第45話 ブレザーお返しします

 部室棟こと旧校舎の空き教室を見つけるのには、それほど苦労しなかった。

 鍵も開いたままで、本当にそれでいいのかと我が校のザルなセキュリティが心配になってくるが、別に俺が心配したところで改善されるわけでもない。

 生徒会への意見箱とかに入れておけば、上に話が行くのかもしれないが、「旧校舎の空き教室や屋上は誰でも使える」という暗黙の了解を壊してしまうのにも抵抗がある。


 だったら、現状維持を選んで静観するしかない。釈然としないが、俺たちもその恩恵を受けている以上、共犯者みたいなものだ。

 つまるところ、告発する資格がない。

 そういうことで俺は自分を納得させた。それが欺瞞だとわかっていても。


「椅子と机は問題なく使えそうだな」

「……は、はい……そうです、ね……」

「ならちょうどいい。少し借りるか」


 うだうだと考えても仕方がない以上、思考をそこで打ち切るとしよう。

 そんな具合に祈里と言葉を交わすと、俺は空き教室の後ろに追いやられている、いくつかの机と椅子から二つを見繕って真ん中に移動させる。

 部屋の空気は定期的に掃除していないせいで多少埃っぽいが、気になるほどでもない。そのはずだったが。


「……くしゅっ……!」

「すまない、埃っぽかったか?」


 机を動かすときに埃が舞ったせいか、祈里が小さくくしゃみをする。

 今回ばかりは仕方ないとしても、今度は雑巾か新聞紙でも持ってくるべきだろうか。

 そう思案する俺に、あわあわと身振り手振りを交えて祈里は言う。


「……だ、大丈夫……です……! へくちっ……!」

「……大丈夫じゃなさそうだが」

「……へ、平気、です……っ……! 九重君と、い……一緒に、お勉強……したい、ですから……」


 そこまで楽しみにしてくれているのは俺としてもありがたい限りなのだが、あまり集中できない環境で勉強をしても、内容が頭に入ってこないのも確かだ。

 祈里の熱意は大事にしてやりたいところだが、今日は少しだけ早めに切り上げようと、心の中でそう決めた。

 空き教室の真ん中に置いた二つの机に問題集が一つ、ノートが二つ。俺たちは向かい合う形で、いつものように勉強を始める。


 勉強会といっても、俺たちのそれは授業形式でやるとかじゃない。淡々と問題を解いて、わからないところがあれば主に祈里が俺に訊いて、というだけのものだ。

 それに、打倒白雪希美のためにここ最近は国語に注力していたが、最初の方は満遍なく勉強していたのもあって、祈里の学力は最初とは比べものにならないほど上がっている。

 かりかりと、シャーペンがノートをなぞる音だけが空き教室に響く。図書室ほどじゃないが、案外居心地は悪くない。


「……こ、九重君……」

「どこかわからないところでもあったか?」

「……い、いえ……そういう、わけでは……」


 不意に祈里が話しかけてきたのは、頭の片隅にそんな呑気なことを浮かべて問題を解いていたときのことだった。

 いつも通りの質問かと思いきや、本人曰く別な要件らしい。

 俺としては世間話でも雑談でもなんでも構わなかったが、どうやら話は違うようだ。


「……ん……っ……」


 祈里は言葉に詰まると、ごそごそと衣擦れの音を立てながら、着ていたブレザーを不意に脱ぎ始めた。

 暑いのか。いや、それにしてもなにを。

 いきなり服を脱ぎ始めるという奇行に走った友達の姿に俺は面食らって、鳩が豆鉄砲どころか大砲をぶち込まれたように呆然とそれを見ていることしかできなかった。


 ブレザーを脱ぐと、半袖のワイシャツにプリーツスカートという夏服の装いになった祈里の姿があらわになる。

 別にやましいことを考えているわけじゃないが、出るところは出ているのに細い祈里の腕が、やけに艶めかしく見えた。

 ええい、消滅しろ煩悩が。気づかれないように手の甲へぐりぐりとシャーペンを突き立てながら、俺は祈里が起こす次の行動を注視する。


「……ぁ、ぇ……えっと……ぶ、ブレザーを……」

「ブレザーがどうかしたのか?」

「……その、お、お返し……しようと、思って……」


 ああ、そういうことか。

 そういえば朝方、雨が降っているというのに傘も差さないで濡れ鼠になっていた祈里に、ブレザーを被せてそれっきりだったな。

 ようやく自分がワイシャツ一枚だったことに気づいて、俺は安堵する。杞憂というか、勘違いで済んでくれてなによりだ。


「……ど、どうぞ……へ、変なにおいとかしたら……ごめんなさい……」

「しないと思うが……」


 実際、祈里が丁寧に畳んで渡してくれたブレザーからはほんのりと甘い香りが漂っているだけで、変な匂いは感じられない。

 むしろ、今の今まで自分の制服を祈里に貸していたという方が申し訳なくなってくるというか、逆に俺の方がそれを気にすべきなんじゃないかと思えてくるぐらいだ。

 微かに残された祈里の体温に生々しさを感じつつも、俺は渡されたブレザーに袖を通す。


「へくちっ……!」

「大丈夫か?」

「……は、はい……くしゅ……っ……!」


 その間にも、祈里は可愛らしいくしゃみを繰り返していた。ハウスダストアレルギーとかだろうか。

 もしくは風邪でも引いたか……いや、今朝のことを思い返せば、そっちの方が可能性としては高いだろう。

 どっちにしたって、このまま勉強が続けられるような状況じゃない。


「……よし、今日はここまでにしておこう」

「……わ、わたしなら……大丈夫、です……へくしゅっ……!」

「大丈夫じゃないだろう。俺との時間を大事にしてくれているのはありがたいが、無理をしたって体に毒だ」


 さっさと切り上げて帰った方がいいだろう。

 埃っぽさに耐えかねているだけならともかく、風邪だったら特にな。

 俺は祈里にそう切り出して、ノートや筆記用具を学生鞄の中にしまい込んでいく。窓の外を見れば、雨はまだしとしとと降り続いていて、帰りも傘が必要だな、と嘆息する。


「……祈里、帰りは俺の傘を使うか?」

「……い、いえ……その……九重君に、悪い……です……」

「そうはいってもな、風邪かもしれないんだ。これ以上雨に濡れるのも」

「……な、なら……せ、せめて……一緒に……一緒に、傘に入る……なら……」


 ふむ。雨の勢いは朝ほどではないし、駅に行けばコンビニにビニール傘ぐらいは売っているだろう。

 なら、帰り道の心配はないな。

 俺は祈里の提案を受け入れる形で首を縦に振る。


「……わかった、そうしよう」

「……あ、ありがとうございます……えへ……」


 祈里としては実益も兼ねてというところなんだろうか。

 相合傘なら帰りにもできただろうに、後先を考えないで家を飛び出すのは、色々と突飛な祈里らしいといえばらしいが。

 心なしか嬉しそうにそわそわしてはくしゃみをしている祈里に、これは本格的に風邪だな、と確信を抱きながら、俺は空き教室をあとにする。


 本当なら机と椅子を片付けなきゃならんのだろうが、生憎今は緊急事態だ。

 清掃担当の人……はこれだけ埃っぽかったから入ってないんだろう。なら、巡回の教師だとか警備員も同じだと見ていい。

 つまり次来たときに片付ければいいんだと自分へ言い聞かせて、俺は祈里と手を繋いで校舎の玄関へと走った。


 道中で新聞部に見つからなかったのは幸いだった。こんなときにインタビューなんて受けていられないからな。

 とにかく一刻も早く、祈里を家に帰そう。

 その一心で、ローファーに履き替えて傘を広げた俺は雨の中、駆け足気味に駅まで向かって急ぐ。


「……ご、ごめんなさい……へくちゅっ……!」

「……仕方ないだろう」

「……くしゅっ……! えっと、その……」

「過ぎたことは変えられないんだ、後悔するより安静にして寝た方がいい」

「……九重君は……へくちっ……! やっぱり、や……優しい、です……」


 祈里はしょんぼりとした様子でうなだれるが、昔から後悔先に立たずといってな。それなら悔やむよりも今起きていることを見た方が堅実で賢明だ。

 風邪を引いたのは仕方ない。なら、拗らせないようにさっさと帰って病院に行く……のは時間的に厳しいから、薬を飲んで寝た方がいい。

 優しいというよりはどこまでも打算的な考え方だとは思うが、捉え方なんてものは人それぞれだ。祈里がそう思うなら、そうであってくれればいいと、少しだけそんなことを思う。


「……体を大事にな、祈里」


 例えただの風邪であったとしても、拗れれば面倒だし、熱でも出した日には相当つらいだろう。

 その苦痛を肩代わりすることはできない以上、俺にできるのはただ願うことだけだ。

 いつか味わった無力の片鱗が脳裏に浮かび上がってくるのを感じながら、俺はぽつりと呟いた。


 雨はまだ、上がらなかった。

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