第35話 必勝の方程式

「……すまない、遅くなった」


 果たして図書室のいつもの席で、白雪は自分の隣に鞄を置いて、俺が渡した模擬テストの復習をしていたようだった。

 ここ最近は応用問題を多めに出している……というかほとんどがそうだから点数の方は下がっている。

 それでも今まで反復してきた基礎がなければ、もっと点数が取れなかったのは確かなことだ。白雪の努力は無駄になっていない。


「……い、いえ……そ、その……なにか……あったん、です……か……?」


 ぴくり、と細い肩を震わせた白雪が問いかけてくる。

 なにかあったといえばあったし、なにもなかったといえばなかった。そんな出来事をどう説明したものか。

 だが、白雪希美曰く俺は嘘をつくのが苦手なタイプらしい。実際その自覚はあるし、やましいことをしていたわけじゃないんだから、正直に話せばいいことだろう。


「……少し、白雪希美と会ってな」

「……お、お姉ちゃんと……です、か……?」

「……当たり障りのない会話をした程度だ、特になにかあったわけじゃない」


 あいつの弱点みたいなものは分析できたかもしれないが、白雪が恐れているように、また引き抜きの話だとか、そういうものがあったわけじゃない。

 心配するな、と付け加えて俺は、完成した模擬テストの答案を鞄から取り出す。

 クリアファイルに挟んだ手書きのそれの難易度は大体中間試験から少し上、あの戸村だか田村だか、そんな名前の国語教師が出してきそうな絶妙にいやらしいものを意識している。


「……白雪に伝えたいことがある」

「……な、なんでしょう……? そ、その……わたし……なに、か……?」

「悪い話じゃない。むしろいい話だ」


 三木谷から得られた情報と、白雪希美本人と会話したことで得られた情報。

 この二つを統合することで見えてきた可能性は、白雪にとって向かい風かもしれないが、見方を変えれば追い風にもなる。

 そう信じて俺は、教科書や勉強ノート一式を片付けている白雪を静かに見つめていた。


「……お、お待たせ……しまし、た……」

「いや、問題ない……白雪、結論から言うぞ。今回の中間試験、勝負する科目は国語だ」

「……こ、国語……です、か……? で、でも……む……難しくなる、って……」


 三木谷との会話を聞いていたのか、白雪は国語で勝負すると聞くや否や、消沈した様子で肩を落とす。

 恐らく、というか九割ぐらいは自信がないから落ち込んでいるのだろう。あの小テストより跳ね上がった難易度と聞けば、身構える気持ちもわかる。

 特に、漢字の書き取りのような「稼げる」選択肢を潰されているのは大きなプレッシャーになるだろう。それでも、国語を選んだのにはちゃんとした理由があってのことだ。


「……白雪」

「……ぁ……は、ひ……ひゃい……」


 俺は思わず白雪の肩に手を乗せていた。

 びくり、と身を震わせて顔を赤くする白雪の姿に、やってしまったかと一瞬後悔したが、それは一旦置いておこう。

 今は俺たちの生存戦略にして勝利の方程式が現実味のあるものであることを説明する方が先だ。


「……これも結論から言おう。俺は白雪を信じている」

「……わ、わたし……を……です、か……? でも、わたし……」

「大丈夫だ……順を追って説明するぞ、まずなんで国語を選んだのかだが、恐らく白雪希美は国語がそこまで得意な方じゃないからだ」


 消沈して俯く白雪から視線を逸らさず、俺はその根拠を語る。推論も含まれてはいるが、そこはもう博打だろう。

 仮説が当たっていれば、恐らく勝てる確率は……そうだな、白雪の頑張り次第では、五分以上に持ち込むことができるかもしれない。

 なぜ白雪希美が国語を苦手としていると判断したのかについては単純だ。簡単なことわざを知らなかったから、に尽きる。


「……お、お姉ちゃん……が……?」

「……少し会話したときに、『獅子は我が子を千尋の谷に突き落とす』ということわざを白雪希美は知らないように見えた。恐らくはテストのためにその時々で暗記しては忘れるタイプなんだろう」


 白雪希美が復習を怠っているかどうかはわからないが、少なくとも有名な故事を、ことわざを知らないという事実からその可能性は高いと見た。

 次に、本人が言っていた「好きなものから先に食べるタイプ」という発言を信じるのなら、国語が苦手だと仮定した上で、その勉強は後回しにされることになるだろう。

 仮説に仮説を重ねる時点で論拠としては弱いといわれればぐうの音も出ない。だが、信じなければ、なにも始まらない。


「……で、でも……お姉ちゃんがに、苦手でも……わたし……」

「……さっきも言っただろう。俺は白雪を信じる。白雪が積み重ねてきたものを、活字に触れ続けてきた体験を」

「……それ、って……」


 白雪の視線が微かに上向く。

 そうだ、白雪。俺が勉強を教える前から、白雪はずっと、読書体験という武器を持っているだろう。

 活字に触れ続けるのは、簡単なようで難しい。スマートフォンがあれば大概の物事は解決するようになった現代で、それを嫌う人間がいるのも頷ける。


 それでも白雪はずっと、読書を積み重ねてきたはずだ、だからこそ。


「……勝負を仕掛けるのは、読解だ」

「……っ……!」

「白雪希美は確かに天才かもしれない……話した限りはほとんどセンスだけで学年次席に収まったタイプだと見た。だが……読解が難しくなれば、いくら頭がよかろうが事故率は上がる。逆にいえばそこを取りこぼさなければ、勝ちの目はある。違うか」


 白雪にはちゃんと、文章から意図を汲み取る……文脈を読み取るだけのセンスがある。

 それは俺が作った模擬テストで判断するなら確かなことだったし、ミスにしたって、問題そのものを根本的に間違えているわけじゃない。

 単に、大学受験の問題集を元にしているから元の文章が難解なだけだ。俺でも正答率百パーセントとは断言できないだろう。


 そして、いくら国語教師の性格が悪かろうが性根が捻くれていようが、中間試験の問題で出題範囲から逸れたものを出すようなことはするまいよ。

 やってきたならそれこそ阿鼻叫喚だ。教師に対する人事評価がどうなってるのかは知らないが、確実に下がるだろうから、やるメリットもない。

 それこそ、戸村だか田村だか志村だかが、噂通りに生徒たちのもがき苦しむ姿を糧に生きているのでもなければな。


「……わ、わたし……は……」

「……」

「……わたし、そ……その……ちゃんと……」


 ぼそぼそと、消え入りそうな声で何事かを呟いて、白雪は再び俯く。自信がない状態で勝負をかけるとなれば、無理もない話か。

 だが、飛び立つための羽根はある。

 あと一歩踏み出せば、白雪は確実に羽ばたいていけると、俺は信じて疑わない。その先にある勝利を、一度でもいいから白雪希美を見返したという事実を、手にできると。


「……勝てるさ、白雪なら」

「……九重、君……」

「頑張ってきた自分を、少しだけでもいい。信じてやるんだ」


 言いたいのは、根性論や精神論じゃない。

 比べるのなら常に過去の自分と、だ。

 前より一歩でも進めていたのなら、それだけで合格点をつけてやる。自分でできないのなら、俺が代わりに保証する。


 ただ、それだけのことだ。

 あと一歩だけ前に進めば、得られるものは、昨日手にできなかったものはきっとある。

 俺が今日まで歯を食いしばって勉強してきたのは、誰と比べることもしなかったからに違いあるまい。だから白雪もきっとできる──というのは、暴論かもしれないがな。


「……は、はい……そ、その……頑張り、ます……」

「……その意気だ、白雪。俺も手助けは惜しまない」

「……はい……っ……!」


 ぐっ、と胸の脇で拳を固めて、白雪は小さく頷いた。

 その分今日からの問題はかなりハードルを上げたものになるし、他の教科を事実上捨てることにはなるが、二兎を追う者は一兎をも得ず、だ。

 白雪希美への勝利を掴むことが今回の中間試験での目的なら、他は極端な話、赤点スレスレでも問題はない。


 とはいえこれまでは満遍なくやってきたのだから、これから毎日国語に注力しただけで、他の教科が赤点になるとは思えない。

 そこもまた信じているぞ、白雪。

 シャーペンを手に、俺の作った模擬テストへと向き合う白雪に視線を送りながら、俺もまた、密かに拳を固めるのだった。

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