青い電燈

詩人と葬儀屋

 視界の端で揺れる長い黒髪は、1年4ヶ月前と何も変わらない。指で梳くように撫でればサラサラと流れていく、春叶ハルトの髪だ。

 一度離れた人間が最後まで覚えている要素は、その人の香りらしい。俺は春叶の身体が腐臭で上書きされる前に、あいつがよく使っていた香水を振りかける。何年か前のクリスマスの記憶が蘇り、俺は思わず苦笑した。


 エンバーミングという技術がある。ご遺体に防腐処理を施し、生前の姿を再現するかのように化粧を施す。特殊な資格が必要な、俺の生業だ。

 依頼を受けて対面したご遺体を見たとき、そこまでの驚きはなかった。ただ漠然と「皮肉なものだ」と思う。エンパーミングは、あいつが死後に最も嫌う行為だろう。

 春叶は、俺の同居人だった男だ。


    *    *    *


 春叶と初めて出会ったのは、繁華街のありふれたバーの裏手だった。濡れたアスファルトの上で仰向けに倒れ、長い髪を広げて空を見つめている姿が第一印象だ。アルコールで上機嫌だった俺は、その奇妙な姿に興味を覚えてしまったのだ。


「なぁ、何してんだ?」

「……店、追い出された。金が足りない奴に注ぐ酒はないんだと」


 春叶はのそりと起き上がり、誰かが残した缶ビールの空き缶を拾う。中身を確認すると、星を見上げて一息で飲み干した。

 一見するとホームレスのようだが、それにしては整った身なりをしている。厭世的な視線が捨て犬を思い起こさせる男を助け起こし、俺は自販機で買った水を投げ渡した。


「やめとけって。ほら、水でも飲んで頭冷やせよ」

「……月見酒の邪魔、すんなよ」

「やるにはもっといい酒があるだろ。今日はやめとけ」


 冷たい手が重なる。艶のある黒髪が流れるように波打ち、静かに揺れた。鼻腔を抜けるホワイトムスクの香りに、優美な色を感じる。

 この感情は酒のせいだと内心で言い訳をし、俺は小さく息を吸う。あくまで自然に、心を悟られないように言葉を紡ぐ。


「あー、良ければ俺の家で飲み直すか?」

「……悪いな」


 捨て犬を拾うようなものだ。これは同情や憐憫であって、一日が終われば元の場所に返す。そう思い続けて、気づけばあいつは2年も俺の家に住んでいた。


 春叶は詩を売って生計を立てているらしい。特定の宿や私物を持たず、放浪者のように生きている男だ。半ば家出同然で故郷から上京してきたようで、実家から持ち出した一冊の詩集だけを肌身離さず持ち歩いていた。

 俺が仕事に行っている間の留守を任せた時、あいつは意外そうに目を見開いた。俺の防犯意識を糾弾しようとする言葉を遮り、笑う。


「泥棒が怖くて他人を住まわせるかよ。必要なものがあれば言ってくれ。快適な仮宿にしてやるさ」


 あいつのことを信じている訳でもなければ、施しを与えることに快感を覚える性癖な訳でもない。ただ、「いつか煙のように消えてしまうかもしれない」という直感が働いたのは事実だ。

 それなら、次に行くのを一瞬思い留まるほど快適な環境を作ってやる。今後の仮宿で時折ここを思い出してしまうくらい、記憶の底にこびり付いた環境を作り出すんだ。


 それからの共同生活は奇妙なものだった。俺が仕事から帰れば、春叶はリビングのソファに背を丸めるように腰掛け、スマホを眺めながらブツブツと言葉を紡ぐ。創作に行き詰まっている時によくやる癖だ。あいつはそういう時に一切食事を摂らず、心身を極限状態に置きたがる。


「……飯作るぞ」

「今日はいい。お前だけ食べてろよ」

「ダメだ。腹減ると出るアイデアも出ないって!」


 俺がスーツを脱ぎながらキッチンに向かえば、脱いだスーツを拾い上げた春叶が怪訝な顔をする。仕事終わりのためか、線香の匂いがまだ残っていたようだ。


「なぁ、“葬儀屋”」

「俺はエンバーマーだって。そのあだ名やめろよ……」

「似たようなもんだろ。アンタの仕事、楽しいか?」


 春叶が俺の仕事に対してあまり良い思いを抱いていないことは知っている。今までそれについて話をすることは、無意識的に避けていた。


「楽しいとか楽しくないとかじゃないけど、やり甲斐はある。ご遺体が綺麗になると、その人が喜んでるみたいで……」

「そいつが綺麗なまま燃やされることを望んでないとしても? 死後を自然に任せず、人の手で形を保つのか?」

「……ご遺族がそれを望んでるんだ、仕方ないだろ?」

「死を物語化することをか? 誰にでも起こり得る普遍的な終焉を、過剰なほどエモーショナルに飾り立てるのか? それは、凡百なエモーショナルに生命を埋没させる……」


 捲し立てるように言葉を重ねているが、そこに悪意が無いことは理解できる。春叶は懐から詩集を取り出し、何かを諳んじるかのようにページをめくり続けているのだ。


「……『わたくしといふ現象は 仮定された有機交流電燈の ひとつの青い照明です』、か」

「……どういう意味だよ」

「あとで貸す。この一節が特に好きなんだよ」


 春叶は長い髪を揺らしてくくっと笑う。さっきまで苛立っていたのに、ひと呼吸終わればケラケラと笑っている。そういうよく分からない奴だった。


 だから、俺の前から消えたのも一瞬だったのかもしれない。


    *    *    *


 死因は知らない。俺と春叶はもう他人だ。煙のように消えて、どこかで住処を間借りして、なんの物語もなく死んでいったのだろう。結局あいつの詩を読んだ事もなければ、詩集も借りずに目の前から消えてしまった。

 依頼をしたのは、春叶の両親らしい。普遍的で、平凡で、善良な人たちだと思った。春叶はそういったものを嫌って出奔したのだろうか。今はもう聞く由もない。


 死化粧を施していく。血の通っていない白い肌に色を足し、脳裏に残るあいつの顔色に近付けていくのだ。重なる手の温かさは、とうに戻らない。

 エンパーミングを施したと知れば、あいつはどんな顔をするだろう。自然な死を好むのだから、きっと怒って数日は口を利かなくなる。いや、また持論を懇々と話し続けるだろうか。

 長い髪を結っていく。あの日あいつが誦んじた詩に何を託したかは、まだ分からない。俺は春叶と違って凡人で、よく知った顔の死を過度に物語化しているのだ。それは春叶に言わせれば「凡百なエモーショナル」なのだろう。


(あらゆる透明な幽霊の複合体)


 それでも。

 それでも、春叶には美しいままで命を終えてほしかった。あの日見た輝きを自然現象が毀損していくのは、凡人たる俺にはどうも納得がいかないのだ。


(ひかりはたもち その電燈は失はれ)


 処置室を照らす電燈は青く、煌々と輝き続けている。俺が作り上げた“不自然”は、最後に見たあいつの笑顔によく似ていた。

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青い電燈 @fox_0829

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