第47話 君の家まで

 道中のスーパーで、ゼリー飲料やらプリンやらなにやら、とにかく熱を出したときでも比較的食べやすいものを買って、俺は祈里の家まで歩いていた。

 いつか来た道をなぞるだけだから、特に迷うこともない。勉強と道を覚えることだけは得意な証だ。

 藤堂や三木谷がここにいたら「少しは他人の名前を覚える努力をしろ」とでも言われそうなものだが、覚えられないものは覚えられん。


 特に大人相手だとダメだな。国語教師の名前が戸村だったか下村だったか今もあやふやだ。

 それなのに数学の公式だとか方程式だとか、歴史の出来事やエピソードはすらすら頭の中から出てくるんだから、自分で自分がわからなくなる。

 そんな俺の記憶事情はともかくとして、祈里の家まで辿り着くのに、それほど時間はかからなかった。


「……呼び出すしかないか」


 合鍵の類は持っていないし、祈里の家族構成も、姉がいること以外はよくわからない。

 つまり、チャイムを鳴らして家にいる誰かが出てくるかどうかは五分五分……いや、多分出てこない可能性の方が大きいといったところだろう。祈里の両親が共働きの可能性も大いにあるしな。

 メッセージアプリを立ち上げて、俺はタイムラインに簡素な文字列を打ち込んでいく。


『お見舞いにきた、すまないが鍵を開けてもらえるか』


 祈里がやったようにスタンプの類も添えれば少しは堅苦しい文面の印象が柔らかくなるのかもしれないが、生憎そういうのは持ってなければ使い方もわからんからどうしようもない。

 恐らく熱を出して寝込んでいるのであろう祈里を呼び出すのは気が引けたが、かといって持ってきた荷物とプリントだけを玄関先に放置してそのまま帰るのも薄情だろう。

 ないとは思うが、誰かに盗まれたら困るだろうしな。特にプリントは。


 そんなことをぼんやりと頭の片隅に浮かべながら祈里からの返事を待っていたが、タイムラインに新しいメッセージがポップアップしたのは、大体十分ぐらい経ってのことだった。


『ごめんなさい、今行きます』


 デフォルメされたウサギが全力疾走しているスタンプが添えられた、祈里からのメッセージ。

 それに「無理はするなよ」と返信を飛ばしてから、俺はスマートフォンをポケットに捩じ込んだ。大して使ってないからバッテリー残量に余裕はあるが、無駄につけっぱなしにしておくのもなんだろうからな。

 そして、待つこと数分。がちゃり、という音を立てて、玄関の鍵が開く。


「……こほっ……お、お待たせ……しました……けほっ……」

「……すまなかったな、呼び出してしまって」

「……い、いえ……くしゅっ……! だいじょぶ、です……」


 どう見ても大丈夫じゃなさそうなんだが。

 額に冷却シートを貼り付けて、可愛らしい薄ピンク色のパジャマに身を包んだ祈里の頬には朱が差していて、目もどこかとろんと熱っぽい。

 元を辿れば祈里自身が起こしたこととはいえ、ここまで這々の体という言葉が似合うような状態で呼び出してしまったのはなんというかこう、本当に申し訳ない。


「……少し上がっても大丈夫か? 嫌なら荷物と今日のプリントだけ置いて帰るが」

「……ぁ、いえ……けほっ……お構い、なく……」

「感謝する」


 このまま帰ってくれと言われたら、素直にスーパーで買ってきた食材の類は今日の晩飯にするつもりだったが、どうやらそうしなくて済みそうだ。

 祈里はふらふらとした足取りで二階まで上がろうとしていたが、正直見ていてあまりにも危なっかしい。

 そんな状態で一階まで呼び出してしまったのは他でもない俺の責任だ、なら責任は取るしかないだろう。


「祈里」

「……は、はい……こほっ……」

「少し体に触れるが、許してくれるか」

「……ぇ、えっと……はい……?」


 階段に差し掛かる前で祈里を呼び止めて、俺は学生鞄とレジ袋を肘の辺りまで通しておく。

 すまない、祈里。少しの間だけ許してくれ。

 そんな風に心の中で謝罪を唱えて湧き起こる罪悪感を無理やり踏み倒す形で、膝と肩に手をかけて祈里を抱き上げる。


「……ひゃぅ……っ……!?」

「ふらついていたからな……すまない、部屋までは送らせてくれ」

「……は、は、ははははい……っ……!」


 びくり、と細い体を震わせて挙動不審になりながらも、祈里は目をきつく瞑って俺の肩に力を込めた。

 いわゆるお姫様抱っこというやつだが、なんというかこう、膝とか腰にくるものがあるな。物理的な意味で。

 決して祈里の体重が重い、というわけではない。むしろプロポーションの割にはかなり軽い方だとは思う。


 単に、力仕事に関してはここ最近全く縁がなかった俺の方がもやしだというだけの話だ。

 階段を一段一段、滑り落ちないよう慎重に上りながら、痛し痒しという言葉の意味を噛み締める。

 あっちを立てればこっちが立たない。筋トレでもしておけばよかったかと思うが、そんな時間があるなら勉強したい、難しい問題だ。


 汗でしっとりと濡れた、華奢で柔らかな祈里の体を抱きかかえているという事実から目を逸らすようにそんなことを考えつつ、なんとか二階まで上り切る。


「……ぁ、あ、あの……こ、九重、君……」

「……どうした、祈里」

「……そ、その……わ、わたし……へ、変な……においとか、しない……ですか……?」


 いっぱい、汗かいちゃったので。

 祈里は熱とは別に顔を真っ赤にしながら、俯いてそう呟く。確かに女子にとってはデリケートな問題だが、正直気にしている余裕がなかったというかなんというか。

 改めて嗅いで確認するような真似なんて、それこそ言語道断だろう。確かにパジャマにも汗が染みているのは感じるが。


「……いや、気になるほどじゃない」

「……で、でも……」

「熱が出たときに汗をかくなんて生理現象だ、気にしない方がいい」


 それでも釈然としないのはわかるつもりだがな。

 口ごもりながらもにょもにょと何事かを呟く祈里を今は一刻も早く部屋まで送り届けないと、俺の腕と足腰がもたん。

 少しだけ早足気味に歩いて、いつか来たときと同じ部屋の前で抱きかかえていた祈里をそっと下ろす。


「……ぁ、ありがとう……ございます……こほっ……」

「無理はするな、拗らせると大変だからな」

「……は、はい……けほっ……」


 しかし、こうして見ていると本当につらそうだ。咳き込みながら部屋のドアを開けた祈里はふらふらとそのままベッドに吸い寄せられて、ぼふっ、と布団に身を投げ出した。

 放っておくと布団を被る前にそのまま寝てしまいそうだったから、一旦レジ袋と学生鞄を部屋の脇に追いやって、俺はもう一度祈里を抱きかかえる。

 そして、ベッドに寝かせた上で布団をかけ直す。これでとりあえずは心配ないだろう。


「……ぁ、ありがとう……ござい、ます……」

「……気にするな、それよりなにか必要なものはあるか?」


 俺の問いかけに、祈里はしばらく迷ったような様子で細い眉を八の字に曲げたが、やがて決心がついたようで、小さく頷くと口を開いた。


「……ぇ、えっと……そ、その……冷却シートの替えと……そ、その……タオル、を……」

「わかった、タオルはどこにある?」

「……ぇ、えっと……お母さんが、置いていってくれたのが……そこ、に……」


 枕の脇を指差して、祈里は気恥ずかしげに布団を目深に被る。確かにそこには、淡いピンク色をしたタオルが置かれていた。

 冷却シートはともかく、タオルを持ってきてほしいというのは、つまりそういうことだと見ていいのだろう。

 流石にそこまでは俺も手伝える領域じゃないから、祈里に任せることになるが。


「わかった、ゼリー飲料なら……今持ってくる。レジ袋に入ってるから好きなのを飲んでくれ」

「……ぁ、は、はい……ありがとう、ござい……ます……こほっ……」

「その様子だと昼飯も食べてないんだろう、風邪薬を飲むためにも、なにか胃に入れておいた方がいい」


 俺は一旦部屋の隅に追いやっていたレジ袋の中身をいくつか取り出して、タオルと交換する形で枕の脇に置いた。

 味の類はわからんから、とりあえず体によさそうな成分が入っている……のかもしれないパッケージの表記を信じて買ってきたものだ。

 マルチビタミンと書いてあるから、多分栄養素は揃っているのだろう。こればかりはメーカーを信じる他にないが。


 そんな、益体もないことを考えながら俺は一階に向けて歩き出す。

 やるべきことは二つだが、まずは祈里の要望に応えて、濡れタオルと冷却シートの替えを持っていかなければならない。

 こっちの要件はそのあとだ。タオルと、取り出したレジ袋の中身のうち、卵と小ネギを片手に、俺は階段を下るのだった。

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