イン・ザ・クローゼット

回向

イン・ザ・クローゼット



「塩ラーメンお待ちどうさま」


 ごとん、と器を置く音と共に、唐突に騒音が耳に入ってきた。


「……え?」


 ぱちぱちと瞬きをする視界には、湯気の立つ塩ラーメン。

 どこか見覚えのある器は、近所の中華料理屋の物だ。そうして、たった今夢から目覚めたばかりのように周囲に視線を走らせると、確かにそこは過去に何度か訪れたことのある近所のこぢんまりとした中華料理屋だった。


 私は何をしていたのだっけ。

 記憶を辿ろうとするが、何故か頭がぼんやりとしていた。寝不足のような意識の不通を感じる。


「食べないの。麺、伸びちゃうよ」


 はたと我に返る。

 顔を上げると、向かいの席に座っている同年代に見える若い男がこちらを見ていた。その手元にもラーメンがある。まだ箸も手にしていない私とは異なり、蓮華を手に今まさに食事中といった様子だった。


「ダイジョブ?」


 雑多なお品書きと水着のポスターの貼られた壁を背にした男が、無表情で尋ねてくる。

 誰だろう、と知り合いのように話しかけてくるまったく知らない男を見つめ返す。男もまた何を考えているのか読み取ることのできない無表情で、じっとこちらを見ている。


「……だいじょうぶ」


 実際は混乱していて大丈夫とは言い難かったが、とりあえず何か言葉を返さないと思わされる居心地の悪い視線にそう答えた。


「そう? 大丈夫そうに見えないから聞いたわけだけど。麺、伸びるよ」

「……」


 自分の麺を啜る男の言う通り、私は大丈夫ではなかったし、できたてのラーメンの麺も今まさに伸びかかっているところだった。再三言われた麺のほうがまだなんとかできそうだったので、とりあえず橋を手に持つ。

 透き通ったスープと細麺の上には、チャーシューが一枚と白ネギが盛られている。ただそれだけのシンプルなラーメンだったが、その淡泊さが好きで、ここに来る時はいつもこれを頼んでいた。

 熱いスープに絡んだ麺が落ちていくと、胃の中に小さな火がついたように温かさを覚えて、知らず知らずのうちに張り詰めていた緊張が緩んだ。そこではじめて自分が空腹だったことを知る。

 しばらく何も考えずにラーメンに集中していると、向かいの男が追加注文で呼んだ店員が、踵を返す直前に私のほうへ視線を向けて「あ」と声を上げた。顔を上げると、何度か世間話をしたこともある中華料理屋の奥さんだった。


「ねえ、あんた。さっきなんか大変だったねえ。騒ぎがあって。あれ、あんたらの住んでるアパートだよね? 何か事故かなんかあったの? それとも病人?」

「え?」

「なんか救急車がきてるとかでさっきまでこの辺もうるさかっただろ? ま、この辺がうるさいのは今に始まったことじゃないけど、昼間っからってのは珍しかったからね」


 話の途中で注文に呼ばれ、はいただいまー、と返事をしながらあっという間に奥さんは戻っていく。

 残された私は、一人ぼんやりと箸を持ったまま止まって、今の言葉について考えていた。けれど、いくら考えても考えた傍から何一つ形にならずに靄のような霧散していく。


「麺、伸びるよ」


 そういえば一人ではなかったことを思い出したのは、またもやラーメンの食べ頃への忠告だった。正面の若い男は、いつの間にかまた私を見ている。ついさっき替え玉を注文した彼の器に麺はなく、頬杖をついてこちらを眺めていた。

 よく見ると、男の目に特徴があることに気づく。

 日本人に多い茶色の虹彩ではなく、色素の薄い灰色の瞳。

 それに気づいた時、自分でも無意識のうちに声を発していた。


「あ」


 私は、この瞳を知っている。

 だが、どこで?


 ―――そろそろ二十も半ばに差し掛かるというのに、同棲しているふらふらとした男の金遣いの荒さゆえに、私は常に金欠気味だった。

 住んでいるアパートは安さを理由に住んでいる風呂なし物件の築十数年のオンボロアパートで、周辺の治安も良くはなく、今いるこの近所の中華料理屋でたまにラーメンを食べることが唯一の贅沢といえばそうで、他に娯楽や趣味といえるものもない。

 だが、近くのごみ捨て場にたまに捨てられている古本を拾って持ち帰り、暇を潰すために読むことがたまにあった。

 それが、何の本だったかは覚えていない。ただ、『記憶の宮殿(マインド・パレス)』という言葉を本で見た。記憶を特定の場所と関連づけることで覚える『座の方法(ローマン・ルーム法)』といわれる代表的な記憶術。特に記憶力が良いわけでもない自覚があったから、かえって印象に残ったのだろうか。

 私の中には『記憶の宮殿』と言えるほど豪奢で広い記憶の部屋はない。今までのしけた人生でそんな立派なところに住んだこともなかったし、想像しようもない。私がもしも記憶を閉じ込めておくことがあるとすれば、それは、幼い頃に住んでいたコンクリート製の集合住宅。


 そんなことを唐突に思い出したところで、記憶の中で不意に扉が見えた。

 見慣れた集合住宅の素っ気ない鉄製の扉。アパートの一室。

 僅かに開いた扉の隙間。覗き見えた部屋の中。


 クローゼットの隙間から、伸ばされた子どもの小さな手。

 目いっぱい見開かれた、灰色の瞳。


 唐突に蘇った記憶に、私はぼんやりと目の前の男に目を向けた。

 名前も知らない男もまた、私をじっと見つめていた。

 その瞳の色だけが、やはり記憶にあった。


 そうしてまた、思い出す。

 記憶の中で開いたのは、けれど、あの集合住宅の扉ではなかった。

 その扉はクローゼットのものだ。私の部屋にある、観音開きのクローゼット。

 目の前にいる、この誰かも知らない男が、内側から開いて出てきた扉だった。




 私はたいした大人にはなれなかったが、一方でそれは、それなりに子どもらしく過ごしていた子ども時代から変わり映えがなかったと言い換えることもできるのかもしれない。

 まともな大人になれない人間はいっそ子どものままでいたほうが幾分マシな人生を送れる。少なくとも、大人になれば今のこの苦しみからは脱却できるのだという根拠のない希望や夢を裏切らずには済む。そうやって、永遠に何も知らない子どものままであれたならどんなにか良かったかと時々夢想する私は、けれど順当に無知な子どもからろくでもない大人になって、子どもであった頃の記憶も、使い終わった教科書のように開かれることなく埃を被って色褪せていく。

 だが、クローゼットからの連想で唐突に思い出された記憶は、今まで忘れていたことが不思議なほどに鮮やかに脳裏に蘇った。


 あれは確か、学校が終わって陽も傾き始めた夕方のことだった。

 春だったのか夏だったのか秋だったのか冬だったのか、そういったことは覚えていない。ただ、夕陽が橙色にかかって、地面に伸びた影がおばけのように伸び始めていた時間帯だった。

 当時の私はいわゆる鍵っ子で、仕事かそうでないのか部屋に帰っても誰もいなかったので、学校から帰るとすぐに集合自宅内の空き地に出て、同じように暇をしている子ども達とコンクリートの建物に声を反響させながら日暮れまで遊ぶのが常だった。


 後から振り返ってみるとまるで、過去はどこか他人事のように現実味のない記憶に映る。

 そうして現実にも、その日起こったことは私にとっては他人事には違いなかった。


 その日もまた、学校から帰るとランドセルを置いて早々に外に出た私は、誰かが持ってきたボールで集まった子ども達と何をするでもなく遊んでいた。

 私の住まいのアパートは団地には含まれなかったが、多くの棟が連なる近くの団地と隣接しており、遊び相手には事欠かなかった。子どもは大人ほどには遊ぶのに自己紹介も気遣いも必要ない。集まってきた子ども達の間でボール遊びをしていると、誰かが投げたボールが高く飛んだ。


「あ」

「あー!」

「うわー!」


 日が沈むように高く上がって、そのまま落下するかと思われたボールは、困ったことに風に煽られてアパートのベランダに着地した。柵に引っかかったボールに子ども達は誰のせいだ誰が取りに行くべきだとわあわあ押し付け合いの喧嘩になり、結局じゃんけんで決めることになった。

 そのじゃんけんに負けて一人ボールを取りに行くことになったのが私だった。


 そのアパートは同じような集合住宅が立ち並ぶ中でも、どこか薄汚れた印象があった。

 後から聞いた話では、そこはどこかの会社の単身者向けの社員寮として使われていたようだった。当然のことながら、子ども達の中にもそこに住んでいる知り合いがいる者はなく、勝負に負けた私は仕方なく一人で錆びついた階段をのぼっていった。


 大人には礼儀正しく。礼儀正しく。学校で教員が言っていたことを頭の中で繰り返して、ボールが引っかかった部屋の前までついた。

 星の巡りや運命などというものがもしあるのだとしたら、私にとっては、この時がそうであったに違いない。思い起こされるまで奥深くに封じ込められていた記憶だったのに、振り返れば不思議と素直にそう思う。たぶんそれは過去は厳然たる事実として常にそこに横たわっているもので、自分が大人になる過程で取り零したと思ったいくつもの物事もまた、実際には底で息を潜めて沈殿しているだけだからなのだろう。過去に起こったことも、その結果生まれた現実も決して変わることはない。それはたとえ私が忘れてしまっていたとしても同じことだった。

 それでもここから先の記憶は、思い出しても夢のように現実味がなかった。


 アパートの扉は閉まっていた。

 開いていたら勝手にそっと入ってそっとボールだけ取ってこれはしないかと子ども特有の薄い倫理観を薄らと抱いていた私は、小さな失望と緊張感を感じながら、背伸びをしてインターホンを押した。


 リーン


 軽く、甲高い呼び鈴が響いた。

 誰かはいたのか、中でごとりという音と身動ぎするような気配の後、ややあって男が顔を出す。このことについては、私は『男』ということしか覚えていない。小学生の私は山のように大きな男を見上げて「ボールが」と言いかけて口をつぐんだ。


 男の背後に見えるクローゼット。

 子ども一人が立って入れそうな大きさのそれの隙間から、白い指が覗いていた。


「ボールが?」

「ベランダに、引っかかって」


 取っていいですか、と意識を別の場所に飛ばしながらぼんやりと続けられた子どもの言葉に、男がちらと背後を振り返った。「ちょっと待って」と言い置いて中へと戻っていく。恐らくそれは部屋の前でそのまま待てという意味に違いなかったのだろうが、男が後ろを向いている隙に、私は何故か閉じかけていく扉の隙間に体を滑り込ませていた。鉄製の扉が、がちゃんと音を立てて、後ろで閉じた。

 玄関先に佇む私の視線は、クローゼットに釘付けになっていた。

 先程確かに見えたはずの白い指は、見間違いか幻覚だったかのように今は見えない。

 

 一歩、一歩、と部屋の中をクローゼットに向かって近づいていく。

 人の部屋に勝手に上がり込んでいるというのに、無意識のうちに玄関先で靴は脱いでいた。


 子どもの体重は足音を立てることもなくクローゼットの前へと辿り着く。

 立ち止まったクローゼットは観音開きの造りで、扉に微かに隙間が空いている構造だった。

 

 扉の前で立ち止まる。

 そっと扉に額を押しつけるように顔を寄せて、隙間から中を覗き込んだ。


 暗い。何も見えない。

 そう思った次の瞬間、本当に眼前で、誰かと目が合った。


 灰色の瞳――――思わず飛びのいたことで、気配に気づいた男が振り返る。

 男はぎょっとして、次いで、クローゼットの前にいる私を見るとにわかに焦ったようだった。恐らく手を伸ばそうとしたのだろう、こちらへ向かって身を捻る。


「あ」


 それが誰が発した声だったのかは覚えていない。

 狭い部屋の、室外機と共に取り付けられた申し訳程度のベランダの柵。

 引っかかっていたボールは、そこに身を乗り出してやっと手が届くところにあって、そして古びたベランダの柵は不意打ちで強くかけられた大人の体重を支えられるほど堅固ではなかった。

 言ってしまえばたったそれだけの話。

 当たり前の帰結。


 ガッシャアン、と高いところから植木鉢を落っことすような音が聞こえた。


 立ち竦んだ私は、不意にかたんと後ろから聞こえた音に、緩慢な動作で振り返る。


「あ」


 そこからのことは、よく覚えていない。




 唐突に過去の記憶が思い起こされたのは、正確に言えば中華料理屋の場ではなかった。


「あーあーあーあー、キッッッッタネェッッ!! てんめええええよくもやってくれたな! 俺の服に零しやがって! どうしてくれんだコレ! おちねぇぞコレもう! 買い換えだよクッソ!アーアァ……きったねぇ……きたねぇ……きもちわりぃ……なぁ知ってるか、俺は潔癖症なんだよ」


 垣間見えた小学校の記憶から戻ってきた先は、現在の住居であるアパートの床。

 築数十年の風呂なし物件。先程、洗濯し終わった服を渡したらついていたと言う一円玉程の大きさの染みにキレて、私を殴り飛ばした男と共に住んでいる部屋。

 ろくでもない男と付き合ってろくでもない理由で殴り飛ばされた結果、床に倒れたらしい。

 当たり所が悪く、軽く脳震盪でも起こしたのか、ふらつく頭を起こした。

 視界に、クローゼットが映り込んだ。


「なぁ、わかってんのかよ。お前には俺しかいないってのになんだよこれ。俺に見捨てられたら他に誰がいるってんだよ、なぁ」


 ――――過去の記憶が蘇ったのは、この時だった。


 過去の記憶の底にあった、クローゼット。

 かつて見た白い指。隙間から目が合った灰色の瞳。

 どうしてそれをこの時思い出したかといえば、目の前にあったそのクローゼットの隙間から、こちらを覗く瞳と目が合ったからだった。


 あの時と同じ、灰色の瞳。


 ぼんやりとする意識の中で、夢か現か、過去と同じ光景が目の前にあった。

 あまりに現実味のない光景だった。だからこそ、私はそれを夢だと思った。あるいは過去の光景の続きだと。

 何故なら、その後に起こったことさえも、過去の記憶とあまりに似通っていたから。


 クローゼットの隙間から、手が出てきた。

 その手が、内側から扉を押し開いて。


「……は? は、おま、だっだれだ、なにして……」


 同棲している男の呆気に取られたような呆然とした声に、私はゆっくりと頭を動かす。

 先程まで居丈高にふんぞり返っていた男が、驚愕と微かな怯えを見せているのを不思議な気持ちで見上げる。まだ頭ががんがんと痛んでいる。


「そっか。潔癖症かぁ。潔癖症って大変だよね。じゃここ住んでるのも大変そ。耐えられなくてイラついて当たり散らかさないように、助けてあげよう」


 少しも聞き覚えのない声が藪から棒に耳に入ってきた。ぐらつく意識のせいで、音としては届いた声が耳から思考に移動して更に理解に至るまでには、ひどく時間を要した。その間に聞こえてきた音については、断片的に覚えている。


 いつもと同じでいつもと少し異なる男の怒鳴り声。

 くるな、やめろ、なんだよおまえ、けいさつ。

 頭がぐらぐらとする。

 

 ガッシャアンッと、植木鉢を落としたような音。


 そうして、唐突に静かになった後。


「お腹すかない?」


 ――――顔を上げた先で、灰色の瞳とぶつかった。


 しゃがみこんで、こちらを見ている。

 クローゼットの隙間から覗いていた瞳。

 ずきずきと痛む額を押さえながら、緩慢に首を回す。


 室外機が取り付けられているくらいの、粗末なベランダ。

 そこにあったはずの柵が、まるで重い体重に耐えかねたように、抜けて消えていた。




 そういえば、あの時、階下で人が集まって騒いでいるような声も聞こえてきた、と思い出す。

 それならばきっと、先程この中華屋の奥さんが言っていた騒ぎや救急車というのも、もしかしたら。


「……」

「なに? 麺伸びるよ」


 私が記憶の渦に呑まれている間、いつの間にか来ていた替え玉を食べ進めていたらしい男に視線を向ける。

 やはり、見れば見るほど見覚えのない男だった。

 ただ一つ、その瞳の色以外には何も記憶に引っかからない。


「さっき、うちのクローゼットの中から出てきた?」


 なんと切り出すべきか悩み、結局一番根本的なところから質問することにした。


「うん」


 最初にそれとか他に聞くべきことがあるのではないかなど、自分でも思うところがなかったわけではない質問を、しかしあっさりと男は肯定した。熱心にラーメンを食べる手は止めないまま、どうでも良さそうでもある。


「……え、なんで?」

「気づくかなあって気になって。あんなに昔と同じになると思わなかったけど」

「は? え? ……前?」

「忘れてるんだ、やっぱり。昔、クローゼットの中にいた僕と目が合ったことあったよね」


 落ちかけた沈黙を遮るように「麺、伸びるよ」と急かされる。この男は麺以外に気にすることはないのだろうかと疑問に思いながらのろのろと箸を動かして、本当は食べるためではなく喋るために使うべき口で伸びてきた麺を啜った。


「誘拐事件」


 ラーメンの汁を蓮華で掬いながら、灰色の瞳をした男が言った。


「っていうには大したことない扱いだったけど、子どもを誘拐した男が間抜けにもベランダから落ちて事件が発覚、誘拐された子どもが見つかったってことがあった。誘拐犯の男は近所の子どもが引っかけたボールを引き取りにきたところ、子どもが室内まで入り込んだことで動揺して落下。クローゼットに押し込められてた子どもは外に出られたけど、発覚のきっかけになった近所の子どもは大人が目を離した隙にどっかに行ってそれっきり」


 男の声音には感情の表れが乏しい。いっそ穏やかと表現したほうがいいほど腹の中にどのような感情があるのか知らせない声だった。中華料理屋のテレビから流れる音や、厨房から聞こえる料理音、周囲の他の客達の声に紛れて、何事もない風景に馴染んで溶けていく。落ち着いた声は、考えを見透かさせない。


 たいした大人にならなかった私は、たいした人間である必要でなかった子どもの頃のことは正直たいして覚えていない。

 クローゼットのことから連鎖的に思い出した記憶も、強く頭を打ったせいなのではないかと思う。壊れたテレビを叩いたら直ったような弾みに出てきた記憶。

 私が子どもであった時から、結構な月日が経っている。

 先程頭の中で開いたクローゼットも、過去から連なる夢の続きのようにぼんやりと現実味がない。過去の記憶が往々にしてセピア色の他人事に見えるように。

 だが、食事の手を止めないまま、しかし今の今に至るまで一切私から逸らされないその、灰色の瞳だけは今の現実だった。


「運命って信じる?」


 いきなりの脈絡のない言葉に少し困惑して、しかし、そもそも今ここに至るまでのすべてが唐突で脈絡のない熱を出した時の夢のような感じがするので今更かとも思う。

 それはそれとして何を言い出すのだろうという気持ちでいると、くっきりと開いた目を男が覗き込んでくる。


「たった一度でも、人生においてこれは運命だと信じることがあったなら、そう思えたこと自体が運命だと思う。たった一度でも、運命を感じたことがあるのなら、よりどころとなる繰り返し思い出す感情があるのなら、今でもそこに触れることができるから、最後までずっと、僕のものなのだから」


 これは何の話なのだろうか。まるで何かの台詞をなぞっているかのようなのに、淡々とした言葉に揺らぎはなく、こちらを射抜く痛いくらいの視線もずっと変わらない。そう、あのクローゼットの隙間から見えた過去からずっと。


「あの時に目が合ったから、そのおかげで、そのせいで、今の僕がある。あの時に目が合ったから、僕と貴方には運命がある。だから会いに来た」


 私は不意に、彼が恐るべき勢いでラーメンを片付けながら、その実少しも意識をこちらから逸らしていないことに今更ながらに気がついた。それほど空腹だったのかと思うほど細身に似合わず止まることなく平らげられていた食事が、もしかしたら、そうやって絶え間なく満たしていないと収まらない何かを抑えているような奇妙な錯覚。


 私は、この店に入るまでの記憶を辿る。

 同棲している男にいつものように殴られて、クローゼットを見て過去の記憶が蘇り、部屋のクローゼットの中から過去と同じように瞳が覗いて―――そして今、眼前にある。


 ラーメンに視線を落とし、私は考えた。

 一番楽な方法は、いつだって至ってシンプルだ。そして往々にして最悪の手でもある。

 何もしないこと。これ以上の楽はないし、かつて責任を持たない子どもであった私は、ろくな大人になれずただ漫然と日々を過ごしていた。そうして私は、良くも悪くも、もう二度とそんなふうには戻れないのだろうとも悟っていた。記憶の中のクローゼットが開いた時、そこから出てきたものを見つめるように、眼前の男を見やる。


 果たしてこれは現実だろうか?

 たとえば過去から連なる夢の続きだとしたら、クローゼットを開いた私は何を解放したのだろうか。


 目の前には灰色の瞳。

 クローゼットの隙間から覗いたかつての指を眺めながら、そういえばこの人ストーカーとか殺人犯とかになるのかな、と今更ながらに思い、まあいいかと結局楽なほうに思考を置いて、ひとまず伸びきった麺を口に運ぶことにした。

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イン・ザ・クローゼット 回向 @yukineko825

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