「日本語の通じない日本人達 その2」
調剤併設型ドラッグストアの多くは、日用品の売り場より先に調剤室が閉まる。
夜中に処方箋を持ち込もうと深夜まで営業しているドラッグストアに行ったら、調剤の受付が終了していたという経験をしている人は多い。
運営の立場から言えば、ひとえに薬剤師の人件費と、時間帯あたりに処理される処方箋の数を比較し、費用対効果を考えた結果としてこの形になっているのだが、検索エンジンの店舗情報に営業時間22時、調剤受付と書いてあるのに、店舗に行くと調剤の受付はうlれ20時まででした、というトラップは法的にもグレーゾーンである。
「処方箋をお預かりして処方箋を受付たことにはできるので、4日間の処方箋の期限を気にせずお手空きの時に再来局ください」というのが言い分ではあるが、近隣の医院が営業を終了した夜間に受け付ける処方箋は、急な怪我や感染症による治療である可能性が高く、即時薬を欲する場合が多い。
「処方箋調剤を目当てで来局したのに、調剤室が閉まっていて薬が手に入らないので、仕方なく市販薬で対応する」という方法で一般用医薬品の売上を伸ばそうという意図や、そこまででなくとも、単純に来店機会の獲得を狙う向きが見える。
という邪推はさておき、シメジがいる店舗もご多分に漏れず、店舗自体は22時まで営業しているが、調剤室は20時で鍵をかける。
「おーい」
21時、調剤室は施錠され、電気も消えており、オマケに待合スペースに簡易の柵までしてあるのに、調剤室に大声で声をかける者がいる。日用品売り場のスタッフが対応する様子はない。
おりからの「ゲキヤクの副作用」により滞った業務、主に服用薬剤管理指導歴(通称:薬歴)の記入のために、シメジが調剤室に残っているのを知っているためだ。
シメジは小さく身をかがめ、薬歴記入用の端末のモニターに隠れて、居留守を決め込む事にした。
残務処理の為に残業をしているのに、この上業務を増やすのは本末転倒であり、ついでに言えば、薬歴入力用の端末以外のすべての機械の電源が落ちている。
処方内容にもよるが、処方箋の内容を入力し保険適応用のレセプト(診療報酬明細書)を発行するための端末や医薬品情報や領収書を印刷する専用のプリンターに、場合によっては粉薬や錠剤を分包する機械、粉薬や軟膏の重さを測る電子天秤等をイチから立ち上げ、入力、調剤、鑑査まで、全て1人で行うとなれば、膨大な手間がかかるうえ、ミスの発生率も格段に高まる。
シメジは、責任を取ることのできない対応をしないためにあえて隠れたのだ、決して「面倒くさい」から逃げたのではない、決して。
ところが、声の主は、柵を乗り越え、待合室に侵入した、角度が変わってしまえば、パソコンのモニターだけで成人男性の姿を隠しきることはできない。
仕方ない顔を上げると、そこには3人の男が立っていた。不機嫌そうな顔のガタイの良い30代くらいの男性2人を背後に、70代の男性がヘラヘラとした笑顔をこちらに向けている。
シメジには、その笑顔に見覚えがあった。先刻、本社から連絡のあった「人を連れて」文句を言いに行くと言っていたジイさんだ。
「なぁおい、お前に言われて医者に行ってきたんだ。もう薬が無いし、すぐ無いと困る、なんとかしてくれんか?」
シメジの敗因は明白だった。
まず、1日の業務を終えてから、溜まった薬歴を3日分解消した疲れで、判断力が鈍っていた。
次に、後方に2人も従えていたにもかかわらず「覚悟しておけ」と言い放った様な相手が笑顔でこちらに処方箋を差し出して来た事に安堵したのだ。彼の飲み薬は、前立腺癌の抗がん剤1種類のみで、処方箋さえ適正であれば揃えるのもその後の処理も容易い。残業の後とはいえ、簡単に解決出来る内容だったのだ。
最後に、わざわざパーテーションのないカウンターを選んで、少し遠くから差し出された処方箋を、それが狙いだとも気付かず、カウンターから上半身を乗り出して受け取ろうとした事だ。
シメジの身長は日本人男性のきっかり平均値であり、カウンターから身を乗り出してほんの少しだけ、カウンターに体を預けて足を空中に浮かせる必要があった。
ジイさんは差し伸ばされたシメジの腕を掴むと、およそ老人とは思えない力で自身に引き寄せるように引いた。
同時に後ろの男達が左右に展開、片方はシメジにサルグツワを掛け、もう片方は、体を引かれてカウンターの外に出たシメジの腰を担ぐと、両膝と足首を手早くダクトテープで拘束する。
そして口と足の拘束を待たず、ジイさんはシメジの手首をひとまとめにして、結束バンドで締める。
まさに悲鳴を上げる間もない訓練された所作を前に、シメジはなす術もなく簀巻きにされて、男2人にガッチリと担ぎ上げられた。
混乱と恐怖で、シメジは身動きを取れなかったが、思考回路は停止しなかった。
「ここは調剤併設型のドラッグストアだ、出入り口になるのは正面と裏の搬入口だけ、どちらにしても距離がある。ここは日用品の売り場から死角になっているが、ここから人目につかずに俺を運び出す方法は無い、どうする気だ?」
そんなことを考えたのが表情に出たのか、ジイさんは担がれたシメジの肩をポンポンと叩き
「悪いな、普段はここまでやらねぇんだけどよ。」
と言うと、待合室の奥へと向かう。そしてジイさんの行く方を見たシメジの顔に、更なる絶望の色が浮かんだ。
治安の良い日本に限らず、セキュリティは侵入者を防ぐのに秀でているが、出ていく者を拒む構造にはなっていない。
待合室の奥にある窓はそれほど大きくはないが、簀巻きにした人を押し出すには充分だった。
「頭からいくから気を付けろよ。」
ジイさんの笑顔が朗らかなものから下卑たものへと変わる。
簀巻きの状態で何をどう気を付けろというのか、とシメジは憤ったが、そんな事が些事だと言える程に、事態は刻々とシメジに不利な状況になっていく。こうなってはシメジがいなくなった事に誰も気が付かずに攫われてしまう。
焦り、みっともなく身をよじろうとするが、やはりなす術もなく持ち上げられ、シメジは窓から頭と胴を出された。
せめてもの抵抗にと、体を「く」の字に曲げて窓にへばりついたがいくらも保つまい。
一度、強く押し出されるような感覚の後、シメジの背後で、ドサりと何かの落ちる音がした。
「なにやっ」
まで言ったところで男の1人が沈黙する。
最後にサンドバッグを叩くような音がして、ジイさんの「かはっ」と肺から息を絞り出す様な声と、倒れる音がした。
シメジは振り返りたかったが、布団叩きの前にベランダに掛けた布団の様な格好で安定してしまい、上手く動く事が出来ないでいた。
「引っ張ってやるから、力抜け。」
背後で声がする。その言葉にシメジがいくらか理解を示し、力が抜けるまで待ってから、声の主はシメジのズボンのベルトを掴んで、シメジを待合室まで引き戻した。
「よう、相棒。」
足のダクトテープを解きながら、声の主は事も無げに言う。まるで毎日会っている同僚と交わすようなこの挨拶は、シメジにとって実に10年振りに聞くものだった。
「タケちゃん?」
攫われるまさにその瞬間にすら思考を止める事の無かったシメジの頭脳は遂に回転を諦め、ようやく古い友人の呼び名を捻り出した。
スパイクショートを作るのに失敗した虎狩り頭を金髪に染めてごまかし、タイを着ける想定の無い胸元の開いたYシャツから厚い胸板を覗かせ、落ち着きの無い本人に全く似合わない落ち着いたグレーのジャケットの袖から出たゴツい手で、解いたダクトテープをコネコネと小さく丸めているこの男、名を「松田 武(まつだ たける)」という。
「おうよ、感動の再会に浸りてぇとこだが、そんな場合でもねぇ。とりあえずココを離れるぞ、足あるか?」
「車のキーは休憩室のロッカーだ。」
考える事を諦めたシメジは、単純作業のように、自分に言い聞かせるように返事をする。
「1分で戻れ。」
「レジ横からしか休憩室には入れないから、出口で待ってな。その方が早い。」
これも毎日のルーティンをそのままに言いながら、何も考えずにシメジは倒れている男達を跨いで歩き出す。
一歩踏みしめるごとに、鈍った思考に喝を入れると、最初に甦ったのは、本社の危機管理の不備に対する怒りだった。本当ならエリアマネージャーに直接追求してやるのに、とシメジは歯噛みした。電話をしている時間は、どうやら無いらしい。
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