第20話 昨日と少し違う今日
アラームに叩き起こされて目を覚ます。
朝食を済ませ、身だしなみを整えて家を出る。
そして、駅まで歩いて学校へ。繰り返す毎日のルーチンワークじみた、なに一つとして面白みのあるわけじゃない過程が、今日は、今日からは少しだけ違っていた。
「……流石に眠いな」
約束通り、白雪が住む街で一旦降りるために、アラームの時間を少しだけ早めて、一本早いものに乗ることにした、ただそれだけのことだ。
些細で小さな、変化とも呼べないような時間のささくれじみたものでもある。
一本前の電車に乗るため、睡眠時間も前倒しにしたつもりではあるが、生活リズムとしてそれが定着するのには時間がかかりそうだった。
それでも、不思議と嫌な気はしない。
交わされた約束は守らなければいけないというのもある。それはもちろん大前提だ。
だが、ただそれだけじゃないような気もして、その感情が、言語化できないなにかが自分の中で咲きかけの蕾のように綻んでいるような気分にさえさせられる。
人間の感情には解がない。
些細なことで喜ぶ人間もいれば、怒る人間もいる、悲しむ人間だってそうだし、楽しむ人間もまたその通りで、喜怒哀楽の基準だとか、どこからが喜びでどこからが楽しみなのかの線引きなんてものは、意外と曖昧なものだったりするのだ。
四つに括れない感情だってある。証明できる根拠はなく、ただ俺の経験則としてそう感じるだけの話だがな。
つまるところ、なにがいいたいのかといえば、白雪を迎えに行くことに俺はよくわからないが前向きな思いを抱いているということだ。
その感情の根源も、名前も知らないがな。
いつか歩いた道を、いつも歩いている道をなぞる足取りは不思議と軽やかで、思っていたよりも早く駅まで着いてしまったほどだった。
浮かれているのか?
自問する。まさか、いや、そんなはずはない。
白雪の距離感がバグっているせいで忘れそうになる時がたまにあるが、俺たちはそもそも友達同士、そういう間柄でしかない。その範囲で力になれることならなんでもする、というだけだ。
電車に乗って、学校の一つ前で一旦降りる最中、俺は悶々とそんな言葉を自分へ言い聞かせるように頭の中で繰り返していた。
ダメだな、一人で考えすぎると、思考は煮詰まって焦げついてろくなことにならない。
なら、考えそのものを一旦保留にしておこう。逃げの姿勢は恥かもしれんが役に立つと、どこかの誰かが言ってたからな。
益体の欠片もないようなことを考えつつ、手にしているスマートフォンからメッセージアプリを立ち上げる。
流石に学校に通うだけだ。いくら白雪でもこの前みたいに楽しみすぎて寝坊した、なんてことはないだろう……が、念には念をと人はいう。
つまりはそういうことだ。メッセージアプリに「起きてるか」と短文を打ち込んで、もう片方の手に持った単語帳へと目を通しながら返事がくるのを待つ。
「……ん、来たか」
二分も経たないぐらいだったんじゃなかろうか。俺のそっけないメッセージに対して、白雪は『今向かってます!』とエクスクラメーションつきで返してきた。
テンション上がってるな。
文面とおどおどした口調の間でギャップを感じていると、再びマナーモードにしていたスマートフォンが震えて、メッセージが通知と共に浮かび上がる。
『今日はちゃんと起きられました!』
「……なら、なによりだな」
寝坊して遅刻という最悪の事態は避けられたようだ。
そんな他愛もないことを自慢げに打ち込んでいたのであろう白雪を想像すると、自然と口元が緩んでくる。
なんだろうな。藤堂のやつがしょうもない話題でダル絡みしてくるときも似たようなものなのに、白雪の場合、微笑ましいと思うのは。
日頃の行いというやつだろうか。
深夜に突然好きなおにぎりの具について語り合おうぜー、とかそんな文面が飛んできてみろ、金曜日の夜じゃなかったら既読スルーだぞ。
三木谷からもたまにメッセージはくるが、大体カラオケの欠員補充とかよくわからん噂話についてどう思うだとかそういうことばかりだから、やはり日頃の行いは大切なんだな、全く。
「……こ、九重……君……!」
白雪の声が聞こえたのは、数少ない友人のメッセージ事情を思い出して形容しがたい気分になっていた時だった。
寝坊せずに起きられただけでも随分頑張ったというのに、わざわざ急いでくることもないと思うんだがな。
それだけ楽しみにされていた……と考えるとなんだかむず痒いような感じだが、悪い気はしないから俺も大概浮かれているのかもしれなかった。
「……急がなくてもよかったんだぞ、白雪」
「……え、えへ……そ、その……こ、九重君と、が、学校に行くの……楽しみ、で……」
通学定期を拾った時は偶然同じ時間帯の電車に乗り合わせていたが、白雪と合流するのは大体正門前でのことだったからな。
俺が駅から高校までの道中じゃ歩き勉強してることを考えると、今までは、少し遅れて一本遅い電車に乗っていたのかもしれん。
などと白雪の通学事情を考えたところで、今日からは同じ電車に乗るんだから意味はあるまい。
「……そうか、なによりだ」
「……はい……え、えっと……い、行きましょう……九重君……っ……!」
やっぱり左腕は定位置というかベストポジションなんだな。
テンションが上がった様子でしがみついてきた白雪と、そして抱きつかれることに大分慣れてきた俺自身に苦笑しつつ、歩調を合わせてホームに向かう。
ただ、通勤通学の時間帯というだけあって駅を利用する客は多い。離れないように、という意味では、白雪の行動は効果抜群だ。
俺たちは人波に流されるように電車へと乗り込んで、高校のある駅まで運ばれていく。
ベルトコンベアのラインを辿っているような、そうでなければ出荷されていく子牛のような朝の光景だが、そこに白雪がいる、というのは、些細なようで大きな違いだった。
白雪を乗車口側にして、盾になるかのように向かい合った俺たちは、時折電車の揺れで押し潰されそうになりながらも、目的の駅に辿り着く。
「大丈夫か、白雪?」
万が一、なにかがあったら困る。
ようやく人波から解放された駅の出口で俺は、どこかぼんやりと夢見心地な様子で宙を見ていた白雪にそう問いかけていた。
「……ぇ、ぁ……ご、ごめんなさい、ぼーっとしてて……」
「熱でもあるのか?」
「……え、えっと……そ、そうじゃなくて……こ、こんな風に……お、お友達と……一緒に、学校に行くの……初めて、で……ゆ、夢……見てるみたいだなぁ、って……」
涙を眦に滲ませながら、白雪はそう言って控えめにはにかんだ。
夢、か。重い言葉だ。
どれだけの間、白雪はひとりぼっちだったのだろうと考えると、その夢になれたのが俺でいいのか、とさえ思えてくる。だが。
「……夢になったら堪らないな」
「……は、はい……夢は……い、嫌……です……」
「なら、また手でも繋いで歩くか」
頬をつねるよりもいいだろう。
そうつけ足した俺の冗談に、白雪はくすりと可愛らしく笑って、浮かんだ涙を拭った。
その様子に、俺もまた安心する。
言葉を交わすことなく、俺たちは引かれ合うように、指先を絡め合って手を繋いだ。
昨日はぎこちなかったその行為が、驚くほど自然に、雨粒が地面に落ちるかのようにできていたことに我ながら驚く。
どうやら白雪もそれは同じだったようで、丸く大きな瞳を見開いていた。
「あったかい……やっぱり……夢じゃ、ないです、ね……」
「そうだな、紛れもなく現実だ」
「……えへ……よかった、です……」
そして、白雪は穏やかに笑う。
そこから悲しみや憂いの影が、完全に消えたわけじゃない。だとしても、俺たちを繋ぎ止めている奇妙な縁は、俺たちにささやかだが、不可逆な変化を確実にもたらしていた。
少しだけ、ほんの少しだけ。会ったときよりもよく笑うようになった白雪を横目に、俺はそんな新しい今日と、今までの昨日との違いを、脳裏で確かめるように数えていた。
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