第2話 白雪祈里との邂逅

 手作りの単語帳をめくって、英単語とスペルに目を通す。

 何回やったか数えることすら億劫になるほど繰り返してきた作業だ。たまたま今目に映っている「equality」という単語の意味も、暗誦できるくらいには読み込んでいる。

 平等。同等。概ねそんなところだ。


 同等。中学生から高校生になったことで、バラバラだった生徒たちの学力は概ねその言葉に収束するんだろう。

 だからこそ、誰もに、平等に与えられている「時間」という資源は有効活用しなきゃならない。

 例えば、つい見たくなってしまうのはわかるが──手元のスマートフォンを見ているような時間で、代わりに単語帳や参考書へ目を通す。


 通勤や通学なんて、大した時間じゃないかもしれない。

 だが、その隙間時間は、人生の余剰とでも呼ぶべき時間は、一年でどれほど蓄積する?

 塵も積もれば山となるというように、目標があるのなら、そんな他愛もないような時間にどれだけ努力したかが最終的にモノをいうんだ。だったら、一分一秒たりとも無駄にはできるまい。


 そうだ、無駄にはできない。こんな、なんの益体もないことを考えている時間すら、だ。

 入学式を迎えてから数日、まだ身体に馴染んでいない通学電車に揺られながら、俺は再び単語帳に視線を戻す。

 何度も繰り返した反復作業だとしても、復習を怠るやつはどこかで足元を掬われるんだ。人間、なにをするにも差し当たっては基礎が大事ってことだな。


『間も無く──』


 車掌のアナウンスが聞こえてくる。

 続く駅名は、俺が通っている高校の最寄りだった。

 危なかったな、あのまま没頭していたら一駅逃していたかもしれない。まだ通い慣れてない証だ。


 同じ制服を着た生徒たちが、サラリーマンが、我先にと、どこか浮き足立って降車を急ぐ。

 確かに、これもまた気持ちはわからんでもない。

 長い人生、そんなに急いでなんになるとはいうが、遅刻ギリギリで乗ってきた人間だっているんだ、理由は違えど俺と同じで一分一秒が惜しいんだろう。


 だったら遅刻寸前になるスケジュールを組むな、という話かもしれないが、人間がいつだってベストパフォーマンスを発揮できるとは限らない。寝坊する日だってあるだろう。

 そんな当たり前のことを考えながら、俺もまた人波に呑み込まれるように、駅のホームへと押し出されていく。

 座る席を確保できてれば、ある程度降車のタイミングは選べるかもしれないが、立っているとそうもいかない。ぼんやりしていたら、踵を踏まれたり睨みつけられたりと貧乏くじを引く羽目になる。


 露骨に舌打ちされたり、足を踏まれたりすれば文句の一つも言いたくなるが、長いものには巻かれろという通り、あるいは郷に入っては郷に従えという言葉がある通り、暗黙の了解じみたものがあるんだから仕方あるまい。

 あるいは同調圧力ともいうな。

 心底気疲れするが、俺一人が文句を言ったところでなにかが変わるわけでもない。


 だから、押し出されるままに、流されるままに、人波に揉まれながら階段の先にある改札口へと運ばれていた、そのときだった。


「あ、っ……」


 か細く、甘い声音が微かに鼓膜を震わせる。

 声のした方に振り向いてみれば、同じ高校の制服を着た女子の手から、おそらくは定期入れと思しき革製の物体がこぼれ落ちる光景が、視界に飛び込んできた。

 だからどうだってことはない。定期を落とすなんてよくあることだ、俺がわざわざなにかしなくたって、親切な誰かが拾ってくれるだろうよ。


 そんな具合に目を逸らして、改札口のある階へと、階段を上りきった先で俺はとりあえず列を離れて、手に持っていたままの単語帳を学生鞄にしまい込む。

 AからZまで、辞書にある英単語とその意味を片っ端から書き写したこれは、俺の財産みたいなものだ。数学の公式版とか、古文やら漢文に対応したのも作ってある。

 命よりってほどじゃないが、なくした日には財布を落としたぐらいの喪失感は味わうことだろう。


「……全く、冗談じゃないな」


 ぼそりと呟く。列を離れて改札口に殺到する人の波を見ると、その多さには流石にうんざりしてくる。

 これが三年間続くとか正気か?

 だったら徒歩で通えば解決するんだろうが、ただでさえ短い睡眠時間を更に削るような真似はしたくない。授業中に居眠りなんてしたら本末転倒もいいところだからな。


 とはいえ、頃合いを見計らって俺も改札を出ないといけないんだが。

 もたもたしていると次の電車が到着して、第二波に巻き込まれる羽目になる。

 だから、可及的速やかに俺もこの場を離れる──そのつもりだった。しかし。


「……っ、ぐすっ……えぐっ……」


 聞こえてきたのは、俺と同じように列を離れたさっきの、通学定期を落とした女子が啜り泣く声。

 定期を探しにホームへと戻ろうにも、すし詰め状態の電車から降りてきた連中の多さに尻込みしているのだろう。

 ちらりと腕時計を確認すれば、第二陣が到着するまでの猶予はそんなに残されていなかった。


 覚悟を決めて、顰蹙を買うこと覚悟で戻らないとどうにもならんぞ。

 それに誰か、定期なんて大事なものを落としたんだから拾ってくれててもいいだろう。それぐらいの親切を他人に期待したって許されそうなものだが、現実は非情だった。

 とうとう困り果てたのか、壁際に三角座りでへたりこんだその女子は、嗚咽を上げて啜り泣く。そんな彼女を、恐らくは意図的に視界から外して、急ぎ足の学生やサラリーマンは改札に殺到する。


 そう、意図的に。

 面倒ごとには関わりたくない。あるいは退っ引きならない事情で急いでいる時に、泣いてる誰かの面倒なんて見ている余裕もない。

 誰だってそう思う。俺だって、そう思っていた。


 ──それでも。

 気づけば俺は、到着した第二陣に逆らうように、ホームへと下る階段を、改札口へと上る階段を逆走していた。

 どこかで聞いたような泣き声。どうしようもなくて、どうにもできなくて、どうにもならないとわかった時にこぼす涙の雨。


 その冷たさを知っていた。わかっていた。

 理解であり納得として、理論じゃなく実感として。

 強いていうなら、そんなところだ。


「チッ……」

「……すみません……!」


 迷惑がる連中へと心にもない謝罪を投げかけながら、階段を逆走してホームに戻る。

 電車は既に次の駅へと向かっていて、人もまあまあ落ち着いている方ではあったが、それでもまだ混雑しているのには変わりなかった。

 何度も「すみません」を繰り返しながら視線を床に落として身を屈めながら、俺は一瞬だけとはいえ記憶に残っていた、革製の定期入れを探し回る。


 なんでこんなことしてるんだろうな。

 思わず苦笑してしまうほど、自分でも馬鹿馬鹿しく思えてくる。浪費、無駄、非効率。

 この時間でどれだけの公式やら英単語を頭に刻み込める? そう考えれば、人生における損失は計り知れない。


 それでも、誰もやらないなら。

 誰もが見て見ぬふりをするぐらいなら、俺がやる。きっと困っていた誰かを見捨てて去っていく方が、百倍は後悔するだろうからな。

 根拠なんてどこにもない。ただそう感じるだけの、論理性を欠いたナンセンスな話だ。


 衝動に任せて人波を掻い潜り、視線を下に向けて探していればその定期入れは、踏みつけられて、蹴り飛ばされて、ホームドアの近くにまで追いやられていた。

 あと一本電車が来ていたら、隙間に飲み込まれて線路に落ちていたことだろう。


「白雪……か」


 定期券だけじゃなく、学生証までセットになってやがった。

 だが、ある意味手間は省けたか。定期入れについていた泥汚れをハンカチで拭き取りながら、見えた名前とその顔写真がさっきの女子のそれと一致することを確認する。

 全く、と、自分のことのように安堵の息をついて、第三陣が来る前にそそくさと改札口に戻っていた。


「ぐす……っ……えぐっ……」

「……白雪で合ってるか、あんたの名前」

「……ぁ、ぇ……?」


 まだ壁際で三角座りをしながら泣いていた、推定白雪何某に、俺はできる限り汚れを落とした定期入れを差し出す。


「……ぇ、えっと……これ……」

「……あんたのだろ、ホームに落ちてた」


 覗き込んだ、丸く大きな琥珀色の瞳は、涙に揺れて潤んでいた。ばさばさとした睫毛も長い。

 三日月を模したヘアピンがあしらわれた長い亜麻色の髪には枝毛一つない。客観的に見ても、美少女と呼べそうな外見だ。

 と、不躾なことを考えながら俺は、白雪何某が困惑しながら定期入れを受け取ったのを見届けて、踵を返す。


「……ぁ、あの……っ……!」


 その瞬間だった。

 微かな、人波に飲まれて消えてしまいそうな声で、白雪何某が俺を呼び止める。

 なんだ、まだ用事でもあったのか?


「……なんだ?」

「……ぁ、あの……お名前……その……」

「ああ……」


 別に、名乗るほどの者じゃないし、名乗り出るようなことでもない。

 だが、確かに一方的に相手の名前を呼んでおいて、自分から名乗らないっていうのは薄情というか、なんとなく筋が通らない気がするな。

 だから、涙目を凝らして俺を見る白雪何某の目を真っ直ぐに見据えて、俺はただ淡々と答える。


「……九重。九重京介だ」


 好きでも嫌いでもない自分の名前だ。

 誰かに訊かれて名乗ったのなんて、この前の、なんの記憶にも残らない自己紹介を除けば何年ぶりだろうな。

 とはいえこれで、義理は果たした。ひらひらと手を振りながら俺は改札を抜けて、通学路へと歩を踏み出した。なんの変哲もない、勉強のための学生生活を送るために。

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