第19話 少しだけ違う明日

 手探りの果てに見つけたライトノベルは、市の図書館らしくどことなく児童文学のような空気を醸し出している作品だった。

 喋る自動二輪と旅をする話の作者が書いた別なシリーズだ。こっちの方も俺は嫌いじゃない。

 続編もあるらしいが、そっちの方は借りられているのか、それとも単純に置いてないのかはわからないものの、見当たらないことだけは確かだった。


「……こ、このシリーズ……は、初めて……読み、ます……」

「そうか……俺は読んだことあるが、何年前だったかな」


 そこまで歳食ってないはずなんだが、いつ読んだのかは判然としない。多分、というか確実に中学の時ではあるはずだ。

 ぼんやりとあらすじは覚えているから、読んだことは確かなんだろうが。

 勉強漬けになっていた三年間だったから、記憶の容量の多くをそっちに持っていかれているのかもしれない。


 だからといって、後悔するつもりは微塵もないがな。

 とりあえず読んだ記憶が朧気にでもあればそれでいいだろうと自分を納得させながら、俺たちは空いている席を探して歩く。

 しかし、休日というだけあって、図書館にもそれなりに人が集まってるな。満席御礼ってことはないだろうが。


「……ぁ、ぇ……えっと……九重君……ここ……」

「空いてるな……よくやった、白雪」

「……ぁ、そ、その……わ、わたしなんて……えへ……」


 褒められて嬉しかったのか、謙遜こそしているが白雪の頬が朱色に染まった。別に大したことを言ったわけじゃないにもかかわらず、だ。

 褒められ慣れていない……んだろうな。

 あまり、というよりは確実に触れてほしくないことだろうから、決して口には出さないが、白雪の人生を語るのであれば、恐らくどこをどう通っても白雪希美の存在が立ちはだかってくる。


 姉と常に比較され続けて、「白雪希美じゃない方」なんて呼び名が罷り通るような人生がどれだけ過酷なものだったかは、想像するに難くない。

 褒められるどころか、比較され続けて常に貶されるとまではいかなくとも、期待外れだと言われ続けてみろ。そんな経験がなくたって、想像するだけで堪えるのに、その当事者になってきたのが白雪だ。

 だから、本の存在は、物語の存在は、白雪にとっては俺が想像するよりも遥かに大きく重たいものなのだろう。


 俺の隣に腰掛けて、肩にしなだれかかってくる白雪を受け止めながら、ページを捲る。

 普段より文字を読むペースを落として、一文一文を噛み締めるように目で追っていくのも中々悪くない。

 破天荒で活発なヒロインと、どっちかといえば奥手だがやる時はやる主人公。王道の冒険活劇を、同じ幻想を俺と白雪は今、見ているのかもしれなかった。


 群青の空を駆け抜けるプロペラの音。

 たなびく旗と、山並みを縫って飛ぶ翼。

 そして、主人公とヒロインが歩む、この世界とは微妙に違った惑星の大地のその香り。


 全てが脳裏で明滅する。

 比較的ゆっくりとしたテンポで進行する物語なのにもかかわらず、いや、だからこそ情景が鮮明に浮かんできて、それでいながら戦闘の迫力も損なうことはない。

 同時に、凄まじいと思う。文章でこれだけのメッセージや情報のディテールを行き詰まることなく読者の頭に流し込めるのは。


 どの描写がよかったとか、キャラクターのどんなところがいいだとか、そんなことを小声で囁き合っていられたのも最初だけだった。

 圧倒される。ただただ洗練された、文章の、物語の持つ「力」とでもいうべきものに。

 気づけば俺たちは、まるでテレビに食いつく子供のように、一冊の本を二人で隅の隅まで食べ尽くすように読み込んでいた。


 そうしてあとがきを読み終えて本を閉じるまで、一体何時間が経ったかはわからない。

 だが俺たちの間で流れていた時間と、外で流れていた時間は激しく乖離していたんじゃないかと思えるほど、読み終えてみればあっという間に感じられた。

 いつもは息抜きだからと速読気味に読んでいるが、こうしてゆっくりと噛み締めるように文章を読み込むのはそうだな、いい。とても心地いい時間だった。


「……ぁ……もう……お外……ま、真っ暗、です、ね……」

「……そうだな、すっかりのめり込んでいた」

「……はい……わ、わたしは……この本……は、初めて読みました、けど……とっても……とっても、面白かった、です……っ……!」


 声を抑えつつも、興奮気味に白雪が語る。

 無理もない。俺だってすっかり没入していたんだ、ここが図書館でなければ感想戦と洒落込んでいたところだろう。

 だが、あくまで図書館ではお静かに、だ。


「……そうか、俺もだ。前に読んだときより、面白かった」

「……ぁ、ぇ……そ、それって……」

「……帰ろうか、白雪」


 蛍の光が流れる前に、お暇するとしよう。

 少しだけ続く言葉を濁した俺と、それを察していたのか、粉雪のようにふわりとはにかんだ白雪は頷き合って立ち上がる。

 そして俺たちは、本をもともとあった棚に返して、図書館をあとにした。


 気づけば空は夕焼けさえも塗り潰して、夜の帳が下りきっている。

 スマートフォンで時間を見れば、それも納得がいく数字が、画面に瞬いていた。

 こんな気分がいいときに、時間を気にするのもまた風情がない。苦笑と共にスマートフォンをポケットにねじ込んで、白雪が左腕に抱きついてくるのを待つ。


「……白雪?」


 だが、白雪はぴたりと足を止めると、いつもなら一も二もなく飛びついてくるというのに、ただ静かに夜空を見上げていた。

 星座でも見ているのだろうかと同じ方を向いても、そこに星と星の繋がりは見出せない。

 なら、白雪はなにを見ていたのか。俺がそう問いかけるより早く、しかしゆっくりと振り返って、うっすらと涙を浮かべながら微笑みかけてくる。


「……こ、九重君……っ……」

「……どうした、白雪……?」


 なにか怒らせるようなことでもしたのだろうか。いや、怒っているようにはとても見えないからその線はないのかもしれない。

 だが、わからないから困惑する。

 そしてわからなくとも、ただ事実としてその琥珀に吸い込まれるように、白雪の大きな瞳に俺は、魅入られていた。


「……き、今日は……わ、わたし……とっても……とっても、楽しかった、です……っ……!」

「……ああ、俺もだ」


 冗談抜きに、掛け値なしにそう思う。

 映画については微妙なところだったが、昼飯と図書館で十分お釣りがくる。それに、原作漫画をいつか貸してもらおうという目標もできたからな。

 その感謝も込めて、白雪の言葉を首肯する。


「……で、でも……そ、その……っ……」

「……なにか、気になることでもあったのか?」

「……ぁ、ぇ……ち、違うんです……そ、その……九重君……」

「ああ」

「……わ、わたし……わがままを言って、いいです……か……?」


 白雪はおずおずと、なにかに怯えるように俺へと尋ねる。

 きっと、精一杯の勇気を振り絞って問いかけてきたのだろう。瞳を潤ませながら、ぐっ、と固唾を呑み込む様子からもそれは窺えることだった。

 わがまま。それがどの程度のものなのかはわからなかったが、今日はとことんまで白雪に付き合うと、そう決めた。そう約束した以上は、最後までそれを守らなければ筋が通らない。


「ああ、俺にできる範囲のことなら」

「……っ……ぁ、ありがとう、ございます……えへ……やっぱり、九重君は、や……優しい……です……」

「……そうか?」

「……はい……だ、だから……わたし……あ、甘え……ちゃい、ます……その……っ……!」


 一呼吸を飲み込んで、白雪は途切れ途切れの言葉を繋ぐ。


「……こ、これから……そ、その……い、一緒に……学校……か、通って……くれます、か……? わ、わたし……学校……嫌、ですけど……こ、九重君と……一緒なら……が、がんばれる……気が、するんです……」


 白雪からのお誘いは、要するに俺と一緒に登校してくれないかと、つまりはそういうことだった。

 俺の最寄りは白雪が通っている駅の一つ前だ。一本早く電車に乗れば、白雪と待ち合わせることも不可能ではないだろう。

 だが、問題の本質はそこじゃない。本当は、学校にくるのも嫌だったのか。


 それもそうだろうな。常に白雪希美と比較され続けるような場所にいたいとも思わないだろう。俺が白雪の立場なら、間違いなくそう思うだろうよ。

 一本早く電車に乗るということは今よりも少しだけ早起きしなければならないということだが、それのなにが問題になろうか。

 俺が、俺なんかが、白雪にとっての力になれるのなら。救いを求めて手を差し伸べてきたのなら、それを振り払うような真似はできまい。


「お安いご用だ」


 安請け合いだろうがなんだろうが、知ったことか。

 いつかのように理屈を追い越して、感情が先に走り出す。メリットもデメリットも考えず、ただ直感が導き出した答えだけに従って。

 俺はただ、白雪の願いを叶えてやろうと、その言葉の全てを肯定していた。


「……っ、ぁ……あ、ありがとう、ご……ございます……っ……わた、し……」

「……泣くな、白雪。それぐらいならさっきも言ったがお安いご用だ」


 ──友達だろう、俺たちは。

 色々と距離感がバグっているこの関係性をそう呼ぶのが正しいのかどうかは知らんが、正しさなんてものはそこに求めちゃいない。

 俺たちがそう思っているから、それでいい。ただそれだけだった。


「……そ、それと……そ、その……」

「……他にもなにかあるのか?」

「……ぇ、ぁ……は、はい……その……手……」

「手?」


 なにか変なものでもついていたのか?

 自分の右手を見下ろして、俺は首を傾げる。

 だが、そこになにかが付着しているような気配はなかったし、手汗をかいているわけでもなかった。


「……そ、その……手……手を……繋いで、くれます、か……?」

「それぐらいなら別に構わんが……」


 腕に抱きついているのになにを今更、と思うところがないでもないが、白雪がおずおずと差し伸べてきた手のひらを包み込むように握ろうとしたときだった。

 違う、とばかりに白雪は手を引っ込めて、首を左右に小さく振る。

 手を繋ぎたいんじゃないのか、と困惑する俺の視線に、白雪はあわあわと身振り手振りを交えて釈明の言葉を口に出す。


「……ぁ、ぇ……そ、その……違うんです……こ、九重君と……手を繋ぐのが、い、嫌とかじゃなくて……そ、その……あの……ゆ、指……」

「指?」

「……は、はい……ゆ、指を……絡めて、ほしいんです……」


 なるほど。俗にいう恋人繋ぎというやつか。

 恋人……でいいのかどうかはわからんが、そもそも白雪の基準と距離感はバグってるんだから今更だ。

 俺は小さく頷くと、要望された通りに指を絡めて、白雪と手を繋ぐ。


「……これでいいか」

「……ぁ、ありがとう……ございます……えへ……」


 細くてしなやかな指先だ。

 それが直に伝わってくる。

 どことなく気恥ずかしさを覚えながらも、俺たちは指を絡めて手を繋いだまま、また一つ約束を交わして家路に着く。


 昨日と今日と、少しだけ違う明日を迎えにいくために。

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