第50話 白雪希美のお誘い

「……きて、起きて、九重君」


 聞いた覚えのある声が、そよ風のように耳朶を撫でる。

 ああ、そうだな。俺は、起きなければいけないんだ。

 片付けだとかも残っているし、そもそも友達とはいえ他人の部屋で居眠りなんて行儀が悪い。未だに抵抗を続ける睡魔の野郎を蹴り飛ばすように重い目蓋を持ち上げれば、果たして視界に映ったものは。


「起きた、九重君?」

「……白雪希美」


 祈里と瓜二つな容姿に、よく似た声。

 この前の中間試験で一泡吹かせようと試みた学園のマドンナが、祈里と同じ顔にいたずらっぽい笑みを浮かべて、俺を見下ろしていた。

 髪の毛の右側、祈里とは反対の位置につけられた星形の髪飾りが、蛍光灯の明かりを反射してきらりと光る。さながら、夜空に輝く一等星のように。


「フルネームで呼ばれるのは慣れないなぁ、キミも、もっと親しみを込めて呼んでくれてもいいんだよ?」


 白雪希美は余裕のある笑みを浮かべたままそう語ったが、親しみもなにも俺とお前が話した回数なんて片手で数えるほどだろう。

 祈里に肩入れしているのもあって若干敵視していたのは否定できないが、それにしたってほとんど話したこともないような相手に、どうやって親しみを抱けというんだ。

 それとも初対面からぐいぐいと距離を詰めてくるのがコミュニケーション強者の間では普通で、俺がコミュニケーション弱者なだけなのか。いや、そう詰られたらぐうの音も出ないが。


「キミは大胆なのに繊細だね」

「……心理学でも学んでいるのか?」

「あはは、まさか。私の直感」


 当てにするかどうかはキミ次第だよ、と、選択の権利をこっちに投げ渡してくる辺り、やはりこいつは油断ならない。

 大胆なのに繊細、か。いまいちピンとこない例えだ。

 それでも、自分の認知と他人からの認識は乖離するものだ。俺はそう思わなくとも、白雪希美の目から見た九重京介という人間は、そういう性質を持っているのだろう。


 それぐらいは、心に留めておくべきなのかもしれないな。

 半信半疑な俺に対して特に不快感をあらわにするでもなく、白雪希美は泰然と背筋を伸ばしている。

 いつも猫背気味な祈里とは対照的だ。顔と体つき以外は本当になにもかも正反対なのだと、改めてそう思った。


「一応、食器とかは片付けておいたよ。ありがとう、九重君」


 確かに気づけば食器は部屋から姿を消している。その言葉から察するに、白雪希美がわざわざ俺が寝こけている間に片付けてくれたようだ。


「……礼を言うのはこっちの方だ。感謝する。そして、すまない」

「あはは、どうして謝るの?」

「余計な手間を取らせただろう」


 いかに白雪希美との距離感を測りかねているからといって、落ち度に対してフォローをしてもらったのなら、礼の一つも言わなければ筋が通らないだろう。

 と、いうよりは、人間として当たり前のことだ。当たり前のことがただ当たり前であってほしいと願うなら、自分がまずそうしなければなにも始まらない。

 まずは隗より始めよ、ということわざがあるように。だから俺は、白雪希美に腰を折って頭を下げていた。


「じゃあおあいこだね、私も今日の撮影は監督さんがどうしても外せないって言ってたから、帰るの遅くなっちゃったし。だから九重君が祈里の看病をしてくれて、私は凄く助かったよ」

「……そうか」

「そういうわけで、お互い貸し借りなしでいこうよ。九重君」


 変に貸しとか借りとか作っちゃうと面倒だからね、と、白雪希美は冗談めかして微笑んだ。

 そうだな、貸し借りなんて基本的にない方がいい。特に金回りに関しては。

 などと脇道に逸れた思考の軌道を修正しつつ、俺は改めて祈里と瓜二つな白雪希美と向き合う。


 なにもかもがそっくりなのに正反対、双子として生まれたのに埋めることのできなかった格差。乱暴にいってしまえば、祈里が欲しかったものを全て手にして生まれて、生きてきたのが白雪希美ということになる。

 そういう意味ではまだぎくしゃくとした、釈然としない思いがあるのは確かなことだ。

 それでも俺は、その色眼鏡を通して白雪希美を見ていた、ということに間違いはないだろう。見方次第で、見えるものなんてものはいくらでも変わってくるからな。


「そうだ、九重君。さっきも言ったけど貸し借りなしで、キミがよければ私に付き合ってくれない?」


 白雪希美は、くすくすと微笑を絶やさずに問いかけてくる。


「端的に訊こう。なにを、どこで、どうして」

「ふふっ。キミの結論を焦る癖、あんまりよくないよ? 女の子は過程を楽しみたい生き物なんだから」


 主語がデカいぞ、それは。

 全ての女子が過程を楽しみたいわけでもなければ、それを示す統計もない……などといったところで、多分白雪希美には暖簾に腕押しなのだろう。

 だから今はそのエキセントリックな理屈を、そういうことにしておく。俺に結論を急ぎすぎる節があるのは確かだからな。


「そうだなぁ、簡単に言っちゃうと祈里の看病のために、その辺のコンビニまで色々必要なものを買いに行きたいんだけど、今って夜でしょ? 女の子一人で出歩くのは心細いから」

「……なるほど、理解した」


 というか、夜になるまで寝ていたのか俺は。

 自分の落ち度に、穴があったら入りたい気分になる。もしも白雪希美が起こしてくれなければ、知らない男が娘の部屋で寝ている状況に出くわす祈里の両親という構図が生まれていたのかもしれないと考えると恐ろしい。

 貸し借りなしとは白雪希美の提案だが、これは明確に大きな借りだ。なら、返さなければ筋が通らないだろう。


「それで、一緒に来てくれる?」

「……問題ない」

「ふふっ、じゃあちょっと玄関で待っててね。準備してくるから」


 準備とはなんだ、と一瞬思いかけたが、そういえばさっきも言っていたように、白雪希美は有名な読者モデルだったな、確か。

 そう考えれば、素顔を晒して街中に出るというのは中々にリスクが高い。さしずめ、変装の準備といったところか。

 俺はすやすやと穏やかな寝息を立てて、ぬいぐるみを抱きながら眠っている祈里を一瞥して、言われた通りに玄関へ向かった。


 廊下の明かりも灯っていて、確かに夜なんだということをつくづく思い知る。

 元々はプリントを届けて、軽い食事を作ったらすぐに帰るつもりだったんだが。

 だが、考えようによってはその失態が白雪希美との奇妙な出会いに繋がったのだから、人生というものはわからない。


 敵視……というよりはライバル視か。

 それこそしていたが、俺は、事実として白雪希美のことをあまり知らない。

 祈里とはまだぎくしゃくした関係なのは確かなのだろうが、精々それぐらいで、あとは三木谷たちが言っているように「文武両道な学園のマドンナ」という情報ぐらいだ。


 そういう意味では、白雪希美という人間を知るにはいい機会なのかもしれない。

 などと、そんなことを薄らぼんやりと考えながらローファーを履いている内に、野暮ったい眼鏡とマスクに、目深に被れるキャスケットを頭に乗せた白雪希美が階段を降りてくる。

 変装としては定番も定番な装いだが、それゆえに気づかれづらいというのも……あるのだろうか。日常で変装する必要があるシーンなんて、それこそ中古で買ったライトノベルでしか見たことがないからわからない。


「待たせちゃったかな、九重君」

「……いや、問題ない」

「それじゃ行こっか。しっかり私を守ってね、騎士様?」

「俺になにを期待しているんだ」


 もしもなにかあったときは物理的な盾になるぐらいの心構えではいるが、騎士なんて柄じゃない。

 そういうのはもっと、三木谷のような……いや、あいつを参考に出していいのかどうかはわからんが、自然と異性を相手にエスコートするような仕草が似合う連中だろう。

 俺に同じことはできそうにない。それを白雪希美もわかっているのか、相変わらずからかうような微笑を浮かべて、どこか上機嫌そうに踵を鳴らしていた。

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