あなたは花で、わたしは椅子

絹乃

1

 日曜日の午前は眠く重たい空気が滞っている。それでも開館前の図書館には行列ができていた。


 夜に降った晩秋の雨は、しつこく名残を残している。固く閉じられた自動ドアの前の、灰色と消炭色の濃淡に湿ったコンクリートに。


 でも、今朝もこうきくんがいるから。菖蒲あやめが根を水に浸したような姿勢のよい後ろ姿が、すこし前にいるから。わたしは今日も、好きなネット漫画を読むのを我慢して、好きでもない簿記の勉強を頑張れる。


 湿り気を残した風が車道のアスファルトのにおいを運んでくる。十人ほどの並んだ人が、示し合わせたように小さく身を震わせた。


 その時、風にひらめく花園が見えた。瞬きを繰り返して目を凝らすと、それは花ではなくストールだった。

 重い瞼ですらぱっりちと開くほどの澄明で清亮な、躑躅つつじ色やうす桃色に、淡い若葉、控えめなすみれ色を組み合わせた格子柄。花模様ではないけれど、その鮮やかな色だけで、秋の終わりに春のひとむれが存在していた。


 風は、黄色というよりも黄土色に近い公孫樹の落ち葉を滑らせながら吹きぬけた。こうきくんが背筋をただす。他の人たちは、さらに身を縮めて言葉にならぬ「寒い、寒い」を息だけで発しているのに。

 すっと立つ端正な背中を見ていると、ぬくもりが満ちてゆく。こうきくんを眺めていれば、この冬はきっとマフラーもストールも手袋もいらない。使い捨てのカイロなんてなくったって大丈夫。体温も内臓も血行だって、想いひとつで自由自在。


 斜めに並んだ行列のその向こうの、まだ開かない自動ドア。三人ほど前の華やいだストールの女性が控えめに小さく手をふるのが、誰もいない冷え冷えとしたロビーの景色と二重写しになった。


 川原かわはらさんだ。


 いつだったか自習室の隣の席になって、とうぜん私語厳禁だからしゃべったりはしないけど。彼女が消しゴムを忘れたみたいで何度も何度もペン入れのポーチや鞄の底を探っているから、がさがさと物が触れあう音が周囲にうるさいんじゃないかと危惧して、わたしは彼女に消しゴムを貸したのだ。


「わぁ、ありがとう」と、ただ消しゴムを手渡されただけなのに、川原さんは春風をまき散らすような笑みを浮かべた。もっとも「しーっ」と周囲から、窘められていたけれど。川原という名前も、わたしより五歳下の大学生ってこともその時に知った。


 ご丁寧なことに後日、川原さんは小さな箱に入ったチョコレートをくれた。スーパーで売っている食べ慣れたチョコじゃなくて、百貨店で売っていそうな黒いリボンがかかっていた箱。消しゴム一つでそこまでするんだと思いながら丸いトリュフを口に入れた。オレンジフラワーの香りと、薔薇の香りの二粒の白いチョコは、分かったような分からないような味だった。


 こうきくんの背中に可能な限りくっついていたかったのに、手を振られたら振り返すしかない。笑顔を浮かべられたら、反応するしかない。川原さんはそこにいるだけで、自己主張しすぎる。華奢な見た目だけど、控えめなのを嫌って、図々しいのを好むんだと思う。


 わたしは空気でいたかったのに。存在すらも知られずに、こうきくんに一番近い場所にいたかったのに。うまくいけば、自習室でもこうきくんの隣の席に座ることができたのに。


 応用技術なんとかっていう分厚い本をめくるしなやかな指や、ペンを持つ関節の辺りに気だるさを漂わせた雰囲気や、それでも自習室の中で一番姿勢のいい座り方とか。


 いっそもっと近づくにはわたしが無機物になればいい。机でも壁でも、座面と背面が柔らかな金属のパイプ椅子でも。椅子なら腰を下ろしてもらえる、彼の温もりを感じられる。ノートなら、ペンを走らせてもらえる。彼の綴る文字が、筆跡がわたしに残る。


 でもわたしは夢見る少女ではなく、常識ある社会人だから。椅子やノートになりたいなんて不可能なことは望まない。そう、こうきくんの彼女になることも。


 きっかり九時三十分にドアが左右に開いた。のろのろと流れ込む列は、そのほとんどが一階の自習室に吸い込まれ、二階の閲覧室へと階段を上がる人は少ない。今どき、自習室のある図書館なんて少ないから、ここはいつでも混んでいる。自習室なら、スマホを触らずに済むから。そんな理由で通い始めたように覚えている。


「おはよう」と薄紅色の唇が、声を出さずに動く。会釈を返すわたしの隣に、当たり前のように川原さんが座った。「座ってもいい?」とも訊かずに。


 わたしより先に入ったはずのこうきくんは、意外にも一つ後ろの席だった。どうやらどの席にするか迷っていたみたい。

 幸運なことに真後ろじゃなくて、川原さんの後ろ。


 やった、やった。なんてついてるの。これなら、肩越しにちらりと彼の様子をうかがえる。


 冷ややかな白い床と白い壁の部屋、軋む椅子の音。大きな窓から見える外は寒々しい木の枝と、力尽きた茶色い蛾が落ちていくのに似た朽葉が、風に翻弄されているのに。わたしの中で炭酸がはじけた。


 こうきくんの勉強する姿が、こんなにも近くで見られる。炭酸は夏の青空を伴って、懐かしいサイダーの甘さが胸いっぱいに広がった。

 こうきくんを初めて知ったのは、去年の春。出勤の電車内だった。


 七時前半の電車は社会人が多くて、大学生は少ない。むしろ高校生の方が多いほど。足を開いてだらしなく座るおじさんや、スマホを触っている男性も女性も、みな背を丸めて二重顎になりながら顔を上げずに一点を見据えてる。


 鬱陶しく濁った人々が群れる中、彼はすっと立って、本を読んでいた。菖蒲、その時も彼の後ろ姿をそう思ったんだ。

「こうき」という名前を知ったのは、途中で乗り合わせた彼の友だちが「こうきも一限か。朝早いから面倒だよな」と声をかけたから。だから苗字は知らない。


 早々にゲームを始める友人と、挨拶もそこそこに勉強に戻るこうきくん。あまり喋らないんだ、わたしと同じ。一人が好きなんだ、ほらわたしと同じ。資格の勉強をしているんだ、ほら、もう運命だよ。これは。


 にやけそうになる口許を、簿記三級の問題集で隠す。彼が「こうき」だと知ってから、わたしの中に彼が存在した。


 車窓に流れる景色は、薄紅の桜色。遠くに紫に煙る山と、斜面を這うような建物の集合体。帰宅の電車では綺麗に見える夜景も、朝の鮮烈な何もかもを暴く光の中では、それらはただのつまらない家や古いビル。それでも春は桜が咲くから、白やうす桃色に染まったはなやいだ空気が、鶯色に澱んだ川面や薄汚れた壁面を隠してくれる。


 車内の歪曲した人々の中で、こうきくんだけが直線だった。ほんの少し手を伸ばせば届きそうな鮮やかな紫の菖蒲。けれどもし声をかければ逃げられる。明日から、この車輌に彼は乗ってこない。


 だからひと月後、図書館の自習室に座るこうきくんの後ろ姿を見つけた時は、心臓が跳ねた。端正な背中に手を伸ばしそうになって、左手で右手を押さえるのに必死だった。だめ、彼を眺める為にはわたしは存在を気取られてはならない。


 電車の車輌も一緒で、休日を過ごす場所も一緒。先輩に「三級すら合格する気がないん?」と嫌味っぽく言われて自習室通いを始めたけど、今はそれすらも感謝。


 跳ねた心臓は、窓から見える春の滲んだ白っぽい青空に浮かんでいきそうだった。うす緑の葉桜も、さわとそよ風に揺れて、わたしのことを応援してくれている。

 秘めた恋、決して自分の存在も主張しないし告白はしないけれど常に傍にいる。なんて大人な恋愛。その考えは心ばかりか体まで有頂天にさせた。 


 十二月が近い自習室には暖房がうっすらと入っているけれど、まだ全体が温かくはなっていない。川原さんは用意がいいことに鮮やかな赤や躑躅色、うす桃色に淡い若葉色の格子柄のひざ掛けを腿に掛けていた。さっき風に揺れていた花園。


 女子らしくて高級な、たしかアイルランドの有名な織物。触れてもいないのにその柔らかさや、脚や手の形に寄りそうしなやかさが伝わってくる。日本の濁り湿った空気の中では、この澄明ですみきった色は滅多に見かけない。


──この間、しおりを落としちゃって。


 川原さんは自分のノートの端にさらさらと書きつけた。

 銀色のシャープペンシルは一万円どころではなさそうな、売り場では、ガラスのショーケースに入ってる感じ。

 長年使い続けた、百均のシャープペンシルを持つわたしの指がためらった。


──二階のカウンターに届けた? どんなの?


 わたしのより五倍は高そうなノート。彼女の文字の側にシャープペンシルを走らせるのは戸惑ったけど。でも、五倍書きやすいとか、字がきれいに見えるわけではなかった。


──京都で買ったお気に入りなの。司書さんは、見かけて落とし物の箱に入れておいたけど、おかしいわね、って。


 川原さんの文章には読解力が要求される。要するにもう届を出して、司書が保管していたのに行方不明ってことなのか?

 川原さんは柔らかそうな髪をかきあげた。ふわりと甘い香り、花の盛りの薔薇園のようなかぐわしい香りがする。


──鉄線の模様なんだけど。


 薄くて端正な文字が続けて記された。

 鉄線? 変わった柄だと思ったけれど、書きはしなかった。

 人の好みは分からない。川原さんはふわふわと綿菓子みたいな、スミレの花の砂糖漬けみたいな、理知的ではなく苦労知らずのお嬢さまだろうに。有刺鉄線とか。彼の趣味かな?


 後ろでファスナーを開く音がした。

 こうきくんだ。リュックからノートやペンを取りだしている。川原さんのつまらない悩みは、一瞬にして霧散した。


 ああ、あまり首を動かせないのがつらい。こうきくんを横目で見るにも角度的には限界がある。

 彼の隣の席は空いたまま。川原さんがいなければ、何食わぬ顔でこうきくんの隣に座れたのに。洩れかけた小さなため息を飲みこむと、体の中に雨雲が生じた心地になった。


 わたしは面白くもない簿記の問題集を取りだす。この間受けた三級の発表がまだだから、次の二級に進んでいいかどうかが分からない。経理だから、会社から資格を取れと言われて仕方なく勉強しているけど。三級はもう三度受けている。


 前回の試験は確か合格率が低くて、しかも計算用紙が問題と一緒に綴じてあったから、とても解きにくくて。いちいち頁をめくって、電卓を叩いて計算用紙に数字を書いて、また元の設問のページに戻って。紙をめくる音ばかりが試験会場に響いて、焦れば焦るほど苦手な問題の足を引っ張ってくる。


「どうして通らないの? 別に難しくもないでしょ。電卓だって持ち込めるし、年に三回は試験があるじゃない。ちゃんとやってる? やってるつもりになってるだけなんじゃないの?」と先輩が倦怠感を眉間ににじませて、ため息をついたけど。無理なものは無理。先輩だって、今回の条件じゃきっと三級も通らない。そんなことも知らないくせに。そう言えたらきっとすっとするのに。


 川原さんはTOEICの問題集を開いて、すぐに集中した。ノートの右上には今も筆談が残っている。でも、それ以外の落書きはなさそう。頭は良くなさそうなのに、きっとスコアはいいんだと思う。いるよね、英語だけ得意な子。


 わたしはまだノートも開いていない。問題集を二冊、どちらを鞄から出すか迷ったまま。

 そのノートだって、隅に描いた先週の落書きがまだかすかに残っている。筆圧を落としてこうきくんの似顔絵を描いたけど、あまりの恥ずかしさにすぐに消しゴムで消して。でも、淡い黒は消えても、くぼんだ線にこうきくんが残っている。


 もしかして、この自習室にわたしは場違い? まさかわたし、頭が悪い? ふと頭に浮かんだ言葉は、服を着たままの背中にひとすじ、冷たい水滴が背骨にそって流れ落ちるに似た不快感だった。


 そんなことない、絶対にない。

 集中、集中しなくちゃ。でないとまた同期の子だけが先に進む。同じ経理に配属されたのは二人。もう一人は大学時代に簿記の三級を取って、今は二級の勉強をしている。

 入社式で「内定をいただいて、卒論も早めに上げて時間がありましたから。その頃から二級の勉強もしています。本当に難しくて大変ですけど、工業簿記の方を押さえるといいと知ったので、そちらを頑張っています」と、にこやかな笑みを浮かべて、よどみなく受け答えする彼女は、今でも人事の人に可愛がられている。

 まず最初に浮かんだ言葉は「ずるい」だった。


 元から経理を希望してて、念願通りの配属だったくせに。わたしは、人事とか広報とかそっちを志望していたのに。


 どうして卒論を書き終わったのに勉強していたの? ふつう遊ぶでしょ。いるわよね、そうやって隠れてこそこそと勉強する子。そのくせ、テスト当日までは「ぜんぜん勉強なんてしてないよ」って平然と嘘をつく子。そういうキャラって、ネットの漫画や小説だったら「ざまあ」の対象だよ。酷い目に遭って、落ちぶれるに決まってるんだから。


 川原さんもそうなのかな。

 嫌な考えが頭の中を支配して、じっとりとした黴がはびこって、体が内側から腐っていくような感覚。


 ああ、いや。綺麗にならなくちゃ。清浄に。こうきくんに相応しい、清らかな女性にならなくちゃ。わたしは思い切って肩越しにこうきくんを見遣った。

 さらさらとシャープペンシルを走らせる指。うつむいてさらりと額にかかる前髪と、長い睫毛。隣でも川原さんがノートに英語を書いている。


 わたしだけが、空白のまま。二級か三級か、問題集を選べずに指がさまよったまま。

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