第48話 身体を拭いてくれますか

 リビングと一体化しているキッチンに辿り着いた俺は、卵と小ネギを冷蔵庫に一旦保管させてもらう形で手を空ける。

 そして、水道の蛇口を捻ってお湯を出すと、祈里から借りてきたタオルをぬるま湯に浸して、きつく絞り上げた。

 なんだか、懐かしくなってくる作業だ──などと、ちょっとしたノスタルジーに浸っている暇はない。


 この場で俺がやるべきことはただ一つ、単純に祈里に濡れタオルと冷却シートの替えを迅速に届けることだ。

 氷枕の類があれば尚よかったのかもしれないが、あまり人様の家の冷蔵庫なんて物色するもんじゃないからな。それに、あったら祈里が既に使っているだろう。

 もう少しだけ待っていてくれよ、と心の中で唱えつつ、俺は余計な水分を出し切るように、タオルを絞る手に力を込めた。


 そして、タオルを絞り終えると、冷蔵庫のドアポケットに入っていたイオン飲料と、冷却シートの箱の中から一枚を拝借して俺は、二階に上がっていく。


「待たせてすまなかったな、祈里」

「……い、いえ……だ、大丈夫、です……こほっ……」

「喉も渇いただろう、とりあえずベッドの脇に置いておくから必要なときに飲んでくれ」


 友達とはいえ他人の家の冷蔵庫を勝手に漁ってしまったわけだが、そこはどうにか許してほしい。もしこのイオン飲料が白雪希美のものだったりしたら、全力で詫びる次第だ。

 ありがとうございます、と咳き込みながら答えた祈里は、ペットボトルのキャップを捻ると、渇いた体が求めるままにその中身を飲み干していく。

 様子を見るに、水分をとる気力が湧かないくらいひどい熱だったのだろう。今が朝よりマシになっているかどうかはわからんが、よく朝もメッセージを送ってくれたものだ。


「んくっ……んくっ……」

「あまりがっつくなよ、咽せるぞ」

「……っぷ、ぁ……は、はい……でも……おかげで、少し……元気になりまし、た……」


 ありがとうございます、と祈里はそう続けたが、特段感謝されるようなことはしていない。

 むしろ、見舞いにきたんだから当然だろう。

 だが、面と向かって言われるとなんというか、その、なんだ。照れくさい部分があって、それを誤魔化そうとしているのもまた確かだった。


「……そ、その……九重、君……」


 イオン飲料とゼリー飲料を飲み干すと、祈里は少しだけ俯いてもじもじと指先を突き合わせながら、俺の名前を呼ぶ。


「どうした、祈里?」

「……そ、その……お、お願いが……あるん、です……」


 髪に隠れて表情は見えなかったが、耳まで真っ赤になっているのは熱が出ているせいだけではあるまい。

 まさかとは思うが、そのまさかじゃないだろうな。

 俺は祈里がなにを言い出すのかと戦々恐々としながら続く言葉を待っていたが、果たしてその予感は現実であったようで、ぷちん、とパジャマの前のボタンを外すと、祈里は引っ掛かりに苦戦しつつも上着を脱ぎ始めた。


 俺は慌てて視線を逸らしたが、汗に濡れたシャツの下につけていたものが、具体的にいえば既視感があるピンク色のやつが透けて見えてしまう。

 いや、違うんだ祈里。これはいつかと同じ不可抗力なんだ。

 言い訳をしている時点でお前にやましいところがあったんだろうと詰られれば否定できないが、とにかく祈里が服を脱ぎ始めたことで、その「お願い」とやらがなんなのか予想はついた。


「……え、えっと……九重、君……その……わ、わたし、の……わたしの、身体……拭いて、くれます、か……?」


 シャツと上着で前を隠しながら、祈里が瞳を潤ませてそう問いかけてくる。

 背中だけなら問題ないのかもしれないが、前までは流石に無理だ。というか、祈里の許可が降りたとしてもできる気がしない。

 俺は冷や汗がこめかみに滲むのを誤魔化すかのように唇を固く引き結ぶ。


 祈里からの、友達からのお願いなら断るわけにはいかないという気持ちと、いや流石に友達同士であってもそれはどうなんだという気持ちの板挟みだ。

 落ち着け、落ち着くんだ九重京介。

 とりあえず確認しなければいけないのは、どの範囲かまでだろう。決めるのは、条件を訊いてからでも遅くはない。


「……念のために訊いておくが、後ろだけで間違いないか」

「……ぇ、ぁ……!? は、はい……っ……! そ、その……前は……じ……自分、で……」

「……なら、大丈夫だ。すまない、変なことを訊いて」


 流石に距離感がバグっている祈里でもその一線を越えるつもりはなかったらしくて一安心だ。これで、前も頼むと言われていたら困り果てるしかなかった。


「……けほっ……お、お願い……します……っ……!」

「……わかった」


 祈里は俺に背を向けると、もぞもぞと後ろに手を伸ばして、ブラジャーのホックに指をかける。

 ぷちん、と音を立てて、滑らかな動作でホックが外された。そうして俺は、あらわになった祈里の白くなだらかな背中にタオルを当てて、そっと拭いていく。

 変なところに触れさせないように、しかしちゃんと汗を拭き取れるような力加減で手を動かすというのは中々難しい。


「ん……っ……」

「……すまない、変なところに触ったか」

「……い、いえ……その……大丈夫……です……」


 なにがどう大丈夫なのかよくわからんから、それを伝えてくれるとありがたいんだが。

 と、言ったところで余計に気まずい空気になるのは目に見えている。大丈夫だという言葉を信じて、時折もぞもぞと身じろぎする祈里の背中を、俺は丹念に拭いていく。

 小さな背中だ。やましい気持ちがあってそう思うわけではないが、単純にいつか見た景色と、今が重なって見えただけの話、他愛もない感傷だ。


「……とりあえず、こんなものでいいか?」

「は、はい……ありがとう、ございます……」


 こっちに背を向けたままなのもあって、祈里の表情はよくわからなかった。

 それでも汗を拭ってもらったことで少しだけすっきりしたのか、声の調子が軽くなったように思える。

 こほこほと咳き込む祈里の背中をそっとさすりつつ、俺は背中に回されたその手に、タオルを手渡す。


「新しいのに替えなくて大丈夫か」

「……え、えっと……はい……」

「遠慮ならいらない、本当に大丈夫か?」

「……はい、こほっ……その……もう一枚は、夜に、使うので……」

「そうか」


 祈里がそう言うのなら、大丈夫なのだろう。

 俺はくるりと踵を返して、上半身の前面を拭き始めた祈里から視線を逸らす。

 さて、このまま部屋の中にいても気まずいだけだ。なら、もう一つの用事を済ませてしまうとしよう。


「……祈里、腹は減ってないか?」


 背中を向けたまま問いかけるのは自分でもどうかと思ったが、今振り向けば、それ以上の大惨事が起こるのは目に見えている。

 いくら祈里の距離感がバグっていたって、俺と祈里が友達だからといって、まさか一糸も纏っていない身体を見るのは確実に一線を越えているだろう。

 だからこそ、鋼の意志で俺は絶対に今の祈里を視界に収めないという覚悟を持ってそう尋ねた。


「……ぁ、ぇ……えっと……けほっ……す、少し……」

「ならちょうどいい。少しだけキッチンと米を借りてもいいか」

「……は、はい……その……お構い、なく……」

「助かる。なにかあったらメッセージアプリで呼んでくれ」


 それだけ告げて、俺は祈里の部屋をあとにする。なんといえばいいのか、そうだな、心臓に悪いひとときだった。

 だが、タオル越しに触れた祈里の小さな背中のすべすべした感触や、いつかの既視感と重なり合った景色が、瞼を閉じれば暗闇の中で明滅する。

 冗談じゃないな、色々と。自分で自分の脳が思い起こしたことを否定しながら、俺はキッチンまで降りていく。


 米とうどんのどっちにするかは迷いどころだったが、前者を選んだのもまた俺の他愛もない感傷がそうさせたのかもしれないと考えると、色々とげんなりしてくるな。

 選んだときはなにも考えていなかった、というのがその実正解ではあるのだが、考えていないときほど人間は直感的な行動をとる。

 そして直感は経験に紐づいたものであると考えると、やはりとでもいうべきか。


 いや、もうこれ以上考えるのはよそう。

 とにかく今は祈里が快方に向かうことだけを考えればいい。

 ただそれだけの、簡単な話なのだから。キッチンに立って諸々の準備を進めながら、俺は自分に強く、そう言い聞かせた。

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