第二部「白雪希美は挑戦したい」

第41話 なんて晴れやかだ

「行ってきます」


 いつも通り、玄関で挨拶をして外に出る。

 天気予報は嘘をつく暇もなく、梅雨を迎えようとしている空模様はこの前から雨続きだ。

 鍵を閉めて、大きめの傘を持って、家を出る。なにも変わらない、俺の日常がそこにあった。


 ──だが。

 少しだけ眠気が残る頭を左右に振って睡魔の抵抗を振り払い、駅まで続く道を歩く。

 三年間、変わり映えすることもないのだろうと思っていた、コンクリートの舗装と同じ色をした毎日が、嵐のように、映画のように……とまではいわなくたって、少しだけ変わったことは事実だ。


 人生というのは、本当になにがあるのかわからない。

 よくも悪くも、な。

 そんな、なんの益体もないことを考えながら、一つだけあとの駅に向かうための電車に乗り込む。その間にも、単語帳を復習することは忘れない。


 ここ最近は色々とありすぎたのと、自分の中でも余裕がなくなっていたのもあって、単語帳を見るのは久しぶりだった。

 表面には見慣れた英単語、裏面にはその意味。全て漏れなく英和辞典から引っ張ってきた自作のそれは、何回読み返してきたかわからない。

 だが、人間というのは忘れる生き物だ。いつ基礎が抜け落ちて手痛いミスを犯すかと思うと気が気でない以上、日頃からの予習復習はやっておくに越したことはないだろう。


 次の駅まで大体五分かそこらで電車は到着するが、その五分を三年間勉強に費やせば、馬鹿にできない時間になる。

 何事も日々の積み重ねが全てだというように、塵も積もれば山となるの精神は大事だ──といいつつ、俺も隣町の駅に着いたらスマートフォンを見ることが習慣になりつつあるんだがな。

 メッセージアプリを起動して、タイムラインを眺める。一ヶ月前の俺からは考えられないような行動だ。


「もうすぐです、か」


 薄らぼんやりと手すりにもたれかかっていると、白雪改め、祈里からの簡素なメッセージとスタンプがタイムラインにポップアップしてくる。

 祈里は今頃雨に濡れていないだろうか。流石に傘ぐらいは持っていると思いたいが。

 そういえば、漫画の感想戦と業務連絡じみたこのやり取り以外でメッセージアプリを使った記憶があまりないな──などと呑気に思っていたときだった。


「……こ、九重、君……お、お待たせ……しました……っ……!」


 一体どうした。

 あるいは傘でも盗まれたのか。そう口に出したくなる程度には濡れ鼠になった白雪が、肩で息をしながら駅までぱたぱたと走ってくる様子が目に映る。

 祈里も、速く走れば雨には当たらないんだとかそんな小学生レベルの言い訳をしたいわけじゃないだろう。なら、なんで濡れ鼠になっているんだという話だが。


「……その、なんだ。まず、状況を説明してくれるか」

「……か、傘を……忘れ……ました……えへ……」

「嘘だな?」


 濡れた亜麻色の髪にぺし、と軽くチョップを落として俺はそう言った。

 朴念仁の自覚はあるが、それぐらいはわかるつもりだ。

 それともあれだ、まさか祈里、わざと傘を持ってこなかったとでもいうつもりか?


「……ぇ、ぁ……は、はい……嘘、です……」

「なんで梅雨だってのに傘も持たずに外に出たんだ」


 雨の中、傘を差さずに踊る人間がいてもいいのが自由だとかなんだとか誰かが言っていたし、正論だとは思う。

 しかしだな、普通は雨の中でずぶ濡れになりながら踊っているやつを見たら即座に距離を取るだろうよ。

 誰だってそうする、俺だってそうする。問題はそれに近いことをやるのがまさかの身内、友達だったということだが。


「……ぇ、えっと……そ、その……わたし……」

「……」

「……こ、九重君と……相合傘、してみたくて……傘、忘れたら……して、くれるかなって……」


 目的と手段が逆転していないか、それは。

 普通は相合傘なんてのは傘を忘れたから仕方なくするものであって、そのためにわざと傘を置いてきてずぶ濡れになるのは本末転倒もいいところだぞ。

 せめて折り畳み傘でも持ってきて、駅の前で畳んでおくとか、そういうやり方もあっただろう。それをしないしできないのが祈里らしいといえばらしいのはまた確かでもあるんだが。


 それに、だ。

 なにとはいわないが濡れた白いブラウスから透けてるんだよな。レースがついたピンク色のが。

 俺は黙ってブレザーの上を脱いで、祈里を覆い隠すように被せる。祈里も、他人から好奇の目で見られたくはあるまい。


「……ぇ、ぁ……こ、九重、君……?」

「……貸しとか借りとかは考えなくていい」


 冬服を着てきて助かった。

 ここ最近は暑いからという理由で衣替えを待たずにブレザーの上を抜いだりする生徒が増えていたが、俺は面倒だから……というのもあれば、決まりは守りたいからそのままだった。

 そんな意地にも似た、他人からすれば至極どうでもいいこだわりが役に立つのだから、奇妙なこともあるものだと、心底そう思う。


「……こ、九重、君の……う、うわ……上、着……えへ……」

「風邪をひかないうちに急ぐぞ、祈里」

「……は、はい……っ……!」


 なぜかはわからないが、俺の上着を被せられて容疑者スタイルになっている祈里はご満悦な様子だった。

 これが乙女心というやつなのだろうか。

 だとしたら、俺は十年かけてもそれを理解できる気がしない。


 容疑者を連行する警察のように祈里の手を引いて、俺は駅のホームまでの階段を降りる。

 多分ブレザーで覆われているから周りには見えていないはずだ。

 気にしすぎだといわれればそこまでかもしれないが、自分の友達がやましい目で見られていたら普通に嫌だろう。少なくとも俺はそう思う。


「……こ、九重君、は……」

「なんだ」

「……やっぱり、優しい……です……」


 優しい、か。

 フードのように覆い被さったブレザーの下で祈里が頬を赤く染めながらはにかむ。

 優しいと最後にいわれたのはいつだったか、もはや思い出せない程度にはそんな言葉と縁がなかったが、祈里の目に、俺はそう映っているのだろう。


 当たり前だが、視界が違えば見るものも違う。物理的な意味でも、心理的な意味でも。

 俺は自分のことを優しい人間だとは思っていない。当たり前のことがただ当たり前であってほしいとは思っているが、それだけだ。

 その想いに背くようなことはしたくないと思って行動しているつもりではあっても、それだって完全じゃない。


 などと思いを巡らせていたら、完璧なもの以外を認めない人生なんて苦しいだけだと、中学の頃、三木谷に呆れられた記憶がふと蘇る。

 そういう意味じゃ俺は、視界が狭い人間なんだろう。

 祈里に言われたその言葉も、受け止め方次第でどうとでも変わってくる。それなら、少しはポジティブに捉えてもいいのかもしれないな。


「……ありがとう、祈里」

「……ぇ……えっと……わたし、なにか……?」

「いや、なんでもない。ただ、言いたくなっただけだ」


 照れ臭さを誤魔化すようにそう呟いて、到着した高校までの最寄り駅、そのホームに足を踏み出す。

 そうして祈里と手を繋いだまま駅を出れば、やはりというかなんというか、鉛色に染まった空模様が変わることはなく、雨がしとしとと降り続いていた。

 ちらりと横目で祈里の様子を伺えば、なにかを期待しているように、丸く大きな瞳をきらきらと輝かせている。そうだな、そうするしかないよな、この状況は。


「行こうか、祈里。なるべく雨に当たるなよ」

「……は、はい……っ……えへ……こ、九重君に……くっついて、いき……ます……っ……!」

「……ああ」


 祈里はやけに嬉しそうな様子で左腕に強くしがみついてくるが、やっていることはいつもとあまり変わらない。

 左腕にあたたかく柔らかい感触が強く押し付けられるのにも慣れてきた……わけではないが、すっかりそこが祈里の定位置になっているのは確かなことだった。

 雨の中、傘を差さずに踊る人間がいてもいいとかいないとか、今朝方考えていた誰かの言葉を思い返しながら通学路を歩く。


 いつもと同じでありながら、いつもと少し変わった道を。

 なんなら俺も傘を放り投げて、歌でも歌えば自由を謳歌できるのだろうか。

 などと、一瞬なんの役にも立たないことを考えたが、そんなことをしたって俺と祈里が風邪をひくだけだろう。


「……えへ……九重君……」


 それに、空が雨模様でも、祈里の笑顔は晴れやかだ。

 初めての相合傘にご満悦な様子の祈里を見ていると、なんだか俺の方も癒されたような、そんな気分になってくるから不思議だった。

 ああ、空の鉛色を押しのけるようなその笑顔に絆されていたんだな、俺は。


 そんな気づきをポケットへとしまい込むように仏頂面を装って、俺は、祈里と共に歩調を合わせて、高校への道をゆっくりと歩いていくのだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る