第30話 「白雪希美」

 白雪の提案で始まった勉強会でわかったのは、本人も言っていた通りどの科目も及第点ギリギリ、五十点台後半の壁を越えられずにいた、ということだった。

 ノートを清書していないとか取っていないとかでもない。むしろかなり丁寧にノートを取ってあるのにもかかわらず、だ。

 つまるところ、白雪が六十点の壁を越えられなかった理由は、情報の取捨選択が上手くできていないからじゃないか。


 と、いうのが俺の立てた仮説だったが、果たしてそれは概ね正しかったようで、根気よく勉強を教えていたら、白雪は俺の作った予想問題を解くたびに点数を上げていった。

 めきめきと、とまではいかないが、ゆっくりと白雪は自分のペースで着実に経験を積み上げている。

 これはいい兆候じゃないだろうか。無理に焦りすぎても理想と現実のギャップで苦しむだけだからな、勉強にせよなんにせよ、着実に積み上げていくことの他に近道はない。


「……よし、一旦休憩を挟むか」

「……は、はい……っ……」


 歴史の復習をキリのいいところで終わらせて、俺は白雪に提言する。

 人間の集中力というのは案外持続しないものだ。

 夢中になっているときはそう感じないかもしれないが、それは作業を苦痛に感じていないだけで、取り組んでいる時間に比例する形で凡ミスだとか、そういうものは増えていく。


 だから、適度に休憩を挟む。

 それが勉強のコツ……というわけじゃないが、少なくとも俺が独学でここまでやってきた中で重要だと痛感したことの一つだった。

 よく何時間勉強した、とかやった時間でマウントを取ってくる人間もいるが、大事なのは取り組んだ時間の長さじゃなく、いかに中身を吸収できたか、の一言に尽きる。


 極端な話、問題集やら参考書、教科書の類を開きっぱなしにして机の上に置いて、それを数時間眺めてるだけでも勉強したと言い張れないことはないからな。

 そんなわけで、適度な休憩と適度な集中。

 それが勉強には肝要だ……といった具合に、ぺこりと頭を下げて離席した白雪の背中を見送る。


「……安定して六十点は取れてきたか」


 仮想テストを手書きで作るのは中々骨が折れる作業ではあったが、それでも白雪のためだと思えば不思議と頑張れた。

 問題用紙とセットになった解答用紙を見つめながら、俺はそこに小さな感慨を覚える。

 なぜ頑張れたのかは、多分こうして白雪の頑張りが可視化されているからなのかもしれないな。あるいは、別な理由もあるのかもしれんが。


「……こ、九重、君」


 飴玉の鈴を鳴らしたような声が聞こえたのは、そんなことをぼんやりと、頭の片隅に浮かべていたときだった。

 もう戻ってきたのかと、声のした方を振り返れば、そこに立っていたのは、ブレザーの上から若干、丈が余った袖のカーディガンを着ている白雪の姿──では、なかった。

 雪のように楚々とした笑みを口元に浮かべてこそいるが、目の前にいる女子が白雪じゃないことは、どういうわけかすぐにわかった。見た目も体格も声も、白雪のそれと寸分も違わないというのに、だ。


「……単刀直入に訊くぞ。誰だ? そしてなんの用だ?」

「ふふ、すぐわかっちゃうんだ。面白くないなぁ」


 誰だ、とは尋ねていたが、目の前にいる白雪と瓜二つな人物について、知っているわけではないものの、心当たりは確かにあった。

 ──白雪希美。

 三木谷のやつが言っていた、白雪を「姉じゃない方」という評価に押し込めているこの高校のマドンナにして、今まで数知れずの男を玉砕させてきた、白雪祈里の双子の姉。そんな女が今、どういうわけか俺の目の前に立っている。


「そのテスト、キミの手作り? すごいね、頑張り屋さんだ」

「……別に大した手間じゃない。問題を作るのも勉強になるからな」

「ふふっ、学年首席は言うことが違うなぁ」


 人好きのする笑みを浮かべて、白雪希美は俺の隣まで距離を詰めてきた。

 なるほど、確かに白雪希美には、この高校一の美少女だといわれても納得できるだけのものがある。

 ルックス、愛嬌、そして距離感。意図的にパーソナルスペースを狭めるような立ち振る舞いは、さぞかし多くの男子生徒を勘違いさせてきたに違いあるまい。


 だが、俺はそこにときめきのようなものを覚えることはなかった。

 代わりに胸中を満たしていたのは、なにか穏やかではない予感か、そうじゃなければ抵抗感、だろうか。

 どれだけ人好きのする笑みを浮かべていても、どれだけ愛嬌があろうとも、どれだけ白雪と容姿が、声が、体格が似通っていたとしても──白雪希美は、白雪祈里じゃない。その一言だった。


「キミ、祈里に勉強教えてるんだって?」

「……どこから聞いた?」

「そんなに警戒しないでってば。噂で聞いただけ。私が放課後に図書室で勉強会してるって。ほら、私と祈里って双子じゃない? だから時々、こんな風に間違えられるんだ」


 噂の出所は不明か。大方、前のファミレスでの一件が白雪希美の耳に入ったといったところか?

 一瞬、三木谷のやつかとも思ったが、あいつは俺と白雪の関係を多少なりとも知っているからその線はない。

 いずれにしろ、白雪祈里と白雪希美の区別がついてない人間がまだこの高校には多いということなのだろう。


「……それは災難だな」

「双子あるあるだからね。私はあんまり気にしてないかな」

「……そうか」


 白雪希美はそう言うと、おもむろにカーディガンを脱いで細い腰に巻き付ける。

 白雪の変装のつもりだったのだろうか。髪の左側につけていた星型のヘアピンも右側に付け直して、ようやく素の「白雪希美」が姿を現す。

 学園のマドンナ、その無垢と妖艶さの狭間で多くの男子を告らせては玉砕させ続けてきた相手が目の前にいるというのに、いや、違うか──そんな相手が目の前にいるからこそ、俺は警戒しているのかもしれなかった。


「キミ、大変じゃない?」


 白雪希美は無遠慮に俺が作った模擬テストの解答用紙を手に取ると、小首を傾げて藪から棒にそんなことを問いかけてくる。


「なんの話だ」

「祈里に勉強教えるの。あの子、ほら。要領悪いでしょ」


 くすくすと笑っていた白雪希美に、恐らく悪気はなかったんだろう。

 あるいは、手間のかかる妹が世話になっています、ぐらいの意味を込めた冗談だったのかもしれない。

 だが俺は、どういうわけかその冗談を笑い飛ばすような気分にはなれなかった。例えそれが事実であったとしても、だ。


「……白雪は白雪なりに頑張っている。要領の良し悪しは関係ない」

「うん、それはそうかもね。祈里が六十点台取ってるの、私も初めて見たから」

「……そうか」

「ふふっ……自分で言うのもなんだけど、私にここまで興味ないのって、キミくらいかもね。つれないなぁ。そうだ。これでも私、学年次席なんだけど……キミに勉強教えてもらったら、首席になれるかな?」


 白雪希美は楚々とした笑みを絶やさずに、教えがいはあると思うよ、と言葉の最後に付け足した。

 教えがい、か。

 噂がどこまで本当かは知らないが、女子で一番の成績を収めているのが白雪希美なら、本人の次席という申告が真実なら、確かに少し教えるだけで俺の座を脅かすレベルに達するのかもしれない。だが。


「……俺は」

「それとも、首席の座を譲りたくない? ふふっ、どっちでもいいけど……私が祈里と変わってあげた方が色々と楽しいと思うけどなぁ」


 ──キミにとっても、私にとっても。

 なに一つ疑うことなく、白雪希美はくすくすと笑いながらそんな言葉を口にした。

 どこまでが冗談で、どこまでが本気なのかさえわからない言葉だ。なんだか煙に巻かれているようで、白雪希美と言葉を交わせば交わすほど、底がわからなくなっていく。


「……お、お……お姉……ちゃ……ん……?」


 そして、俺の背中にしなだれかかって囁きかけてきた白雪希美の姿を不幸にも目撃してしまったのが、ちょうど席まで戻ってきた白雪だった。

 この世の終わりみたいな表情をして、愕然とした白雪が、伸ばしかけた右手を下ろす。

 違うんだ白雪、誤解だ。そしてまずはいい加減俺から離れろ白雪希美。


「祈里と仲がいい男の子がいるって話を聞いたから、どんな人か見にきたけど……ふふっ、いい人だね」

「……ぁ……ぇ……」

「私も勉強教えてもらいたくなっちゃったな。あ、キミの気が向けば、いつでもお誘い待ってるから。きっと教えがいのある教え子になるよ、私」


 じゃあね、と言い残して、白雪希美は優雅な足取りで図書室を去っていった。

 絶望に染まった表情で悲嘆に暮れる白雪と、形容しがたい感情にもやもやとしたものを抱える俺の二人が、世界から切り離されたかのように重苦しい沈黙に取り残される。

 白雪希美の言っていたことがどこまでが冗談で、どこまでが本気なのか、俺は未だ、わからずにいた。

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