第31話 証明してやれ

 まさか白雪希美が俺の気を惹きたい、なんてことはないだろう。なら、その逆はどうだ。

 俺じゃなく、白雪の気を惹く。

 姉妹仲については一度も触れてこなかったからわからないが、白雪の反応を見るに、良好なものではないと考えていいはずだ。


 それを証明するように、あの女の言葉を聞いた白雪は、世界が明日にでも終わるんじゃないかといわんばかりに青ざめ、くずおれていた。

 いい教え子になる、か。本気なのか冗談なのかは生憎わからないが、俺は別に白雪以外に勉強を教えるつもりはない。

 藤堂や三木谷辺りが泣きついてきたなら応じるだろうが、それは俺たちの間に信頼が成り立っているからであって、どんなに筋がよかろうとも、俺と白雪希美はまだ赤の他人でしかないのだから。


 そんなことをいってたら、話した時点で縁ができたでしょ、とでも返されて煙に巻かれそうだがな。

 白雪希美は、底が見えない。

 とてつもなく深い底なし沼のようでいながら、上辺は透き通るように澄み渡っている。だからこそ油断ならないタイプだと、俺の本能がそう告げていた。


「……ぁ……あ……こ、九重、君……」


 同じぐらい深い絶望に沈んだ表情で、今にも泣き出しそうなのを必死に堪えて、白雪が俺の名前を呼ぶ。

 天から垂らされた蜘蛛の糸に縋りつくように、白雪は震える右手を伸ばした。

 あるいは、それこそ藁をも掴む思いでいるのだろう。俺は膝からへたり込んでしまった白雪に駆け寄って、目線を合わせながら問う。


「……大丈夫か、白雪?」

「……わ、わた……し……わ、わたし……を……み、見捨て……ないで……ください……捨てない、で……くだ、さい……九重、君……」


 ──なんでも、します、から。

 がくがくと震えて、瞳孔が開いている白雪の怯え方は端的にいって、異常の一言に尽きた。

 俺は別に白雪を見捨てるつもりなんて欠片もないのに、まるで口にした未来が確定事項であるかのように、なんでもすると哀願しなければ見捨てられるという脅迫観念に囚われている。


「……落ち着け。白雪、深呼吸だ。袋は……必要だな」

「……は……ぁ……っ……はーっ……は……っ……ぁ……」


 机の上に置きっ放しだった学生鞄の中から、こんなこともあろうかと、常に携帯しているレジ袋を取り出す。

 そして、呼吸が著しく不安定になっている白雪の口元にそれをあてがった。

 それにしたって過呼吸を起こすほどなのか。いよいよもってこれは、穏やかじゃない。


「……ご、ごめん……なさい……わたし……役立たず、で……余り物、なの……に……いらない方、なのに……ここのえ、くんと……いっしょ、に……ぐすっ……いたから……しあ、わせだった、って……わたし……いて、も……いいん……だって、かんちがい、して……」


 大きな琥珀色の瞳からぽろぽろと涙をこぼしながら、白雪は今にも消え入りそうな声で呟く。

 勘違いもなにもあるか、生きてる限りそこにいる権利はどこの誰にだって平等に与えられたものだろう……なんて正論じゃまるで届かないし響かないのは、白雪の異常な様子を見ればわかりきったことだ。

 役立たず。余り物。いらない方。


 白雪の心に嵌め込まれた、あまりにも重く、苦しい呪いの枷か、そうでなければ打ち込まれた楔の鋭さを思えば、かける言葉がまるで浮かばない。


 ──だが、それでも。

 俺がここにいる意味があるのなら、それは白雪の友達になると、そう約束したことであるのなら、ただ黙っているだけじゃ失格だ。筋が通らない。

 どんな言葉でも、どんな方法でも白雪の心に刻まれた傷口に届かないのなら、できることは一つだけだろう。


 俺はただ、子供のように泣きじゃくる白雪を抱きしめていた。

 静かに、だが力強く。ここにいるのは白雪一人だけじゃないんだと、言葉に代えてその華奢な身体を抱き寄せる。

 いつかそうしていたように、過ぎ去ってしまった時間のことを頭の片隅に浮かべながら、俺はただじっと、白雪が落ち着くのを待つ。


「……落ち着いたか?」

「……は……は、い……で、でも……」

「……泣きたいときぐらいは泣いた方がいい」


 泣かないで、我慢し続けることほど痛ましく、そして自分を傷つけることはないのだから。

 今も涙をぽろぽろとこぼしつづけている白雪は、小さく頷くと俺の胸板に顔を埋めて、再び泣きじゃくる。

 それにしても白雪姉妹の姉じゃない方、か。そう呼ばれ続けてきたことの絶望を、俺が完全に理解することはきっとできないのだろう。


 余り物だの、いらない方だのと宣う方は恐らく本気で考えていない。冗談のつもりで口を開いたんだろうが、誰かがいっていたように、言われる方はいつだって本気だ。

 気にしていないと、傷つきながら聞こえないふりをし続けることのどれだけ苦しいことか。

 完全には理解できなくたって、想像することはできる。


 そうだな、例え冗談であっても「あいつがいるからお前はいらない」と言われてみろ。それはもう、冗談の一言で済まされる話じゃないんだよ。

 生まれた頃からずっと一緒にいるからこそ、双子の姉妹として生まれてきたからこそずっと比較され続けてきて、白雪は、きっと。

 亜麻色の髪を、その左側を彩る三日月型の髪飾りに視線を向けて、俺はそっと、白雪の肩を抱き寄せた。


 星と月。自らの力で輝くことができない月と、夜空に煌めく一番星。

 白雪が月の髪飾りを選んだことにそんな意図はないんだろうが、そんなところにさえ皮肉なものを感じてしまう。

 白雪希美が悪いのだと罵るつもりは欠片もない。ただ、それでも生まれてきたときに天から与えられたものの、たったそれだけの違いで、白雪が俯いたままの人生を歩んでいることは理不尽だ。


「……こ、九重君……九重、君は……お姉ちゃんに、お勉強……」

「……白雪希美を生徒に持つつもりはない」

「……で、でも……わ、わたしなんか、より……お姉ちゃんの、方が……頭も、よくて……運動も、できて……皆……皆、そう……言って……」


 わたし、なんで生まれてきたんでしょうか。

 そう呟いた白雪は笑顔の仮面を取り繕うとして──失敗した。

 くしゃくしゃにその美貌を歪めて、白雪は涙をこぼし続ける。なまじ同じ顔をしているのが、同じ声をしているのが、同じ体つきをしているのが、一体どれほど白雪を絶望させてきたのかと想像すると、あまりにもいたたまれない。


「……白雪、悔しくないか」

「……っく……ぐすっ……」

「……白雪希美に、一泡吹かせてやりたくないか」


 だからこそ、俺はそう問いかけていた。

 確かに今の白雪は、姉と比べてなにもかもが劣っているのかもしれない。だがそれは、あくまで今、そうだというだけの話だろう。

 俺が持ちかけた提案はシンプルだ。成功すれば少しでも白雪を縛りつけている呪いの枷を解けるかもしれないが、相応にリスクもある。


 それに、もしこの提案に白雪が乗ってくれたとしても、これはマイナスをゼロに戻すようなもので、ゼロがプラスに転じるような劇的なものじゃない。

 ただ些細な、爪痕を残すだけのもの。

 だとしても、やってみる価値はあるんじゃないか。失敗なんて恐れないとはいわないが、このままマイナスに留まり続けるよりは、一歩でも先に進んだ方が、進むことで掴めるものがあると、そう信じたかった。


「……わ、わた……し……くやしい……です……っ……かなしい、です……っ……だ、だか、ら……だから、九重……君……教えて、ください……わたし……どう、すれば……」

「次の中間テストで一科目でもいい、白雪希美に勝つんだよ」

「……ぇ……」

「もちろん協力は惜しまない。勝って得られるものなんてちょっとした満足感だけかもしれない……だが、それでも一泡吹かせてやれるかもしれない。それだけの賭けだ」


 学年次席の白雪希美の得点分布はわからんが、少なくとも全教科満点ではないはずだ。

 もしそうなら、学年主席は俺じゃなくて白雪希美だっただろうからな。

 なら、満点を取れば理論上勝利か最悪引き分けには持ち越せる。得られるものは少ないどころか皆無かもしれないが、それでも「白雪が姉に、なにか一つでもいいから勝った」という証明は得られる。


「……わ、わたし……でき、ますか……? わたし……お姉ちゃんに……」

「……百パーセント勝てるとは言わない。保証もできない。だが、やるなら俺は白雪に全力で協力するぞ」


 友達だからな。

 俺は白雪へと力強く言い切って、立ち上がるための手を差し伸べる。

 あとは白雪が頷いてくれるかどうか、それだけだ。この手を取るなら一蓮托生、地獄の底まででも一緒に行こうじゃないか。


 手を取らないのなら、それもまた選択だと白雪の想いを尊重するだけの話だ。

 どちらか選べとばかりに差し伸べた俺の骨ばった手に、白雪の細くしなやかな指先が触れて、ゆっくりと結ばれていく。

 そして、白雪祈里は立ち上がった。


「……わ、わたし……は……わたしは……お、お姉ちゃんに……勝ちたい……です……わたしは……いらない子、なんかじゃ……ない、って……」

「そうだ、証明してやれ……!」

「……っ……は、はい……っ……!」


 例え誰かにちっぽけな自己満足だと笑われようと、嘲笑われようと、一度でもいいから、誇れるものを自分の手で掴んだのなら、誰になんと謗られようと、その栄冠が消えることはない。

 そうだろう。

 だから証明してやれ、白雪。お前が……「姉じゃない方」なんかじゃない、「白雪祈里」なんだと、その手で。

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