた隙に、木村は勝手にリモートでインストールプログラムを走らせてしまったのだと言う。


「私は今やっていいなんて、絶対に言ってません」


 内藤のはっきりとした口調に対して、木村は下唇を噛んでうつむいていた。


「木村くん。なんで、勝手にプログラムを実行しちゃったんだい?」


 玉城がそう聞くと、木村はバッと顔を上げた。


「勝手になんて、やってないっ!」


「うそっ!? なんでそんなウソつくの?」


 内藤がすぐに反論したが、木村は「僕は、勝手なんてしてない。やってない!」と叫んで顔を真っ赤に上下に揺さぶりながら、何度も自分の腿を拳で叩く奇行に及んだ。

 その様子があまりに正気を失っているように見えたので、内藤は混乱してシクシクと泣き出した。

 キミヒコはそんな内藤や木村を無視して、ちらちらと玉城の顔色を横から観察していたが、いつも余裕を保っている風を装っている社長が見たこともないような困惑色を浮かべていたので、笑いをこらえるのに苦労していた。

 やがて木村はうつむきながら「やりなさいって、言われたんだ。僕は……」とつぶやいて、あとはブツブツと自分の世界に入ってしまった。

 内藤はシクシク泣いているし、木村はブツブツ別の世界にトンでいる。

 再びの、茶番であった。


「キミちゃん……どっちがホントなんだろうね」


 困惑した玉城からそう求められ、ようやくキミヒコは発言した。


「どっちも本当のことを言ってると思いますよ」


「えぇ? そんなバカな。それが真実なら、トラブルなんて起こらないはずでしょう?」


 玉城の顔の上に、大きなハテナが浮かぶ。だがキミヒコには、ハナからそれを詳しく説明するつもりはなかった。それよりも、さっさと対応策を話してこの茶番を終えたかった。

 昼は近所の人気店で、ステーキランチ定食を食べに行きたいのだ。


「内藤さん、木村には今やっていいって、伝えてないんだよね?」


「はい、そんなこと、絶対に言っていません……」


 鼻を小さくすすりながら、内藤は答えた。


「木村くん、君は内藤さんから説明を受けてDVDをはい、ドウゾと渡されたから、すぐにマニュアル通りにやったんだろ?」


「っ!?」


 木村は何かに閃いたかのように、顔を上げて首を激しく上下にふった。この反応はアニメの見すぎなのだろうか。ツバかアセか判らない何かが飛んでくるのでやめてほしい、とキミヒコは思った。


「内藤さん、木村はこういうヤツなんだよ」


「なんでも自分勝手にやっちゃう人ってことですか?」


 内藤は少し落ち着いてきたのか、口を尖らせる反応を見せている。


「違う。新入社員で入ってすぐに先輩を無視するようなバカなことをする度胸のあるやつなど、いるわけがない。少し考えれば分かるだろ」


「はぁ。それじゃ、いったい何なんですか?」


「お前は、『今やっていい』とは言ってないが、『今やっちゃダメ』とは伝えていないんだよ」


「な、なるほど。そうか!」


 首を傾げる内藤のかわりに、玉城が反応した。


「木村くんは午後にやるという内容を、内藤さんの説明を聞くのに夢中になって失念したんだね」


「まぁ、そう言うことでしょうね。初めて聞く、触る、なんてものの説明を長々と受けたんですから、一生懸命であるほど、DVDみたいなボールを渡されたらすぐにやらなきゃ、なんて勘違いしちゃう。そういう人間もいますよ」


 それから、とキミヒコは続けた。


「木村くん、君はきちんとメモを取りなさい。そして、それを相手に読み聞かせて間違いないか、毎度オウム返しで確認するクセを付けるんだね。君の記憶力なんか、そんな程度なんだよ」


「はい……」


 しょぼくれた木村に対して、これ以上いっても仕方がない。キミヒコは内藤に厳しい視線を送った。


「木村は自分の嫌いなことがどうしてもできないタイプの人間だ。他人とつるむタイプの経歴を一切持っていないことからも、それはよく分かる。こういうタイプは好きなことへの執着と記憶力は抜群だから、そこに油断が生じる。だから、メモを取らない。また、恐らくは他人に合わせて自分の時間を合わせることも嫌いなタイプだ。それで、人の話を聞いても、時間だけが無意識にすっ飛んでしまうわけだ。メモを取らず、予定を合わせるのも苦手な人間なのだから、これは周囲がフォローしてやるしかない」


「そんなこと言ったって、どうしたらいいのよ……」


 不貞腐れ気味の内藤を見て、キミヒコは急にどうでも良くなった。


「玉城さん、ハラ減ったんで僕は昼に出ますから」


「あ、ちょっと。みんなで行こうよ」


 玉城の誘いを断って、キミヒコは外に出た。




 急いで会社を出たので、コートを忘れてきてしまっていた。

 昼の日差しは強めだったが、雑居ビル群の谷間を抜ける風はいつも通り冷たかった。

 ポケットに手を突っ込んで大通り沿いを駅方面に下りながら、キミヒコは脳内の『誰か』を𠮟りつけていた。

 だいたい、ハタチを超えた大のおとなの生来のクセが、会社なんていう生活のために集まった烏合の衆の中で改善されるわけがないだろう。親でさえ直せなかったクセなのだから。そんなこと、少し考えれば誰でも分かるだろう。少なくとも、多少の本くらい読め。自分の弱点を直したいと思っているのなら。そうすれば、多少、人の生態にも詳しくはなるだろうに。

 

「このパンは、手ごねであります! 手ごねであります!」


 うるせえよ。いい加減、その現実に見せかけたウソを言うのを、止めてもらえねえかな。


 キミヒコの脳裏にはまた、白い工員が居並ぶ姿が浮かび、キザなスーツ姿のシルエットたちがローマ式敬礼を中空に浮かべつつ、そのまま谷底へ落ちていくのが見え、それらはそのまま軍隊の大行進となって彼の目の前に広がった。

 それらが脳裏を通り過ぎてしまうと彼は、購入を迷っていた例の第二次世界大戦のゲームをやっぱり買おう、と思うのだった。


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キミヒコは思う。 入川 夏聞 @jkl94992000

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