第40話 「白雪祈里」
白雪希美に白雪祈里が一科目だけ、中間テストの点数で勝利したことで得られたものはなにか。
そんな問いに対しての解を、生憎俺は持ち合わせていない。白雪当人じゃないからな。
なら、この戦いの裏で手伝いをしていた俺が得られたものはなにか。
いってしまえば、そんなものはないんだろう。
俺はただ、名誉も栄光も実利もなにもない、ただ酔狂と呼ばれても仕方のないような賭けに打って出ただけだからな。
だからといって、後悔はしていない。白雪の力になれたことは嬉しかったし、勉強を教える側になって初めてわかったことだってある。
だが、結局のところ、勝利を掴んだのは決して諦めなかった白雪自身の力に他ならない。
俺の教え方が天才のそれだったからとか、誰でも真似できる成り上がりのメソッドをなぞったからだとか、そんなことは断じてないのだ。というか、後者みたいな方法論があるなら逆に教えてほしいぐらいだ。
むしろ、俺は教師だとか家庭教師だとか、なんでもいいが他人にものを教えるのには向いていないタイプだと、つくづく実感させられたよ。
いつも通りの朝、白雪を迎えにいくために、入学当初乗っていたのより一本早い電車に乗って、隣の駅で一度降りる。
国語の中間試験が阿鼻叫喚だったこともあって、同じ高校の制服を着た連中の、戸村だか野々村だか、そんな名前の国語教師に対する怨嗟の声が通りすがりに聞こえてきた。
まあ、なんだ。気持ちはわかる。
満点を取っておいてなんだと逆上されかねないから口には出さないが、元々俺も好き好んで勉強するタイプじゃあなかったんだ。
だから、難しいテストは嫌いだったし、全国共通の学力調査なんてなんのためにやってるのかわからないと教師の前で豪語さえしていた苦い思い出がある。
それでも、唯一擁護できるところがあるとするなら、戸村だか木村は明確に大学受験を意識した問題を出してきた、ということだ。
物事を始めるタイミングに遅いも早いもない。
だが、続ける時間の長さは明確な差になって現れてくる以上、一年生の今から大学受験に備えておけ、というのは的を射ている。そういう意味じゃ、あの国語教師はむしろ生徒思いなのだろう。
まあ、やつが噂通り、生徒たちがもがき苦しむ姿から精気を得ている邪悪な存在でなければの話だがな。
そんな、なんの益体もないことを考えながらぼんやりと壁にもたれて、俺は白雪を待つ。
メッセージアプリのタイムラインには「おはようございます、今お家を出ました」という文章が浮かんでいる以上、そう遅くはなるまい。
スマートフォンをポケットに捩じ込んで、再び考える。俺はなんのために、なんの利益にも栄誉にも繋がらないことをやっていたのかと。
だが、その答えは決まっていた。
そして、きっと何万回この世をやり直したって変わることはないのだろう。
ぱたぱたと、ローファーの靴底が駅のタイル床を叩く音を聞きながら、俺はその方向を振り返る。
「……ご、ごめん……なさい……、お、お待たせしました、か……?」
「いや、五分ぐらい前に着いたばかりだ」
「……な、なら……よかった、です」
案の定というかなんというか、走ってきたせいもあって、白雪は肩で息をしていた。
そこまで急がなくてもいいんだがな、とは思うが、白雪なりに急ぎたい理由だとか、そういうものがあるからわざわざ走ってきたんだろう。
だったら、それにツッコミを入れるのは野暮というものだ。それぐらいは俺にもわかる。
「……そ、それじゃあ……えっと……」
「手だな」
「……は、はい……えへ」
白雪の細くしなやかな指と、俺のごつごつと骨ばったそれを絡めて歩くのにももう慣れた。
季節は梅雨を迎えようとしているのに、嫌になるほどの初夏の香りを残したままだ。
もし俺の手汗が滲んでいたら嫌だな、と、そう思うし、少しだけ緊張もする。夏なんて季節は、始まりだろうが残ろうが、いつだってろくでもない。
そんな心配をしている俺をよそに、えへえへとご満悦な白雪だったが、それはもう嬉しいことだろうな。
長年のコンプレックスだった白雪希美に一科目かつ、相手が苦手そうなものに特化して決め打ちをしたという半ば盤外戦術に近いことをしてきたものの、勝利は勝利だ。
美酒は法律の都合で飲めないにしたって、昨日の晩飯はきっと格別な味わいだったに違いあるまい。俺だって、少なからず嬉しかったんだからな。
通学電車では相変わらず俺が盾になるような形で、白雪を壁と俺の体で挟み込んでいた。
カーブを曲がったり、急ブレーキをかけられたとき、白雪の豊満な胸が押しつけられる柔らかい感触にはまだ慣れない。
煩悩を滅却するため、一度寺でも行った方がいいんだろうか。いやでも座禅とか組めないしな、どうしたもんか。
「……こ、九重、君……!」
白雪が不意に手を解いて、俺の前でくるりと一回転したのは、割と真剣に寺行きを検討しながら、高校の正門まで辿り着いたときだった。
むずむずと体を震わせながら、白雪は控えめな、蕾が綻ぶのにも似ているような笑顔を浮かべる。
そんなに嬉しかったのか。なら俺も幸いだ、と、自然に口元が緩む。両腕で胸を挟み込みながらもじもじしているのはその、なんだ。少しばかりというか大分目に毒だが。
「どうした、白雪」
「そ、その……えっと……わ、わたし……お姉ちゃんに……勝ち、ました……!」
「ああ」
「……だ、だから……その……ご、ご褒美……約束してた、ご褒美を……もらって、いいです、か……?」
そうだったな。確かに約束していた。
この中間試験でもしも白雪が姉に勝つことができたのなら、なんでも一つ、言うことを聞くと。
それが例え高級品の鞄だとか、アクセサリーを買ってくれというものであったとしても、今すぐには実現できないかもしれないが、三年間をかけてでも用意するつもりでいる。例えどんな無茶振りでも、約束したからには必ず実現させるのが道理だからな。
「構わない。白雪はなにが欲しい? 俺に、なにを望むんだ?」
俺からの問いかけに、白雪はむずむずしながらすーはーと小さく呼吸を整えると、意を決したように口火を切った。
「……そ、その……な、名前……っ……!」
「名前?」
「……は、はい……えっと……名前、で……その……わたしのこと……『祈里』って、呼んでくれます、か……?」
名前、か。白雪の口からその言葉が出てきてようやく気づいたが、確かに苗字だと希美の方と紛らわしいな。
今までは白雪希美と大して接点がなかったから気にもしていなかったが、こうして接点ができてからだと、色々不便なのは確かだ。
それに、だ。白雪の中でどんな意図があってその願いを口にしたのかはわからないが、約束は約束だ、だから。
「……わかった。その、なんだ……祈里」
「……っ、はい……! わ、わたし、祈里です……っ……! 九重君の、お友達の……祈里、です……! えへ……」
白雪改め、祈里は随分と上機嫌そうにはにかんで、俺が呼んだ自分の名前を噛み締めるようにそう言った。
そうだな、祈里は。
白雪祈里は、俺の友達だ。なにがあっても、祈里が俺を拒絶しない限りは、ずっとそのつもりでいる。
「行こうか……祈里」
「……は、はい……っ……! 九重、君……!」
この中間試験での戦いで、俺は実利も栄光も手にしていないといったが、すまない。あれは嘘だった。嘘になってしまった。
この手には、確かに繋いだ温もりがある。
少しだけ昨日と変わったいつもの道を、いつも通りに祈里が俺の腕にしがみついて歩く。
誰にとっても、俺にとっても見慣れた光景だ。しかし。
「えへ……九重君……」
「……色々当たってるんだが、祈里?」
「……えへ……わたし、九重君なら……その……いい、ですよ……?」
俺の方が色々とよくないんだが。
距離感のバグっている祈里も相変わらずだが、少しだけ、ほんの少しだけ俺たちを取り巻く関係が変わったことで、その仕草も新鮮なものに感じられる。
白雪祈里は証明した。きっとその事実が、灰色だった俺の今日を少しだけ変えた、全ての種と仕掛けなのだろう。
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