第49話 ゆっくりお休み
些細な感傷を振り払って、目の前の料理に没頭する。出汁と醤油を合わせたものにかき卵と白米をぶち込んで小ネギを散らした、簡単なおじやだ。
もしくは雑炊だろうか。どっちでも確か同じだったはずから大して変わらないな。
いずれにしても風邪を引いている時でも食べやすいもの、ということでチョイスした一品だった。
祈里の家にある炊飯器から、一膳分より少ないとはいえ飯を拝借したのは申し訳なかったが、俺には土鍋と生米まで持ち込んで炊き上げるような技量も金もない。
祈里からの許可は降りたから大丈夫だと思いたいところだ。白雪家に健啖家がいないことを願おう。
そんな具合で借りた鍋で炊き上げたおじやを祈里のものと思しき薄い桜色をした茶碗に移して、俺は再び二階まで上る。
ガスの元栓は閉めた、換気扇も回した。
念のために一度戻って確認したが、やっぱり閉まっているし回っているから確認もヨシ、ということだ。
とにかく、炊事をするなら気をつけるのは包丁の扱いと火の扱いとガスの元栓の三点に尽きる。料理そのものはレシピ通りに作れば、不味くはないものにはなるだろうからな。
化学実験と同じような要領だ。
決められた分量を決められた通りに計って、決められた手順に従って進行する。
これさえ守っていれば大概の料理は上手くいく、とまでは言わなくとも、簡単なものならそれなり以上の出来にはなるはずだ。
「開けても大丈夫か、祈里」
俺は祈里の部屋の前に立つと、扉を三回ノックして呼びかける。
多分、というか十中八九大丈夫だとは思うが、下手に開け放ったら着替え途中でしたとか、万が一にもそんなことがないように気をつけてのことだった。
後ろ姿とはいえ、祈里の一糸纏わぬ上半身を見たばかりでなにをいっているんだと詰られればぐうの音も出ないが、別に俺はラッキースケベになりたいわけじゃないんだよ。
「……は、はい……着替え、終わり……ました……」
ドア越しに祈里のか細い声が聞こえたのを確認してから、俺は部屋のドアを開ける。
そこにいたのは、布団と一体化した祈里の姿──ではなかった。
少しだけ落ち着いたのか、相変わらずふらふらとした足取りで俺のところに歩いてくる。
「無理せず寝ていてもいいぞ」
「……い、いえ……こほっ……お、お構いなく……」
「そうか、ならベッドに座ってもらえると助かる」
この状況で、まさか祈里を正座させたり机に座らせるわけにはいかないだろう。
俺の言葉にこくり、と小さく頷くと、祈里はふらふらとベッドまで引き返す。
そして、全ての力が抜けたかのように、ぼふっ、と全体重を預けてベッドの縁に腰かけた。無理をしていたんだな、やはり。
「軽く食べられるものを作ってきたが……一人で食べられるか、祈里」
俺はおじやが収まっている茶碗と、プラスチック製のスプーンをセットにして手渡そうとしたが、今度はふるふると首を左右に振って、祈里は拒絶の意思を示す。
そこまで具合が悪いんだろうか。
なら、尚更市販薬だけで乗り切れるような状態でもないだろう。この時間にも急患センターは開いていただろうかと、俺がスマートフォンをポケットから取り出そうとしたときだった。
「……ぁ、ぇ……えっと……そ、その……こほっ……けほっ……!」
「落ち着け、祈里」
「……は、はい……けほっ……あ、あの……よ、よければ、なんですけど……こほっ……こ、九重君に、食べさせてほしいな、って……」
ダメですか、と、熱に潤んだ瞳が俺を見据えて離さない。確かに、確かに今の祈里がまともに食事をできそうな状態じゃないことは見てとれるが、それはそれ、これはこれというやつではないだろうか。
だが、病人の主張としては極めて真っ当なものだ。熱を出しているときは一人で、というか飯そのものを食べる気力すら湧かなくなるものからな。
ならば仕方あるまいと、俺は祈里が座ったベッドの縁近くで膝立ちをして、少なめに掬ったおじやを小さな口へと運んでいく。
「食べられるか、祈里?」
「……」
「……妙なところでヘソを曲げないでくれ」
どうせならいつも通りに「あーん」してほしいとかそういう類の目というか表情というか、明らかに不機嫌そうに祈里はぷい、とそっぽを向いて頬を膨らませる。
怒って不貞腐れているのに愛嬌を感じるのはある種の才能みたいなものなのかもしれない、と感心するが、それはただの現実逃避に過ぎないんだよな。
観念して俺は、つーん、という音が聞こえてきそうなほどに不貞腐れている祈里に呼びかける。
「祈里。あーん、だ。口を開いてくれ」
「……こほっ……あ、あーん……」
「……不味くはないか」
ようやく一口手をつけてくれた祈里に俺は問う。レシピは守って作ったものだから不味くはないと信じたいものだが。
固唾を飲んで、評価が下るのを待つ。
もぐもぐと控えめに咀嚼して飲み下した祈里は、恍惚としたようにほっ、と息をつくと、熱のせいか、とろけたような笑みを浮かべて言った。
「……お、おいしい……です……えへ……」
「なら、よかった」
「……九重君の、お……お料理……えへ……」
そんなに喜ばれるほど凝ったものではないんだが、そういう風に褒められると、なんというか大分気恥ずかしいな。
悪い気はしないが、それはそれとして背中がむず痒くなるというか脊髄を指先でなぞられたような感じがするというか、とにかくそんな心地だった。
俺が口元に運んだおじやに祈里はふー、ふー、と小さく息を吹きかけて冷ましながら、少しずつ咀嚼していく。
食欲はあるようでなによりだ。
こういうときは無理をしてでも食べた方がいいというが、ものが食べられないぐらい、具合が悪くなるときもある。
少しでも体が食べ物を欲しているということは、回復に向けて栄養を求めているということだ。だから、有り体にいえば俺は、少し安心していた。
おじやと、ついでに買ってきたプリンを食べた祈里は満足げに熱っぽい笑みを浮かべると、少しは楽になったのか、さっきよりは手際よく布団に潜り込む。
そして、壁にもたれかかっていたなにかしらを抱きかかえる。
ぬいぐるみ、だろうか。なんのぬいぐるみなのかはわからないが、鹿の角が生えているゆるキャラとしか形容できない見た目のそれを抱いた祈里は、頬を赤らめながら問いかけてくる。
「……こ、子供っぽい……です、か……?」
この子がいないと、眠れなくて。
祈里は続く言葉にそう付け加えた。
俺は生憎それがなんのぬいぐるみかもわからないが、くたくたになっている様子を見るに、相当な年月、一緒にいたのだろう。
「物に愛着を持つのは悪いことじゃない」
「……そう、言ってくれて……こほっ……嬉しい、です……」
別にぬいぐるみだろうが抱き枕だろうが、本人がぐっすりと眠るためにそれが必要だというのなら外野がとやかく言うことじゃない。
むしろ、くたびれるまで大事に……というよりは一緒に寝床を共にしてくれて、ぬいぐるみも本望といったところだろう。
そして、食べ物を胃に収めたことで急激に眠気が押し寄せてきたのか、祈里はうつらうつらと船を漕ぎ始める。
「……くぁ……ぁ……」
「今はゆっくり休め。それが一番だ、祈里」
「……はい……こ、九重、君……手……繋い……で……」
そう言って手を伸ばした辺りで力尽きたのか、片手をベッドから出したまま祈里はすやすやと眠りの淵に落ちていった。
その手を取って静かに耳を澄ませば、脈動がちゃんと感じられる。祈里はただ、眠っているだけだ。
そんな、どこまでも当たり前の事実に、俺は少しだけ安心していたのかもしれない。ほっと、手のひらに伝わってくる温もりに一つ息をつく。
そうして祈里の温もりに絆され、緩んだ気持ちという隙間を突くように、睡魔が頭の上を旋回し始める。
まずいな、このままだと俺も寝てしまいかねない。片付けだとか色々やることはあるんだが、頭の中ではちゃんとそれがわかっているんだが。
磁石でくっついたかのように、祈里の手と繋ぎ合わさった俺の手は離れてくれる気配がなかった。抵抗を試みてはいたが、とうとう、重力に屈するかのように俺は膝からくずおれて。
結論からいえば、眠ってしまっていた。
意識が遠のいていく感覚に拐われて、眠気という荒波に引き込まれて、どこまでも深く、深く。
俺もまた、祈里と共に眠りの底へと、落ちていったのだ。
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