第34話 魔女は微笑む

 か細い可能性の糸が天から垂らされてきたことは、思ってもいなかった幸運だったといっていい。

 入念に模擬テストを作っていたら、放課後までに完成しなかった都合で一人教室に残っていた俺は、ようやく最後の解答欄に枠線を引き終えて一息つく。

 白雪には申し訳ないが、先に図書室に行ってもらった。できることなら一緒に行きたがっているのはわかるから、そういう要望には応えてやりたいんだがな。


 なにはともあれ、勝利の方程式は頭の中で組み上がった。あとはそれを実行できるかどうかだが、これについては白雪を信じる他にあるまい。

 努力が必ず報われるのであれば、世の中そこまで苦労しないし、闇雲になるまで追い詰められる人間だって出てこないのは百も承知だ。

 だが、客観的に見て白雪は成果を出している。


 古いとはいえ、大学受験の問題集を参考にした応用問題である程度の結果を残しているなら、国語教師がどれだけ難しい問題を出してきたとしても、ある程度は対応できるはずだ。

 それにしても、高校の中間試験でいきなり大学受験並みの、足切りを目的にした問題を出してくるのはなんなんだよと思わないでもないが、まあ単純に意地が悪いんだろう。

 もしくは生徒たちにあえて試練を課すことでそこから這い上がってほしいとかいう超絶スパルタな教育方針の持ち主なのかもしれないが。


「獅子は我が子を千尋の谷に落とす、か……」

「ふふっ、ライオンの話? 九重君って意外と動物が好きだったりする?」


 どうやら独り言を聞かれていたらしい。

 飴玉で作った鈴を鳴らしたような声が、白雪のそれと全くといっていいほど同じような声が耳朶に触れる。

 見上げれば、図書室までの道中、屋上に上がる階段の手すりに背中を預けていた声の主が、白雪希美が柔らかくも、妖艶な笑みを浮かべている姿が瞳に映った。


「……昔のことわざだ、別に生き物は好きでも嫌いでもない」


 ついでにいうなら、実在のライオンは子供が崖から落ちたら命懸けで助けに行く生き物だ。

 わざわざ我が子を崖から突き落として這い上がってきた個体のみを育てる、なんてことをやっていたら、生物としてサバンナの頂点に君臨することもなく絶滅していただろうよ。

 この場合の獅子は、生き物としてのキリンと同じ名前を持つ幻獣の麒麟みたいなものだ。概念的なものといってもいい。


「そっか。私は猫が好きだけど、キミとはあんまり話が合わないかもね」

「そうかもしれないな」

「ふふっ、面白いなぁ……キミって。私が猫を好きだって言ったら大体の人が、実は自分も猫が好きでー、なんて話してくるけど」


 とん、とん、と上履きの爪先を打ち鳴らしながら、白雪希美が階段をゆっくりと降りてくる。

 共通の話題というのはコミュニケーションにおいて必要不可欠だ。だからこそ、学園のマドンナを射止めようと必死な連中はそれこそ千尋の谷を這い上がる獅子の子ぐらい必死で白雪希美との接点を作ろうとしていたのだろう。

 だが、俺にとってはどうでもいい話だ。


「キミは私に興味がないんだ」

「……興味もなにも、話したこともろくにない相手にどう興味を持てというんだ」

「そう? 一目惚れから始まる恋もあると思うけどな」


 心の底を見透かしてきたように白雪希美はくすくすと笑う。

 その一目惚れから始まる恋をばっさりと袈裟懸けに斬っては捨ててを繰り返している人間が言うことか、とは思ったが、よく考えたら本人が信じていることとは干渉しないな。

 一瞬、白雪希美も誰かに恋をしたりするのだろうかと思ったが、もしそうだとして、俺には関係ないことに変わりはないだろう。


「それで、俺になんの用だ」

「結論を急ぐのはキミの良くないとこだと思うな、私は。もっとこう、過程を楽しみたいと思わない?」

「単純に急いでいるんだよ、用事があるからな」


 ただでさえ模擬テストの作成で遅刻したというのに、これ以上白雪を待たせすぎるのは申し訳がない。

 白雪に勉強を教えると約束したのなら、それをすっぽかすのは、約束を破るのと同義だろう。

 ならそれは、あってはいけないことなんだよ。約束というのは、なにがあっても守られなきゃいけないんだ。


「祈里のこと?」

「……そうだが、それがどうかしたのか」

「なんだか面白そうなことしてるなーって。なにしてるかはわからないけど」


 私だけ蚊帳の外にされるのは寂しいなぁ、と白雪希美は冗談交じりに呟いたが、生憎こっちの事情を、手札を明かしてやる義理も義務も俺たちにはないんだよ。

 今まさに、お前の座っている玉座に手をかけようとしているわけだからな。

 懐へと潜り込むように、ずいっと距離を詰めてきた白雪希美が上目遣いで俺を見上げてくる。白雪と瓜二つなその顔だが、浮かべている表情は随分と違っていた。


「祈里、最近随分と勉強頑張ってるけど……それってキミのおかげ?」

「……さあ、な」

「ふふっ、キミは嘘つくのが下手だなぁ。でも、あんなに必死になって頑張ってる祈里を見たの、いつ以来かな。そういう意味じゃキミには感謝した方がいいのかもね」


 ありがとう、とほとんど零距離まで詰め寄ってきた白雪希美が、耳元に囁きかけてくる。

 それは一見、謙虚な姿勢に映るのかもしれない。だが、裏を返せばその姿勢は、決して自分の座が脅かされることはないという確信からくる、強者ゆえの余裕みたいなものだ。

 その余裕こそが、つけ入る隙になる。


「そういうお前は勉強しなくていいのか」

「テストの一週間くらい前になったらでいいかなぁ」

「だからこの前の小テストで満点を逃したんじゃないのか?」

「あはは、耳が痛いなぁ。ほら、私って好きなものから先に食べちゃうタイプだから」


 知らんが、と言いたいところではあったが、よく考えたらこれは有益な情報かもしれない。

 白雪希美が国語を苦手としているかはまだ断定できないが、苦手な物事を後回しにするタイプだという事実は確定した。

 つまり、言い方こそ悪いが、白雪希美が学年次席の座に収まっているのは、持ち前の才能頼みであるところが大きいということだ。


 ここは明確にウィークポイントだといえるだろう。センスだけで九十点台をコンスタントに叩き出せるのは末恐ろしいといったところだが、本人がそこまで勉強に執着していないのが幸いか。

 なんにせよ、勝ちの目はある。諦めるにはまだ早い。

 俺が見出した答えに、間違いはなかった。


「キミと祈里がどんな面白そうなことしてるかは興味あるけど……教えてくれない? ダメ?」

「……すまないが、断る」

「あはは、そっか。なら別にいいや」


 白雪希美は心からどうでもいいとばかりに笑い飛ばすと、とん、と踵を鳴らして俺から興味を失ったかのように離れていく。

 実際、興味は失われたんだろう。当然だ。

 ここまで塩対応をしている相手に逆に興味を持ったとか言われた日には感性を疑いかねん。


「キミと祈里がなにをしようとしてるかは知らないけど、頑張ってね。九重君」


 などと思っていたら、目を細めた白雪希美は、さっきまでとは真逆の笑みを浮かべてひらひらと手を振りながら去っていく。

 食えないやつだ。どこまでが本気で、どこまでが冗談なのか、まるでわかったものじゃない。

 それもひとえに、その一挙手一投足に余裕があるからだろうか。


 自分が強者であるということを自覚している余裕。悪くいえば、慢心。

 持ち前のセンスだけで物事を乗り切ってきたタイプにありがちなことだ。俺も身に覚えがある。

 だがそれは、いつか穿たれるヒビになる。その余裕が、慢心こそが、猫を噛む窮鼠の狙う間隙なのだから。


 なんにせよ、白雪希美と会話して得られたものは割と多い。その上で──どの教科で勝負をかければいいのかは決まった。

 もし俺の推測が正しいのなら、この仮定が真相と重なり合うのなら、白雪があいつに勝てる可能性は格段に引き上げられたといってもいい。

 白雪希美が去っていった階段を一瞥し、俺は図書室へと駆け足で急ぐ。


 待っていろ、白雪。

 勝利の方程式は組み上がった。

 あとは白雪自身が、追い込まれた鼠が猫へと、いや、巨大な獅子の首筋へと見事に噛み付いて見せるだけだ。


 そして、今の今まで頑張ってきた白雪には、それができると俺は信じている。

 だから、最後まで諦めるなよ、白雪。

 そう願って俺は、図書室の扉に手をかけた。どことなく湧き起こってくる期待に、胸を高鳴らせながら。

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