第37話 立ち上がれ、それでも
白雪は、屋上に
それほどまでに過酷なことを強いてしまったのだろうと、信じている、という言葉を免罪符にして自分のやり方を押し付けていたことに、止めどなく罪の意識が溢れ出してくる。
無理もあるまい。難関大学入試基準の問題を高校一年生、それもほとんど入学したばかりの状態で解かせ続けていればそうもなる、ならない方がおかしいんだ。
「……ひぐっ……ぐすっ……」
「……白雪」
名前を呼ぶ声は、自分の喉から滑り出したとは思えないほどに乾き切っていた。
俺は、なにを言えばいい。どんな顔をして白雪と向き合えばいいんだ。
素知らぬ顔で励ませばいいのか? まさか。
白雪が目の前で涙を流しているのは、他でもない俺のせいだというのに。
頑張れ、という言葉は誰かの背中を押す言葉かもしれないが、それは崖の淵に立っている人間に対しても同じことだ。
そんな状況で背中を押せばどうなるかなんてことは、火を見るよりも明らかだろう。
「……ふぇ……こ、九重……君……?」
俺の声に気づいたのか、白雪は恐る恐るといった様子で背後を振り返った。
大きな瞳は泣き腫らして赤く染まっていて、今も眦には大粒の涙が滲んでいる。
なにか声をかけなければいけないと思っていても、喉を空気の塊が塞いでいるかのように言葉が出なかった。すまなかったと、ただそれだけのことすら言えない自分が、ひどく情けない。
「……白雪」
「……ご、ごめん……なさい……っ……!」
舌先が探り当てた単語は、名前だけだった。ごめん、だとか、すまん、だとか、そんなことも言えないのか、俺は。
自己嫌悪に陥って唇を強く噛んでいた最中、白雪は俺の声を聞くなり、急に立ち上がって深々と頭を下げた。
なんで白雪が謝る必要がある。謝らなきゃいけないのは、俺の方で。
「……わ、わたし……怖、くて……」
「……俺が、か」
無理もあるまい。白雪のためといいながら、その実エゴを押し付けられ続けていたのだから、怖いと思うのも仕方がないことだ。
なんとしても白雪希美に勝たなければいけない。それは本当に、白雪にとって必要なことなのか。
戦いを挑むことで得られるかもしれないものと失うかもしれないものを、ちゃんと天秤にかけた上で判断することができていたのか。その答えは、自明の理だろう。
すまない、と、喉の支えが取れて出てきたのは、ただその一言だった。
白雪に負担を強いるつもりはなかった、といっても信じてはもらえないだろうし、なによりも言い訳じみている。
なら、過ちを認めてもう一度考え直すしかないと、腹を括ってそう提案しようとした、まさにそのときだった。
「……ち、ちが……違う、ん……です……っ……!」
白雪は俺の胸板に縋りつくように体重を預けて、震える声を絞り出すように張り上げる。
それでも、雨音にかき消されそうなその声を、俺は掻き抱くように受け止め、頷く。
聞きたかった。聞かせてほしかった。白雪の言葉を、偽ることのない本音を。
「……わ、わた……わた、し……ほ、本当、に……本当に、お……お姉ちゃん、に……勝てるのか……わ、わからなく……なって……頑張っても……全然、ダメダメ……です、から……ずっと……」
「……」
「……だ、だから……ぐすっ……こ、九重君……に……わ、わたしなんて……いらないって……思われるのが……怖く、て……い、いつも……ひぐっ……みたい、に……お姉ちゃん、に……取られちゃう……って……っく……うぇぇ……ん……」
白雪が、どんな人生を歩んできたのかはわからない。ただ、その言葉の断片から、微かな事実が窺えるだけだ。
ここ最近、難しい問題ばかりを解かされていたせいで自信をなくしてしまったことも重なって、そのトラウマが蘇ってしまったのだろう。
誰かと仲良くなったと思ったら、大体そいつは白雪希美の方を向いている。もしくは、最初から白雪希美を目的にして、白雪祈里と仲のいいふりをする。
それがどれほど惨いことなのかは、俺が語るまでもあるまい。ずっと「姉じゃない方」と呼ばれ続けてきたその痛みが、どれだけ筆舌に尽くしがたいものであるのかは。
そんな痛みを思い出させてしまったことへの罪悪感と、それでも健気に、今日まで弱音を吐かずに目の前の壁と向き合い続けてきた白雪の勇気に、俺はただ打ちのめされるようにその細い身体を抱きしめていた。
すまない、と、俺がもう少し気を回せる人間であったなら、少しでも要領よくものを教えられる人間であったなら。いつか味わったのと同じ無力が、腕に込める力に変わる。
「……こ、九重……君……」
「……ああ、白雪」
「……九重、君は……どうして……わ、わたしなんかと……ダメダメで……お姉ちゃんみたいに、堂々とすることも……でき、なくて……泣き虫な……わたし、なんかと……仲良く……して、くれる、ん……ですか……?」
今にも消え入りそうな、放っておいたら落下防止のために設けられたフェンスを乗り越えていきそうな、危うく引きつった笑みを口元に浮かべながら、白雪がそう問いかける。
──わたしなんかと付き合うなら、お友達になるなら、お姉ちゃんの方が絶対いいのに。
呪いのように、自分の心に突き刺さった針を引き抜いて、そこに付着した血液を見せつけるように、白雪は泣きながら答えを乞う。
俺が白雪と友達でいる理由。
それは、突き詰めてしまえば約束を交わしたから、という一言に尽きるのかもしれない。
最初に願われた恋人からは無理だったとしても、仲良くしてほしいと、友達から始めようと、そう頼まれたから。さらに遡るのなら、白雪が落とした通学定期を拾ったからという袖が擦り合うような縁があったから。
だが、白雪が求めているのはそういう理屈じゃないことぐらいは俺にもわかる。
約束がなければ、その縁がなければ、俺は白雪と友達付き合いをしていただろうか?
恐らく、していない。きっと俺も、白雪の存在に気づくことなく藤堂や三木谷と狭い縁を結んだまま、ひっそりと勉強漬けの三年間を終えたことだろう。
だが、それでもだ。
そんな話は、たらればに過ぎないんだよ。
歯を食いしばって、俺は白雪と向き合う決意を固める。その仮定があったとして、だからどうした。
もしそうだったとしても、俺と白雪を今、一つの約束が結びつけているという事実に変わりはない。俺と白雪が、友達であるという事実にもだ。
約束は守られなければいけない。約束を嘘にしてはいけない。
それは当たり前のことで、俺はただ、ただ……当たり前のことをしたいだけなんだ。当たり前のことが、当たり前であってほしいだけなんだ。
友達が悩み苦しんでいるなら手を差し伸べる。ただ、それだけのことをしたかった。
たらればももしももなく、俺と白雪は友達同士であるという事実だけがここにある。
だから、俺は。白雪が俺を友達だと呼んでくれる限りは、決して白雪を見捨てない。それだけなんだよ。
「……白雪が、白雪だからだ」
「……わ、わたし……なんて……」
「白雪希美は関係ない。俺は……白雪祈里の友達だ。だから……見捨てない。もしも今回のことを諦めたって、笑わない。白雪、お前が嫌だと言わない限り、俺は……白雪の友達でいたいんだ」
それが、約束だから。
俺は真っ直ぐに白雪の瞳を見据えて、そう言い放った。
同じ顔、同じ声、同じ体格。ほとんど瓜二つとして生まれてきたからこそ、神様から持たされた贈り物の大きさが違うことに絶望し続けてきた白雪の孤独を、俺がどこまで背負い切れるかはわからない。
それでも、できる限りのことをするのが、親しい誰かが泣いていたのなら隣で愚痴や弱音を聞いてやるのが、友達というものだろう。
俺のやり方は確かに失敗してしまったかもしれない。だが、やり直せるなら。
ここから、もう一度立ち上がれるなら。
「……白雪、もう一度だけ聞かせてくれ。白雪は……あいつに、白雪希美に勝ちたいか」
「……わたし、は……勝ちたい……九重君を……取られたく、ない……っ……! こ、九重君の……隣に、いるのは……わたしだって……わ、わたしだって……ちゃんと……できる、んだって……証明、したいです……っ……!」
「……なら、あと少し。踏ん張れるか。俺を……信じてくれるか」
「……はい……っ……!」
白雪はぽろぽろと涙をこぼしながら、俺の言葉に力強く頷いてみせた。
凄まじい覚悟だ。ちょっと前まで心が折れて、打ちひしがれていたのが嘘のように、涙こそ流していても、白雪の目には、確かな闘志が消えることなく滾っている。
約束。それが俺と白雪を結びつけているものだとしたら、俺がすべきことは。
「……それと、白雪」
「……こ、九重……君……」
「もし、白雪がこの戦いに勝ったら……証明することができたら、俺は白雪の言うことをなんでも一つだけ聞く。約束だ」
降りしきる雨に濡れながら、俺は白雪へと小指を差し出す。
報酬というわけじゃない。ただ、少しでも俺にできることがあるなら、崖っぷちにかかる吊り橋を渡るような白雪の支えになれるならと願ってのことだった。
それがどれほどの力になるかはわからなくても、俺は、俺にできる精一杯をしたかったんだ。
「……え、えへ……た、楽しみに……して、ますね……」
「……ああ」
「……ご、ごめんなさい……でも……ありがとう、ございます……九重、君……」
「……俺の方こそすまなかった。だが」
──勝とう、白雪。
俺たちは小指同士を結び合わせて約束を交わす。
それは未来に果たされるべきこと。嘘にしてはならない誓い、だからこそ、絶対に。
勝利の女神でも幸運の女神でもなんでもいい。後ろ髪を剃り上げたそいつの前髪を全力で引っ掴むために、立ち上がるんだ。
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