第39話 満点の笑顔で

「あー、なんだ。この前の中間テストの結果だが、全体として非常に悪かったと言わざるを得ない」


 俺と白雪にとっては、ある種運命の日となる答案の返却日。

 壇上に立つ国語教師は気だるげな態度を隠そうともせず、そしてあれだけ意地の悪い問題を作ったことを悪びれもせず、そんなことを宣っていた。

 遊べるうちに遊んでおくのも学生の特権だが、共通テストや大学入試を考えてるなら今から取り組んでおいた方がいいぞ、と、戸村だか山村だかはもっともらしい正論を口にしているが、一体教室にいる何割の生徒がそのありがたいお言葉を素直に頂戴していることか。


 むしろ弱り目に祟り目、これからその「全体的に悪かった」テストを返却されるというのに、その前から正論パンチを喰らったら、逆ギレの一つもしたくなるのはわかる。

 古来、正論というのは正しいからそう呼ばれているのだが、正しさだけが人を救うとは限らない。

 感情に振り切れすぎてもいいことはないが、そもそも怒りの火種を作った本人が平然とした顔でガソリンをぶちまけているようなものなんだから、クラスメイトたちの殺意は鰻登りだ。


 学食・購買戦争に向かう生徒たちだってもう少しマシな目をしているんじゃないかと思いたくなる剣呑な空気の中、国語教師はそれを気にした様子もなく、教卓の下に置いていたのであろう答案の束を机に乗せる。


「それでだな、あー……全体的に平均点が低かった今回の中間テストだが、満点を取ったのが二人だけいる」


 誰だったかな、と呟いた国語教師は、ぱらぱらと答案をめくりながら首を傾げた。

 二人しかいないのに覚えていないのかよ、と返したくなるのを堪えているのはどうやらクラスメイトの総意らしく、ぱらぱらと答案をめくっている戸村……で合ってるよな? に注がれる視線が沸騰する。

 だが、その中には怒りだけじゃなく、純粋な興味を持ったものも含まれていた。人間はなんだかんだで、いいことに立ち会えば「もしかしたら自分かもしれない」と思いたがるからな。


「ああ、そうだった。まず、九重京介。おめでとう、満点だ」

「……ありがとうございます」


 あなたの思考回路を参考にして模擬テストを作っていた成果です。

 なんて返した日には即座に赤点をつけられるか、評定を微妙に下げるタイプの嫌がらせをされそうだったから、俺はあえて口をつぐむ。

 さて、一人が俺である確率は高いと踏んでいたからここまでは予想通りだとして、問題はもう一人だ。


 それが白雪希美であったなら、この戦いはゲームセットなのは自明の理だろう。

 例え白雪が九十八点ないし九十九点を取っていたとしても、満点の二枠うち一つを俺が占領している限り、どうやっても引き分けには持ち込めない。

 まあ、もしかしたら白雪希美でも白雪でもなく、謎の第三者が……それこそ三木谷辺りが百点を掻っ攫っていてもおかしくはないのだが。


 なんだかんだ、俺も自分のことのように緊張する。白雪がここまで頑張ってきたのなら、報われてほしい──例えそれが、奇跡と呼べるほどの偶然であったとしても。


「それと……白雪」


 頼む。願うように、乞うように目を伏せる。

 どうか、続く名前が、祈里であってくれ。

 どこまでも一秒が薄く、長く引き伸ばされていくような錯覚。気だるげに国語教師が答案を読み上げるのが、やけにスローモーションに感じられた。


「白雪祈里だ、おめでとう。あー、一組から満点が二人も出たのは喜ばしいことだし、期末でも手を抜かずに頑張ってくれ。それじゃあ出席番号順に答案返却してくぞー」


 ──やった。

 俺が即座に教室の隅っこを振り向けば、そこに座っていた白雪は、半ば呆然とした様子で佇んでいる。

 恐らく、自分が満点を取ったのが信じられないんだろう。だがこれは、夢でもなんでもない。


 事実だ。覆ることもなければ、変わることもない純然たる事柄。

 それを人は事実と呼んでいるのだ。だから、白雪。

 白雪は、白雪祈里は勝ったんだ。他でもない自分自身の力で、白雪希美にな。


 親指を立てた俺に、白雪はきょろきょろと周囲へと視線を巡らせてからおずおずと目を合わせて、小さく頷いてみせる。

 その眦には涙の粒が滲んでいたが、それは決して昨日までのものと同じじゃない。

 悲しさや悔しさとは無縁の、純粋な喜びが、白雪に涙を流させていた。まるで、それこそ奇跡に立ち会った、敬虔な信徒のように。


 信じる者は救われるのか、俺には決してわからない。信じていたって足元を掬われることはあっても、救われたと思うことなんてない半生を送ってくればそうもなるだろう。

 それでも、今この瞬間だけは神様とやらを信じてやってもいい、という気持ちになったが……よくよく考えれば、単に浮かれているだけだな。

 この勝利を掴み取ったのは神様の手じゃない。人間の、白雪の手に他ならないのだから。




◇◆◇




「三木谷君から聞いたよ、九重君」


 まだ勝利の余韻も冷めない昼休み、水分補給のため、廊下に出た俺を待っていたかのように、白雪希美は水道場に佇んでいた。

 あの野郎、と一瞬思ったが、遅かれ早かれ一組から満点が二人出たという事実は誰かが流すだろう。たまたま今回が三木谷だっただけだ。

 白雪希美はくるくると、人差し指に自分の髪の毛を絡めながら、相変わらず底が見えない、チェシャ猫のような笑みを浮かべて語る。


「今回の中間テストで満点だったんだってね」

「……そうだな、俺だけじゃないが」

「うん、知ってる。祈里が満点だったんでしょ? ふふ……驚いちゃったなぁ、祈里がまさか満点なんて。ねえ、これもキミのおかげ?」


 白雪希美は、心底不思議そうに小首を傾げてそう問いかけてきた。

 どうだろうな。俺が白雪に協力したことは、それが満点を取った一因になったのは確かかもしれない。

 だが、道筋が厳しすぎたのもまた確かで、それでも、一度折れかけても歯を食いしばって立ち上がったのは、そして結果を出したのは俺の力じゃない。他でもない、白雪自身の力だ。


「いや、違う。これは白雪の力だ。そうだろう、白雪」

「……ぁ、ぇ……えっと……」


 どことなく剣呑な空気を漂わせている俺と白雪希美の様子を、物陰に隠れて伺っていたのだろう。

 背中に感じた視線が白雪のそれであることは疑いもせず、俺はそう呼びかけた。

 おずおずと歩み出てきた白雪は、背筋を丸めて俺の背後に隠れながらも、こくこくと小さく首を縦に振る。


「……ぇ、ぁ……そ、その……わた、し……がんばった……がんばったんだ、よ……お姉、ちゃん……」

「そっか。祈里が頑張ったからかぁ……そうだね、どんなに勉強教わっても、百点取れない人なんていっぱいいるし」


 とん、と水道台の縁に腰掛けていた白雪希美は立ち上がると、スカートの裾を手で払いながら、小さく笑う。

 一見いつも通りで、その余裕が崩れた様子には見えなかったが、それでも俺はどこか、白雪希美のつま先に、苛立ちであるとか、悔しさであるとか、そういったものを感じていた。

 それはたった一科目だけの敗北かもしれない。事実、四限までに返却された白雪の答案の中で際立った成績を誇っていたのは、国語だけだったのだから。


 だが、たかが一科目、されど一科目だ。

 白雪希美に、白雪祈里は勝利した。

 俺の手は借りたかもしれないが、それでも自分自身の手で、努力を積み重ねて。その事実が揺らぐことはない。


「おめでとう、祈里」

「……お姉、ちゃん……」

「……次は負けるつもり、ないからね」


 楚々とした笑みを浮かべながらも、そこに悔しさが滲んでいたのは、性格が悪いかもしれないが……そうだな、紛れもなく勝利の証だ。

 ルールに則った勝負に敗れた時点で、どんな文句を言おうが負け惜しみなのだから。

 白雪希美もわかっているからこそ、それ以上、白雪に対してはなにも言わなかったのだろう。


「それと、九重君」

「なんだ」

「キミは私が思ってたよりずっとユニーク……ううん、まっすぐだね」


 じゃあね、と笑って白雪希美は去っていく。

 俺自身がまっすぐに生きているかどうかは全くもってわからん、というか相当に捻くれている側だろう。変に言い訳をしない白雪希美もなんだかんだで捻くれてはいないのだろうとも思うが、どうなんだろうな。


 どっちだっていい、か。

 今は、ただ。

 喜ぶべきときに、水を差すようなことは考えるべきじゃない。素直に、祝おうじゃないか。


「……よかったな、白雪」

「……は、はい……わ、わた……わたし……お姉ちゃん、に……」


 ぽろぽろと涙をこぼして俺の胸板に顔を埋める白雪を抱き止めながら、俺はよく頑張ったな、と静かに囁いた。

 これを奇跡と呼ぶべきじゃない。ただ一太刀、純粋な想いが形作った刃がようやく、白雪希美の心臓に届いただけだ。

 だから、白雪。今は泣くべきじゃない、にっこりと、笑うべきなんだよ。


 涙が止まるまで静かに白雪をこの手に抱き寄せながら、俺はただ、その雲が、雨が止むときを待ち続ける。


 ──そうして枯れた涙の果てに、浮かび上がってくるものは。


「えへ……ありがとうございます、九重君……」


 白雪が浮かべた満面の笑みであり、満点の笑顔だった。

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