第36話 同じ穴の狢

 国語一本に科目を絞って白雪希美に勝負を挑むと決めてからは、俺の方も国語教師をエミュレートするように意地の悪い問題を作っては白雪に解かせていたわけだが、やはりというべきか、その点数は下振れていた。

 入試の過去問を参考にした問題をひたすら解かせるという荒療治に近い方法が正しいのかどうかでいえば……どうなんだろうな、正直なところ自信はない。

 俺がやってきたことをなぞらせれば白雪も確実に成功するだろう、なんて楽天的な考えは、当然だが初めから持っちゃいない。ただ、俺が他にスマートな方法を知らないだけだ。


 そういう意味じゃ、人にものを教える才能はないんだろうな。

 闇雲になって、ただひたすら足掻き続けることに意味がないとはいわないし、俺はその不格好で不器用な方法で、なんとか結果を掴み取ってきた。

 だがそれは、その先に明確なゴールが、俺の目指す場所であり、抱いている夢があったからこそ、歯を食いしばって耐えることができたということに他ならない。


 そろそろ問題集のバリエーションも底を尽きかけてきたが、それでも白雪が頑張っているなら、俺もまた、友達としてその努力に応えたい。

 放課後にまでもつれ込むことが恒例になった模擬試験の問題作成が一段落したところで、俺は無人の教室を一望する。

 静かだ。遠くから吹奏楽部の演奏や、野球部やサッカー部といった運動部の声は聞こえてくるが、この空間だけが世界から切り離されたように、不気味なぐらい凪いでいた。

 まるでなにかの予兆のようだ。


 嵐の前の静けさのごとく。そう思うのは、根を詰めすぎているからだろうか。

 空を覆っている灰色の雲は、次第に雨を連れてやってくるだろう。

 傘を持ってきて正解だったな。白雪も今朝は傘を持ってきた様子はなかったが、折り畳み傘ぐらい持っているはずだ。


 現実から目を背けるように、俺は夕方の天気に思いを馳せつつ、教室を出る。

 図書室までの道でまた白雪希美と出会ったりはしないだろうな、と心配していたが、それは杞憂に終わってくれたようだった。

 別に嫌っているわけじゃない。白雪希美のことを好きと嫌いの二軸で評価するには、まだ俺はあいつのことを知らなすぎる。


 ただ、少しばかり苦手意識があるのも確かなことだ。煙に巻かれているような、いつの間にか相手のペースに引きずりこまれているような……そういう相手とは、あまり縁がなかったからな。

 と、いうより、そもそも俺がここ三年間で人付き合いの類を拒んでいるわけじゃないにしても、それに近い状態だったんだから、藤堂曰く「人見知り」呼ばわりされるのも頷ける。

 それに、白雪が抱えているコンプレックスの大半が姉に由来するものである以上、どうしても判官贔屓というか、そういう目で見てしまうのも確かなことだ。


「……それを差し引いても、あの手合いは苦手だがな」


 もやもやとした気持ちを吐き出すように一人で呟く。

 あまりレッテルを貼るような真似はしたくないが、おそらく白雪希美には、天才であるがゆえに、「自分にできることがなぜ他人にできないのかわからない」という節がある。

 初めて図書室で会ったときも、白雪のことを「要領が悪い」と無意識に貶していたのがいい例だろう。


 サーカスの象という、有名な例え話がある。

 非力な子象の頃、足枷を繋がれた象は、成長しても足枷をつけられるとたちまち大人しくなる、という話だ。

 本来なら鎖を引きちぎって暴れることだってできるのに、幼い頃から「この鎖は外れないものだ」という認識が刷り込まれてしまった、学習性無力感──つまるところ、「自分はなにをしても無駄だ」という失敗体験のせいで、本来のポテンシャルを発揮できない状態が、今の白雪に近いと俺は見ている。


 実際、相応に時間をかければ白雪の平均点は上がっていったのがその証明だろう。

 だからこそあと一歩、八十点から九十点はもう通り過ぎたはずだ。

 だからこそ、九十点を百点にする。それでようやく勝負のスタートラインに立てたといえば途方もないが、それでもここまで来れたんだ。


 あと一歩だ、と、そんな思いを胸に図書室の扉を開けていつもの席に向かえば──そこに、白雪の姿は見当たらなかった。


「……白雪?」


 なにか用事でもあったんだろうか。

 それとも、少し休憩がてらに席を外しているのか?

 唖然としながらも俺は、いつものように白雪が残している痕跡……学生鞄が、いつも座っている席の隣にあるかどうかを確認する。


 ない。鞄もなければ、参考書や教科書の類もどこにもない。

 一体どうしたんだ。白雪に、なにかあったのか。

 混乱する思考の手綱をどうにか握り締めて、俺はカウンターで暇そうに本を読んでいた、図書委員の女子生徒に声をかける。


「……すまない、いつもあの席に座っている女子生徒を見なかったか」

「はあ……いや、いつも通りあなたと一緒じゃないんですか?」

「……見ての通りだ。だから探している」

「それなら見てないですね……いつもならあそこに座ってるはずなんですけど。すみませんね」


 図書委員の女子生徒は小さく会釈をして、再び手持ちの文庫本に視線を戻した。

 受付係が見ていないとなると、白雪は最初から図書室に来ていない、と見た方がいいのだろう。文庫本に夢中で見落としていた可能性もなくはないが、それなら白雪の痕跡があの席になかったことの説明がつかない。

 試験まではあと一週間を切っている。ここが正念場なのだ。


 そんな状況で白雪が図書室に来なかった理由を考えれば、それは恐らく。

 諦めたのか、逃げ出したのか。

 そのどちらか、もしくは両方だろう。


 俺は脇目も振らずに図書室を駆け出して、渡り廊下をひた走る。

 白雪を探さなければいけない。だが、どうやって?

 わからない、家に帰ってしまった可能性だってある。それでも、どうにかして話をつけなければ、話を聞かなければ。


 聞いて、どうする?

 自問する。白雪が逃げ出した原因の一端に、ここ最近の詰め込むような勉強があったことは確かだろう。

 俺はなにがなんでも東都大学の門を叩くという目標があったからなんとかやってこれたが、白雪も同じことができるとは限らない。むしろ、文句の一つも言いたいのを無理やり我慢していた可能性だって、十分にあり得る。


「……俺もまた、同じ穴の狢か……!」


 これじゃ、白雪希美のことをとやかく言えたものじゃないな。

 俺も、自分の基準を白雪に押し付けていたのと変わらないのだから。

 だから、話をしたい。白雪ともう一度向き合いたいし、向き合わなければならないんだ。


 祈るように俺は、片っ端から空き教室の扉を開けて、そこに白雪が潜んでいないかを探す。

 気づけば、遠くの空を覆っていたはずの黒雲が近くに迫っている。野球部やサッカー部も、雨が降らない内に早めの撤収を決め込んだらしく、吹奏楽部の合奏以外に聞こえてくるものはない。

 図書室のある旧校舎は部室棟も兼ねているから、空き教室以外にも漫研だとかPC研究部だとか、そういった文化系の部活をやっている連中にも聞き込みをしたが、白雪の行方はわからずじまいだった。


「……帰ったのか? いや……」


 可能性はまだ残されている。

 旧校舎の中で唯一、行っていない場所。

 教師たちからは明確に立ち入りを禁止されているが、生徒たちの間では脈々と合鍵が受け継がれてきたことで事実上出入り自由となっている、屋上。


 そこに、白雪はいるという保証はあるのか。

 わからない。だが、一縷の望みをかけるように俺は立ち入り禁止の看板代わりにビニールテープで繋がれたカラーコーンを跨いで、屋上へ繋がる階段を上る。

 ここにいなければ、家に帰ったと見て間違いはないだろう。


 雨も近い。

 普通ならそうする可能性の方が高いはずだが、どういうわけか俺の中では、屋上に白雪がいるという予感が、一段一段階段を上るごとに、高まっていった。

 そして、若干錆びついて立て付けの悪くなった扉を開ければ、そこにいたのは。


「……っく……ぐすっ……うぇぇぇ……ん……っ……」


 ぽつぽつと降り始めた雨に濡れながら、涙を流している白雪に、他ならなかった。

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