第53話 生徒たちは思い出した

 朝から一悶着あったせいで色々と忘れかけていたことだが、今日は梅雨の最中にしては珍しく青々とした空が広がっていた。

 だからなんだ、といわれればそれまでなのだが、重要なのは天気の良し悪しじゃない。

 今が梅雨の真っ只中だ、ということの方だ。


 昼休みを控えた四限の教室で、にわかに殺気立った空気が漂い始めても動じることなく、我らが一年一組の担任をやっている英語教師の廣瀬先生は、かつかつと音を立てながら板書を記していく。


「……とまあこんな感じで、この辺はテストにも出す予定だから君らもしっかり覚えとけよ〜?」


 テスト、というその一言を聞いて、生徒たちの間に漂っていた空気ががらりと変わる。

 昼飯を待ち望んで、あるいは購買・学食戦争での勝利を思い描いていた生徒たちは、否が応でも思い出さざるを得なかったのだ。

 そう、学生に立ちはだかる難関の一つ、期末試験がもうそろそろやってくるのだということを。


 廣瀬先生は赤みがかかったおさげ髪を揺らしてけらけらと笑っていたが、多くの生徒たちにとっては笑い事じゃないだろうな。

 とはいえ中間試験でも英語の問題は教科書に出る範囲で賄われていたんだ、日頃から勉強していればどうとでもなるだろう。

 してなかったのなら、今のうちに対策できるだけしておいた方がいい。そういう意味ではこのタイミングで試験の話題を出した廣瀬先生は優しい方なのだろう──と、ぼんやりそんなことを考えていたときだった。


「ああそうだ、言い忘れてたけど期末からテストの問題難しくなるから、そこら辺も忘れるなよ〜」


 ぴしり、と空気に亀裂が入る音が聞こえたような気がした。

 まあ英語だからな、とタカを括っていたところがあった生徒たちは軒並み、困惑するか、そうでなければ絶望したような顔で廣瀬先生に縋りつくかのような視線を送る。

 担任なんだし手加減してくれるはずだよな、という淡い期待でも抱いていたのかどうかはわからないが、そんな視線を受けても動じることなく、廣瀬先生は板書を消しながら生徒たちの声なき叫びを斬って捨てていく。


「言っとくけど手加減とかなしね、大体そうだなー、中間の国語ぐらい難しくなるって思っといた方が色々気が楽だよ?」


 あっはっは、と豪快に笑っていたが、正直なところ、笑いごとじゃない生徒たちの方が大多数だろう。

 しかし、中間試験の国語並みか。上からせっつかれてそうしたのか、取り立てて特徴があるわけでも、特長があるわけでもない我が校がいきなり進学校を目指して舵を切ったのかは知らないが、随分と大胆なことをする。

 英語の試験の面倒なところはリスニングが存在することだ。


 筆記だったら誰にも負けない自信はあるが、リスニングが絡んでくると少しばかり自信がなくなってくる。

 そこら辺はそうだな、英語に対して親しみのようなものがないから、単純に苦手というよりは勉強不足なんだろう。

 英会話教室に通えばあるいは、と思うこともあるが、そんな金が我が家にないことを思えば、気合と根性で乗り切る他にない。


「せ、先生! どれだけ難しくなるとか、せめてヒントを!」


 クラスメイトの一人が立ち上がって、授業を畳もうとしていた廣瀬先生へと叫ぶ。

 傾向さえ掴めれば対策も立てやすくなるから、一か八かの博打としては悪くないだろう。

 だが、教師という職業は聖職者かどうかはさておくとしても、特段、誰かを贔屓するということがあってはならないというのが鉄則だ。つまり、担任だからといって温情がかけられるとは限らない……というよりは絶望的だと見ていいだろうな。


「それ教えちゃったら難しくした意味なくない? 普段から授業聞いてちゃんと予習復習してれば点取れるようにはするけどさあ」


 だから、攻略のヒントは自分たちの目で確かめてみてくれよとばかりに縋りつくような質問を蹴って、廣瀬先生は授業を畳む。

 起立、礼、ありがとうございました。

 普段であれば定型句である三拍子の「あ」の辺りで駆け出しているのが、学食・購買戦争に参加するクラスメイトたちだったが、今日は流石にそんな気分にはなれなかったのか、スタートダッシュで盛大に出遅れていた。


 果たして間に合うのかどうかはまあ、どうでもいい話だが。

 どちらにせよ、教室で残った連中の顔も、軒並みこの世の終わりかのように沈み込んでいる。

 ふと気になって祈里の席を見遣れば、祈里も祈里で助けを求めるように俺にぎこちなく、半泣きで視線を送っていた。


「……こ……九重、君……」

「……心配するな、勉強には付き合う」


 普段からノートを真面目に取っているのであればそうそう苦戦はしないと先生が言っていたのなら、その言葉を信じる他にない。

 いきなり大学受験レベルの問題を出してくるとは考えづらいが、物事というのはいつだって最悪を想定していた方がいいものだ。

 万が一そうなったとしても点を取れるように、勉強会で適度に祈里を鍛えていこう。幸い、今回は競争相手もいないわけだしな。


 泣きそうになっていた祈里を宥めつつ、今日は俺が祈里の席に椅子と弁当を持っていく。

 弁当といってもいつも通りのおにぎり二つだがな。相も変わらず彩りがない。

 今日は藤堂も学食の方に行っているらしく、久しぶりに二人で昼飯時を過ごせそうだった。


「よう、京介!」


 などと、久しぶりに訪れた平穏を破る声が背中越しに聞こえてくる。

 振り返ってみれば、三木谷がジャムパンと牛乳を手に突っ立っている姿を視界が捉えた。

 暇なのか。暇なんだろうな。


「……いきなりなんの用だ、三木谷」

「聞いたぜー? 英語のテスト、難しくなるんだってな?」


 全くやってらんねえよな、と三木谷は悪態をついたが、こいつはこいつで秀才の部類に入るから、今回もしれっと八割ぐらいは取っているかもしれん。

 いつの日か新月の夜に背中を刺されないことを祈るばかりだ。我が親友にして腐れ縁な幼馴染の未来は危うい。

 そんな俺のじとっとした視線に気づいたのか気づいていないのかはわからないが、三木谷は肩を竦めてぺらぺらと喋り出す。


「噂じゃ戸村のやつがいい評価もらったから、それに合わせる形で全科目引っ張られてるっぽいんだよな」

「……なるほど」

「大学受験を意識したとか言い訳してそうでムカつくんだよなあ、戸村のやつ……まあそりゃいいや、単純に難しくなるのは英語だけじゃないっぽいぜ、って話をしにきただけだからな」

「ふむ」


 三木谷のことだから、てっきり今朝方俺と白雪希美が話していたことでも掘り返しにきたのかと思ったが、そうではないらしい。

 だが、校内でホットな噂話があればそれに乗っかるのが三木谷という男の性質だと考えると、全テストが難しくなるかもしれない、という話に飛びついたのはさもありなんといったところか。

 英語だけならともかくとして、他の教科も難化するんだったら、少しばかり面倒だな。


「そうそう、もう一つ言い忘れてたわ」

「なんだ」

「京介お前、妹ちゃんとどこまで行ったんだ? なんか昨日お前がプリント届けに行ったとか聞いたけど」


 色々と面倒なことを訊いてくれるな。

 どこから情報が漏れたのかはわからないが、相変わらずの地獄耳に、呆れを通り越して感心さえするレベルだ。

 どこまで行ったもなにもあるか。ただ単に、担任のお使いも兼ねて風邪引いた友達の見舞いに行っただけなんだから大したイベントがあるわけでもない。


「どこまでもなにもあるか」

「その様子だとマジでなんもなさそうだな」

「なんで残念そうにしているんだお前は……」


 本当に野次馬根性が凄まじい男だ。

 こいつの中では俺と祈里が恋人同士ということになっているから、浮いた話を聞きたかったんだろうが、事実としてまだ俺たちは付き合っていないのだから、徒労もいいところだろうに。

 心底残念そうにじゃあな、と言い残して一組を去っていく三木谷の背中を見送りながら、溜息をつく。しかし、それにしたって、三木谷のアンテナ感度が高いだけかもしれないが、見舞いの話が四組にも伝わっている辺り、壁に耳あり障子に目ありとはよくいったものだな。


「……こ、九重君……」

「どうした、祈里」

「……そ、そそそその……せ、背中のことは……ひ、秘密で……」

「……わかっている。二人だけの秘密だ」


 祈里の声が小さくて、そして教室ががやがやと賑やかで助かった。

 今の話を聞きつけていたら、三木谷のやつは爆速でUターンしてきたであろうことは想像するに難くない。

 あの艶めかしくてすべすべした肌触りの、白く小さな背中が脳裏に浮かんでくる己を律するように、手の甲へと爪を立てながら、俺は祈里の言葉にそう答える。


「……ふ、二人だけの……ひ、秘密……えへ……なんだか、嬉しい……です……」


 それでいいのか。

 いいんだろうな。満足げだしな。

 相変わらずえへえへと頬を緩ませている祈里にとっての嬉しかったポイントがよくわからない俺は、調子を合わせつつ、頷くことしかできなかった。

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