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 ろくにページを繰らないままに、午後十二時になった。

 左肩の後方で、こうきくんが立ち上がる気配がする。


 コンビニでお昼を買ってくると言い、川原さんは自習室を出て、こうきくんもまた他の人たちのように自習室を出て行った。喫茶室とか売店なんてない図書館だから、たいていの利用者がコンビニでお昼を買うか、近所の人は家に帰ってお昼を食べる。


 人がほとんどいなくなった自習室は、寒さが膝や足首の辺りにしみた。

 これまでこうきくんは午前中だけとか、午後だけ、という日が多くて。今日みたいに本を置いたまま出ていくのは珍しい。もしかして、この近くに住んでいるのかも。


 わたしはパンとあたたかい紅茶を入れた水筒を持ってきていたけど、そのまま鞄を持って立ちあがった。

 彼を見失ってはいけないと急いで一歩を踏みだした時、机の上に残されていた本が落ちてしまった。


 表紙に書かれている『応用情報技術者、午後問題の重点対策』そしてすぐ近くに濃紺の切り絵になった栞があった。


 花だ。なんてきれい。

 六枚の花弁は華やかで、蕊の部分の密集も緻密に切り抜かれている。確かこの花はクレマチス。でも、和風の印象が強くて楚々としている。


 栞を見つめたわたしは自然と微笑んでいた。

 なんて風流で情緒があるのかしら。少しでも力を入れたら切り絵の細い線が破れてしまいそう。大事にしなくちゃね。


 本を机に戻したわたしは、ティッシュを取りだし、繊細なクレマチスの栞を包んで鞄にしまった。急がないとこうきくんを見失ってしまう。


 小走りに図書館を出ると、髪を乱す意地悪な風が頬を叩きつけた。朽葉が何枚も降ってくる。清掃のおばあさんが箒で掃いても掃いても、きりがない。


 かさりと足裏で乾いた葉の潰れる感触。春には桜の名所になる川沿いに立つ無数の木々も、どれも葉を落としてしまって、みすぼらしい枝を虚しく広げるばかりで寒々しい。


 日が翳り、背を丸めポケットに手を突っ込んで歩く人が数人。何事にも無関心なように、コンビニに吸い込まれてゆく。きっと棚の前でも無表情でおにぎりを選ぶのだろう。

 仄暗く寒い影のなかを春が歩いていた。


 あまりにも目を惹く花園は、川原さんが肩にはおったストールだった。さっきまでひざ掛けにしていた、あたたかな春に咲き誇る花を集めたような鮮やかさ。その少し後ろをこうきくんが歩いている。


 一瞬、花の甘い香りや蜜にまどわされた黒い蝶かと思えた。でも違った。単にこうきくんもコンビニに向かっていただけ。


「なんだ、近所じゃないんだ」


 でも最寄駅が同じだから、彼の家までは徒歩かせいぜい自転車のはず。帰りの時間を同じにして、追跡してみようかな。

 わたしは存在感がないから、気づかれることはない。


 結局、こうきくんはコーラだけを買って戻ってきた。図書館にも自動販売機はあるのに、同じのが売っているのに。気分転換の散歩だったのかもしれない。


 後ろの席から、コーラの甘ったるい匂いが微かに漂った。

 わたしの隣では川原さんが野菜がたっぷり挟んであるサンドウィッチを頬張っている。レタスの緑にトマトの赤、チーズは橙色で白いのは多分、蒸したチキンをほぐしたもの。パンだって白くなくて、全粒粉なのか茶色っぽい。

 なんて健康的。絵にかいたような女子の食べ物。


 この辺りは飲食店がほとんどないけど、川原さんなら駅前でランチを取るなら、きっと具だくさんのスープ、クラムチャウダーとか、きのこのクリームスープとか、ミネストローネとかを選ぶんだろうな。


 わたしは、半額と赤文字で書かれた黄色いシールが貼られたパンの袋を、机の下で開いた。冷えきったウィンナーは縦半分に薄く切ってあって、両端が反り返っている。薄いくせに脂は固まって、パンはもそもそとして。安さだけで、そんなのを迷わず手に取った昨日の自分に嫌気がさした。


 お昼の間だけ物を食べることを許可された自習室は、やはり私語もなく、かすかな咀嚼音やパンやおにぎりの包みを開くかさかさという音がするばかり。

 コーラはこの時季には冷たいから、こうきくんはひとくち飲むと、すぐに缶を机上に置いて手を離す。

 

 午後三時を過ぎて、こうきくんは帰り支度を始めた。何かを探しているように鞄のなかや机の下を覗きこむから。とてもお気に入りの栞なのだと分かった。彼の香気の高い心を形にした栞は、今はわたしの鞄の中にある。香気、高貴、光輝。どれもこうきくんの気高さに相応しい漢字が並ぶ。


 焦る彼に対して、清らかな白い繭を少しずつ毟るような罪悪感を覚えた。或いは乙女の純潔を手にしながら、眺めるだけの王のような全能感。


 つまらない金属のパイプ椅子だったわたしは、今や緋色の玉座。そろそろ椅子に、わたしを座らせてあげてもいいかもしれない。


 図書館を出たら、こうきくんに声をかけよう。「栞が落ちていましたよ」と。その瞬間から、わたしは無機物ではなくなる。

 椅子を引いて立ち上がったその時、鞄からティッシュの包みが落ちた。


「何か落ちたよ」と気軽に拾い上げる川原さんが目を見開いた。透けたティッシュは白い霜が降りたように、クレマチスの濃紺の影を包んでいた。


「わぁ、見つけてくれたの?」


 弾んだ声。自習室にあるまじき声の張りに、一斉に人がこちらを向く。出口に向かっていたこうきくんも。


「ごめんなさい」と周囲に頭を下げながら、川原さんはわたしの手を取ってロビーへと引っ張っていった。温かくて柔らかいてのひらだった。


 大きく開かれた扉を過ぎ、靴の裏に、普段は気にならない点字ブロックの凹凸を感じた。


 ちがう、これはあなたのじゃない。あなたのは武骨な有刺鉄線の絵でしょう? 川原さんの趣味じゃなくて、恋人の好みかもしれないけど。

 人のほとんどないロビーには、市が催すクラシックのコンサートや、能の舞台、シングルマザーのための就業支援のチラシが貼ってある。ふつうに歩くだけでも足音が響くから、川原さんは小声で喋った。


「この鉄線ね、京友禅の柄なの」

「クレマチスでしょう?」


 感動していないで早く返して。こうきくんに渡してあげないといけないのに。


「鉄線よ、鉄線花てっせんか。これは特別に作ってもらったものだから、一点物なの。お母さんが好きな花でね、わたしの浴衣の柄も鉄線なの。大学生にもなってお母さんの趣味が好きだって言ったら笑われちゃうけど。でも、栞なら本に挟んでいつでもお母さんを偲べるから」


 え? だって。

 心臓がつまずいた。


 わたしはリサイクル図書の棚を眺めているこうきくんに、視線を向けた。まばらに置かれた児童書はどれも背表紙が退色していて、タイトルすら薄れて読めない。


 一点物って他には売ってなくて、司書はこれが落とし物箱に入ってるのを知ってて、それをこうきくんは勝手に持っていったってこと? 警察じゃないから、たかが図書館だから、栞だから。落とし物の自己申告をしなくても持って帰れるほどの杜撰さだけど。でも、それって。


 どくん、どくんと何度も何度も心臓がつまずいている。


 いつもはすっとした立ち姿のこうきくんが、他の人と同じように肩とあごを前に出して、みっともなく立っているのに気づいた。

 ちらちらとこちらを窺いながら、たぬきの恩返しと腹話術のコラボの人形劇の案内を見ている。そんなのに興味なんてあるはずないのに。


 川原さんは何度も「ありがとう」を繰り返している。長い睫毛に、澄んだきれいな涙を浮かべながら。

「よかったわ」と口に出すのが精いっぱいだった。


 川原さんは、華やいだストールをはおっていなくても、彼女自身が春だった。散ってしまった花を惜しみ、心の中で大事に抱き続ける汚れない女神。

 そしてこうきくんは、わたしと同じこちら側の人だった。


 その時、水の底から泡のように浮かんでは水面みなもで消えたのは「声をかけなくてよかった」だった。


 何も起こらなかったし、何も変化はない。

 ただ、菖蒲はわたしのなかに根を張らなかった。きれいに見えたけど、あれはただの造花。本物に似せて丹念にこしらえてあるけれど、きっと花弁にも細い葉にも埃がつもった造花。


 きっとコンビニにコーラだけを買いに行ったのも、川原さんを追いかけて。ああ、だから真後ろに座ったのね。

 勉強中に顔を上げれば、視界のすべてが川原さんになるから。彼女が髪をかきあげれば、薔薇の香りがするから。


 わたしは伸びかけた自分の髪を弄った。

 安い匂いがした。


 何度も「ありがとう」と「今度、お礼するね」と頭を下げながら、川原さんは扉の内側へ戻っていった。

 肩の力が抜けた。


 帰ろう。明日も休みなのだから、三級も二級も勉強なんてせずにごろごろしよう。


 ほら、だから空気でいることが大切。誰にも悟られずに、傷つくことも最小限で、そうしていつもの日常が戻ってくる。冴えない、くすんだ枯色の日々でも、何にも心を揺るがすことなく平静で居続ければ、いつかは真白な雪が、惨めな椅子の残骸を覆い尽くしてくれる。そう、問題は起こらなかった。


「いい気味?」


 耳を撫でる言葉は小さかったのに、たった四文字がわたしの背中をざわつかせた。

 顔を上げれば、こうきくんがわたしを睨みつけていた。酔っ払いに目の前で嘔吐されたのを侮蔑するのに似た、冷ややかで憎しみのこもった眼。

 まるでわたし自身が饐えた吐瀉物のように思えるほど。


「いつから気づいていたんだよ。ここでも、電車でも俺のことをじぃーっと陰気な目で窺って、見張って。俺の存在が気に入らなくなったなら、さっさと文句を言えばいいだろ」

「え?」


 何を言われているのか理解できなかった。

 早口のこうきくんの言葉は、耳朶から中に入っていかない。耳の縁や奇妙に窪んだ辺りをさまようばかりで、上滑りで。でも、こうきくんがすごく怒っているのだけは分かる。


 それに「気に入らなくなった」って言った? 「気に入らないなら」じゃなくて。気に入らなくなったって。さっきまでは気に入っていたって勘付いていたの?


「最っ低。あんたストーカー紛いだよね」


 うそ。なんで、わたしが責められてるの?

 暖房の入っていないロビーの寒さじゃない。底冷えの、京都の冬に似たどうしようもないしんとした冷たさが足下から這い上がってくる。


「あ、あなただって同じじゃないの」


 しまった。言葉を間違えた。これじゃ、わたしが彼をつけていたことを認めてしまっている。

 陰鬱な目つきで「本当に最低最悪の女だな」と吐き捨てて、彼は出て行った。


 呆然として、それ以上の反論ができなかった。

 わたし、この人の性格を知らなかったんだ。見た目のままにすがしい人だと、思い込んでいた。だって眺めているだけでよかったから、知る必要なんてなかった。


 涼し気な皮を一枚剥げば、どろどろとした執着が澱になって、淀んで。とても近い位置から好きな相手を凝視するしかないいびつな存在。

 ほら、やっぱりわたしと同じ。

 最低最悪の男と女。


 ああ、こんなにも彼を近しいと感じたことはなかった。こんなにも憎悪したことはなかった。

 金銭でなければ人のものを盗むことを屁とも思わない、ドブ川の中で藻に足を絡ませながら、ただ立っている二人。


 造花の残骸は、お似合いの薄鈍うすにび色の重く湿った空の下へと去っていった。

 家へ戻ろうと踏み出したはずのわたしの足は止まり、踵を返した。

 魂の片割れ、あまりにも憎い、かしいだ背中を追って。

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あなたは花で、わたしは椅子 絹乃 @usagico

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